[ソウルの中の歴史] JAPAN

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歴史の足跡

KAL大韓航空ビルは、韓進グループ所有のオフィスビルだ。建築面積4万1,012㎡に地下2階、地上23階規模で、1年6ヶ月間の工事を経て1969年9月に竣工された。このビルは、建設当時だけでも、高さと規模の面で韓国最大・最高を誇った。また、韓国初のヘリポートを設置し、エアコンとエレベーターなど最新の設備を備えていた。地下1階と2階は駐車場として使用し、車両の建物入車と出庫の便宜を図った。 KAL大韓航空ビルが特に有名になったのは、ここが1971年9月15日にあった、いわゆる「KALビル放火事件」の現場だからだ。当時、韓進商社は「越南商社」という別名があるほど、「ベトナム特需」で金を稼ぐ新興財閥として急浮上した。韓進は1966年5月以降、ベトナムに派遣する労働者4,000人を週60時間勤務、賃金月340ドル(宿泊費100ドル別途)の労働契約条件で採用した。しかし、延長労働をさせ、賃金未払いなど、労働契約に違反する事例が多かった。 会社側のこのような処置に激怒した労働者は、1969年11月に「韓進商社所属派越技術者未払い賃金清算闘争委員会」を結成して、賃金訴訟など様々な手段と方法を講じたが、特に効果がなかった。これに闘争委員会のメンバー400人余りが、韓進商社本社があるKAL大韓航空ビルに進入し、149億ウォンの未払い賃金の支払いを要求した。彼らは、激しいデモの最後に放火し、まもなく出動した警察によって強制的に解散させされた。 この事件は、当時の非組織的労働運動の限界を端的に示した事件だった。1970年11月、全泰壹の平和市場焼身自殺事件以来、労働運動が増加していた。このような雰囲気の中で、KALビル放火事件はその爆発力がとても大きい事件だった。しかし、組織化されていない闘争だったせいで、政府が労働者66人拘束という強硬対応に出ると、闘争はそのまま終わってしまった。そして、この事件は同年10月にソウル民事地方裁判所が訴訟を提起した11人に、1人当りの要求額の10%程度を支給するように原告勝訴の判決で終了した。 KAL大韓航空ビルは竣工当時、韓国最大・最高の規模と設備を誇ったという点で、建築史的に意味があるが、何よりも1970年代の労働運動の一画をなした「KALビル放火事件」の歴史的な現場だったという点でも特別な意義を持つ。

現代/1969

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区小公洞

韓進ビル、KALビル

南廟は、関羽を祀った東西南北の4つの祠堂のうち、南にあった祠堂を指す。中国では、漢の時から関羽を戦争から助け財産を増やす神として神聖化されてきた。韓国では、壬辰倭乱の時朝鮮に出兵した明の将帥の主導で、関羽祠堂が作られるようになった。 南廟は、壬辰倭乱中の1598年に初めて作られた。壬辰倭乱の時、朝鮮に出兵した明の将帥陳寅は、日本軍の主陣地の蔚山城に集結して殲滅する作戦を立てた。しかし、予期せぬ日本軍の決死の抗戦で、むしろ名君と朝鮮軍が包囲された。その時、関羽が現れて包囲網を解いてくれた。 陳寅は、関羽のおかげで助かったと思った。これに負傷の治療のために滞在していたソウル崇礼門外の住まいの後苑上部に関羽の像を祀り、祭祀を執り行なった。そして明に帰国後、神宗に進言して、新宗と宣祖の命で光王墓、つまり南廟が築かれた。これが、ソウルで最初に作られた関羽の祠堂であり、韓国の関羽信仰の出発点だ。 1601年(宣祖34)には、王命で興仁之門(東大門)の外に東廟が建てられた。以後、1883年(高宗20)には、成均館の裏山に関羽祠堂を作って北廟とし、1902年(光武6)には、西大門区天然洞に西廟を設立した。北廟と西廟は、日帝強占期に東廟と合体した。 南廟は光復後、民間団体に払い下げされ、本来の座を守っていた。しかし1979年1月、都心再開発事業としてテウビルとヒルトンホテルの建設過程で舎堂洞に移転した。

朝鮮/1598

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区南大門路5街

南関王廟址

明洞聖母病院は1936年、財団法人カトリックソウル大教区維持財団で設立したもので、韓国カトリック初の正式病院だった。韓国カトリックの医療活動は、1930年代初めまでの各地方に設立された施薬所を中心に運営された。そうするうちに1920年代に各地方のカトリック教区で11ヶ所の施薬所を運営しながら、大きな反響を得ると、これが医療事業を活性化させるきっかけとなった。当時の朝鮮教区設定100周年記念事業として、カトリック病院設立問題が正式に提起された、これに1935年、財団法人カトリックソウル大教区維持財団で、京城府永楽町1丁目39番地にある日本人経営の村上病院を買い入れた。同年4月18日、病院設立許可を受けて1年間建物修復後、1936年5月1日ラリボ(Larribea)司教の病院降福式を経て、5月11日聖母病院を開院した。これが、韓国カトリック初の正式病院開院だ。 開院当時の病院は、入院室24病床と外来や薬局、検査室などが設置され、それほど大きくない規模だった。医療陣は医師4人、日本人薬剤師1人、看護婦10人など計15人だった。主な診療科目は内科と小児科で、初代病院長は朴秉来だった。 1954年4月8日、聖心大学医学部(現カトリック大学城聖医キャンパス)が設立されることによって、聖母病院は医大付属病院に昇格した。そして1959年に旧聖母病院の建物と医学部を壊し、1961年12月1日新たに総合病院を建設して、臨床全科目の診療を開始した。延べ面積9,547㎡に地下2階、地上7階、300病床を備えた最新式の病院だった。 一方、汝矣島総合計画に基づき、1974年5月には汝矣島に5階建ての汝矣島聖母病院を開院した。初期には明洞本院の精神科だけを移転して精神科病院として運営した。しかし、より良い発展のために1986年永田町62番地(現汝矣島聖母病院)に地下2階、地上13階、625病床の超現代的な病院を設立した。そして明洞の病院を汝矣島に移転し、華麗だった明洞時代を終えた。 聖母病院は1969年、韓国で初めて腎臓移植に成功し、1967年眼銀行を設置して、2004年2月までに計1,439人に角膜移植術を施行するなど、医療界に貢献した場所が大きい。また、1957年にインターン・レジデント修練病院に認定された後、多数の医療関係者を輩出して名実共に教育病院として医療の発展に一翼を担っている。旧明洞聖母病院は、1986年11月ソウル大教区で建物を改・補修してカトリック会館としてオープンした。

日帝強占期/1936

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区苧洞1街

ソウル白病院は、京城医学専門学校外科主任教授だった白麟済が、ソウル明洞エリアに立てた病院だ。白麟済は、1928年日本東京帝国大学で医学博士号を取得し、1936年には1年6ヶ月間フランス・ドイツ・アメリカに留学した。彼は当時、国内医術系の第1人者として指折り数えられるほどの実力派だった。 1932年、京城医学専門学校外科の兼職主任教授だった植村博士が、日本に帰国することになり、植村外科医院を残した。植村先生と同様に京城医学専門学校外科主任教授として働いていた白麟済は、植村外科医院を買収して1940年白麟済外科医院を開院し、これが現在の白病院の母胎だ。当時、白麟済が掲げたスローガンは「仁術済世」と「仁徳済世」だった。 光復になると、白麟済はこれまで自分が集めた財産をすべて社会に還元することを決意した。その結果、1946年12月財団法人白病院を設立し、これが韓国初の民立公益法人だ。しかし、1950年に6・25戦争が勃発し、白麟済は弟の白鵬済と共に拉致された。以後、病院は彼らの息子の白楽朝と白楽晥が受け継いで運営した。 1979年、白楽朝が仁済大学を設立し、1983年9月仁済医科大学が仁済大学に改編されるに伴い、病院の名称を仁済大学校付属病院に変えた。続いて1979年に釜山白病院をはじめに1989年ソウル上渓白病院、2000年一山白病院、2001年東莱白病院、2010年海雲台白病院を設立した。 白病院は、創設者白麟済の意を受け継ぎ、医学研究の向上および疎外地域の医療特典の拡大、奨学金制度など各種社会事業を実施している。 一方、「韓国のシュバイツァー」と呼ばれる張起呂博士は、白麟済の弟子であり、釜山白病院の名誉院長を務めた。

現代/1946

場所及び施設/その他の付帯施設/総合病院

ソウル特別市中区苧洞2街

仁済大学校白病院

大陸ゴム工業会社は、韓国初のゴム製品製造工場だった。1919年8月、当時京城の元暁町1丁目(現在の龍山区元暁路1街)で李夏栄が設立した。 1880年代から日本からゴム靴が輸入され、韓国で大人気となった。李夏栄はこれを見て、直接ゴム靴を作ってみようと考え、ゴム会社を設立した。しかし、ほとんどの人々は、このような考えに懐疑的だった。それでも彼は朴泳孝・尹致昊など、当代の財力家であり権威者の獲得に成功し、このことから韓国のゴム製品が本格的に普及し始めた。 李夏栄は元暁町1丁目に会社を設立し、後ろに生産工場を置いた。続いて1920年には咸鏡道元山、慶尚南道東莱と機張、平安南道平壌などに工場を追加で設立した。最初は単純なゴム工業会社だったが、事業の成功をもとに、1922年には資本金50万ウォン、株主500人余りを率いた大陸ゴム工業株式会社に成長した。 大陸ゴム工業株式会社では、韓国で初めて黒いゴム靴とゴムボールを生産した。それまでのボールは、牛や豚の膀胱に空気を入れて使い、これは徐々に大陸ゴムのゴムボールに変わって行った。また、底だけがゴムになっていた日本式ゴム靴を改良し、全体をゴムで製作した朝鮮式ゴム靴を作った。当時のゴム靴は草履よりも耐久性が良く、雨が降っても水が入ってこなかったため、非常に人気を集めた。そして後には、商品名があるメーカーの黒いゴム靴「大将軍」を発売し、成功を収めた。 正確な年代は分からないが、後に大陸ゴム工業株式会社は、中林洞155番地一帯に工場を移転した。1936年を基準にソウルに25ヶ所のゴム工場があったが、その中で中林洞にだけ8ヶ所があった。1942年までソウル27ヶ所のゴム工場のうち11ヶ所が中林洞に密集しているほどだった。このように、当時の中林洞は韓国ゴム工業の中心地だった。 大陸ゴム工業株式会社は、2000年代まで靴を作る工場として継続して使用された後、撤去された。その場所には、2012年中林総合社会福祉館が建立され、現在に至る。

日帝強占期/1919

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区中林洞

新堂洞カトリック教会は、6・25戦争後、ソウル修復直後の1951年に日帝時期の洗濯工場で使用された敵産(光復後、米軍政が日帝強占期当時日本人が設立した企業・所有していた不動産・搬入したが持って行かなかった動産などを総称した言葉)の敷地を払い下げられ、現位置に設立された。そのルーツは、1948年近くにあった新堂洞カトリック神社の公所として始まった。主保聖人(カトリック教会などで特定の個人・団体・地域・国・教区・聖堂などの保護者として信奉する聖人)は、リジューのテレーズ(St.Therese of Lisieux)だ。1954年、新堂洞カトリック教会付属クンファ幼稚園が開園し、現在まで運営している。1954年、カトリック教会の建物が新築され、1967年に付属建物が、そして2004年に修道院が新築され、現在に至る。 教会の名前であり、周辺の洞名の新堂洞は、朝鮮時代に光熙門の外一帯に巫女が多く集まっていたことから神堂と呼ばれたことに由来した。1894年の甲午改革の時に神堂を新堂と改め、日帝強占期にも洞名が維持され、現在まで使用されている。

現代/1951

文化/築造物/聖堂

ソウル特別市中区茶山洞

奨忠教会は1954年に設立された大韓耶蘇教長老会所属の教会である。創立当時の名前はトンシン教会で、1代担任牧師はイ・ウンファ牧師であった。1955年に奨忠教会に改称し、現在の敷地には1964年に教会建物を竣工した。1981年奨忠教会教育館を増築し、2005年に大規模な増築工事が完了した。 教会の名前をはじめとして、周囲の洞名である奨忠洞の由来は、大韓帝国末期である1895年、明成皇后が殺害された乙未事変当時、命を捧げた忠臣と烈士を称えるために建築した奨忠壇からきた。

現代/1964(竣工)

文化/築造物/大型教会

ソウル特別市中区奨忠洞1街

大韓商工会議所は韓国の商工業の振興に寄与することを目標に作られた、財界の利益を代弁する団体である。大韓商工会議所の起源は大韓帝国末期である1884年に設立された漢城商業会議所で、1896年漢城商務会議所に改称され、1905年京城商業会議所に改称された。1910年の韓日併合後、1915年朝鮮商業会議所に改称した。解放後の1946年、朝鮮商工会議所に再編され、1948年現在の名称に変更された。まもなく、1952年商工会議所法が公布されることによって、大韓商工会議所および地方商工会議所の組織が公法人として認可され、2013年を基準として71の地方商工会議所が運営している。大韓商工会議所、全国経済人連合会、中小企業協同組合中央会、韓国貿易協会をあわせて経済4団体と呼ぶ。 ここには1915年に設立された南大門公立尋常小学校があった。この学校は1941年に南大門国民学校に改称され、光復後の1946年に新しく学校設立認可を受けて維持された。1979年に廃校になって残った学生たちは南山国民学校に吸収・編入され、学校の敷地に大韓商工会議所の社屋を建てることに決めた。1982年から着工に入り、1984年地上20階地下6階規模で完工して今日に至る。

朝鮮/1884(設立), 現代/1984(社屋完工)

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区南大門路4街

ソウル地方雇用労働庁は大韓民国雇用労働部の傘下機関で、ソウル市内の勤労者の権益を保護して雇用政策を推進する機関である。雇用労働部は1948年大韓民国政府樹立の時に発足した社会部傘下の労働局がその始まりで、1955年社会部が保健社会部に改称され、1963年保健社会部傘下の労働局が労働庁に、1981年労働庁が労働部に昇格し、2010年労働部が雇用労働部に再編されて今日に至る。 雇用労働部は雇用・労働政策に対する実質的な業務遂行のために、全国各地域に零細勤労者の就業斡旋のための労働事務所を置き、これが各地方の雇用労働庁の始まりとなった。最初の組織は1963年に開所した太白地方労働事務所で、1968年ソウル職業安定所が開所した。以後、1981年労働庁が労働部に再編されることによってソウル職業安定所はソウル市内の各地方事務所に改編されたが、1987年ソウル地方労働庁が発足し、2010年ソウル地方雇用労働庁に改称された。 現在の建物は1987年に地下4階地上27階規模で建築された長橋ビルで、ここには東亜百貨店がフランスのオ・プランタン(Au Printemps)社と契約を結んで1988年から開店したプランタン百貨店があった。以後、1997年に閉店して建物が和成産業に買収され、2006年に和成産が建物を再びソウル地方労働庁に引き渡し、2007年からここをソウル地方雇用労働庁の庁舎として使っている。

現代/1987

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区長橋洞

水協、すなわち水産業協同組合は漁民と水産物加工業者の協同組織として1962年に発足した。その起源は1937年5月に発足した朝鮮漁業組合で、以後1944年朝鮮水産業会に、光復後の1949年韓国水産業会に改称された後、1962年中央会と会員組合が同時に発足した。1963年に与信(貸出)業務を開始し、翌年の1964年受信(預金)業務を開始して徐々に金融機関の性格を備えて今日に至る。水協の事業内容は大きく漁民指導事業、漁業経済事業、信用事業、共済事業に分けられ、現在70の地区別組合、20の業種別組合、2つの水産物加工組合を備えている。中央会はソウル市松坡区にある。 この水協組織のうち水協中央会の信用事業部分を水協銀行と略称したりもするが、中区南大門路117茶洞ビルに水協銀行のソウル中央支店が位置している。東亜ビルは1986年に地下4階地上15階規模で完工した。水協銀行ソウル中央支店は2010年に単一営業店で最初に外国為替取引実績10億ドルを達成した。また、ここの洞名である茶洞は、朝鮮時代にこの地域に朝廷の茶礼を主管する官庁である茶房があったことから由来した。

現代/1986

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区茶洞

保救旅館は1887年に設立された韓国最初の女性専門病院で、1885年に施病院を開設したスクラントン(William Benton Scranton)の要請により建てられた病院である。 1887年スクラントンは当時朝鮮の女性たちが男性たちの出入りが頻繁な病院に来ることを敬遠するという事実を知って、女性たちだけのための病院設立基金の請願をアメリカ監理教女性海外宣教部に提出した。これが承認され、同年10月に監理教の女医師であるハワード(Meta Howard)が来韓し、貞洞にある梨花学堂の構内で女性患者を治療し始めたが、これが保救旅館である。韓屋を改造して病院にしたので、入院室はオンドル部屋だった。名称は高宗または明成皇后が下賜したと推定される。 保救旅館は最初の10ヶ月間に1,137人を治療し、翌年には1,423人の患者を診た。過剰な業務によってハワードは健康を害して故国に戻ることになり、以後ハワードの後任が来るまでスクラントンが約1年間患者を診た。 1890年10月にハワードの後任にシャーウッド(Rosetta Sherwood)が赴任した。彼女は赴任2年後「女性のための医療事業は女性の手で」というスローガンの下、最初の女性医学教育を実施した。まず、梨花学堂の学生4人と日本人女性1人で医学訓練班(Medical Training Class)を組織し、彼女らに基礎的な医学訓練をさせた。その中の一人であるパク・エスダー(またはキム・エスダー)は1896年10月にアメリカに留学し、ボルティモア女子医科大学に入学して正式に医学授業を受け、1900年に医学博士学位を取得し、帰国して韓国最初の女医師になった。 保救旅館は1892年に東大門の方に東大門分院を設置し、その名前を「ボールドウィン施薬所(Baldwin Dispensary)」と呼んだ。監理教医療宣教の東大門への進出は当時アメリカ公使館をはじめとする外国公館があって韓国人が近寄り難いというスクラントンの判断のためだった。 一方、保救旅館では韓国で最初に正規看護教育も行われた。1902年に来韓したエドモンド(Margaret J. Edmunds)が保救旅館に1903年看護員養成所(The Nurses’ Training School)を設立して韓国人看護員の養成を担当した。この養成所は後に東大門病院に移転し、1906年に設立されたセブランス病院看護員養成所と統合した。その時まで保救旅館内にあった看護員養成所で60人の看護員を輩出し、近代初期の医療人の養成に大きく貢献した。 この渦中に貞洞にあった梨花学堂が大きくなり、保救旅館も現代式に改造しなければならなかったため、1909年今の東大門梨花女子大学校医科大学付属病院の場所に当時最大規模の現代式婦人病院建物を着工して1912年に竣工した。最初の病院名は「ハリス記念病院(The Lillian Harris Memorial Hospital)」で、以後貞洞にあった保救旅館が東大門に移転してこの病院に統合された。 1930年からは「東大門婦人病院」に名前が変わり、1945年梨花女子大学校に杏林院医学部が創設されることによって東大門婦人病院は梨花女子大学校付属病院になった。 保救旅館は貞洞で1887年から1912年まで存続した。韓国女性医療事業の始まりとなり、多くの医療陣を輩出するなど草創期の韓国保健医療の発展に大きく尽くしたという点で意味がある。

朝鮮/1887

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

施病院址は1885年医療宣教師スクラントン(William Benton Scranton)が1885年に建てた施病院があった場所である。今の貞洞教会がある所と隣接した場所で、宣教100周年記念礼拝堂の西側一帯である。 スクラントンはアメリカ北監理教会医療宣教師として1885年に韓国に来た。彼は宣教活動の根拠地を設けるために、アメリカ公使館の斡旋で貞洞に独立家屋2軒が付いた約6,000㎡の敷地を買い入れた。その西側の家はアペンゼラー(Henry G. Appenzeller)夫婦が使い、東側の家は家族である母のメリー・スクラントン(Mary F. Scranton)女史など一行が使った。引き続き、貞洞32番地一帯の丘も買い入れたが、ここが梨花学堂が建つ場所である。 一方、スクラントンはアメリカから送った医療機器と薬品が到着すると、1885年9月にまず自分の家で医療活動を開始し、1886年には「東側の家」を買って修理した後、正式に病院を開院した。アペンゼラーが運営していたこの小さな病院に「施病院」という名前が付けられたのは1887年3月頃だった。名称の由来については知られていない。但し、スクラントン自身の漢字式の名前が「施蘭敦」という点と、「施」が「施す」という意味を含んでいるところから取ったのではないだろうかと推定される。スクラントン自らは病院を「ユニバーサルホスピタル(Universal Hospital)」とも呼んだ。また、《ザ・コリアン・リポジトリ(The Korean Repository)》1892年8月号に第8回監理教宣教会年次総会に関する内容が収録されているが、このうち「貞洞病院(The Chong Dong Hospital)」という項目に「入院1,000人、診療召喚者2,224人、合計3,224人」という記録がある。これに伴い、貞洞病院が施病院の異称とも推定される。 施病院は貞洞で1895年まで約10年間運営された。以後、メリー・スクラントンが1889年主に庶民層が集まって住む南大門路周辺の尚洞地域、今の尚洞教会一帯約7,300㎡の敷地を買い入れ、これを直して1890年10月に尚洞病院を開設した。普段、常住人口が多い尚洞に自分の病院を移すことを渇望したスクラントンの望みにより、施病院は1895年尚洞病院に統合された。 その後、スクラントンは1907年に親日志向が濃厚だった監理教宣教部のハリス(M. C. Harris)監督との意見衝突で宣教師と牧師職を辞任し、聖公会に移った。国内と中国などで医師として活動したが、1917年に日本に渡った後、1922年に神戸で死亡したと伝えられている。したがって、スクラントンの晩年の行跡については国内に資料がほとんど残っていない。但し、《毎日新報》に1913年1月から3月頃まで施蘭敦病院に対する広告が数回登場することから推察すると、この頃までは医療活動を続けていたものと推定される。 スクラントンが去った施病院の場所に貞洞教会が建設されたという資料がたくさん伝えられているが、旧施病院と指摘される韓屋建物が貞洞教会の竣工後にも存在したことを示す写真記録が残っている。また、《ザ・コリアン・ミッション・フィールド(The Korea Mission Field)》1930年5月号にブロック(M. Bernita Block)が書いた<誰も知らない家(The House Nobody Knows)>という文を見れば、施病院建物がその後にも外国人宣教師の居住地として使われたという事実を知ることができる。 施病院址は韓国の近代医療と女性教育に貢献したスクラントン家族が初めて開設した病院があった場所という点と、韓国最初の監理教教会である貞洞教会と関連深い場所という点で意義がある。

朝鮮/1885

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

施蘭敦病院、ユニバーサルホスピタル(Universal Hospital)、貞洞病院

ステーションホテル(Station Hotel)址は1900年代初期にソウル特別市中区忠正路西大門停留所付近に位置したステーションホテルがあった所である。19世紀末、朝鮮を訪問した外国人は朝鮮の宿泊施設に対して不便を訴えることが多かった。そのため、彼らはほとんど自国の公使館や領事館に泊まるのを慣例としていた。それだけ当時の朝鮮は高級宿泊施設であるホテルの必要性が切実だった。このような状況でソウルと仁川の間に敷かれた京仁線の敷設を契機に、1901年頃便宜施設をまんべんなく備えた西洋式ホテルがオープンした。それは大安門(現在の徳寿宮大漢門)前のパレホテル(Hotel du Palais)と西大門停留所付近のステーションホテル(Station Hotel)だった。 ステーションホテルは名前そのまま「西大門停留所」のそばにあることから「ステーションホテル(駅前ホテル)」といい、「停車場旅館」などとも呼ばれた。京仁線を経て済物浦からすぐにソウルに入ってくる外国人たちがこのホテルの主な顧客だった。また、ここは1899年に開通した清涼里から西大門区間の電車の終点である京橋付近にあったので、交通上の利点を誇るホテルでもあった。 ステーションホテルの建設は《ザ・コリア・レビュー(The Korea Review)》の1901年4月号にエンバリー(W. H. Emberley)が京釜線の終着駅付近に西洋式の住宅を確保し、これを外国人ホテルとして開場したという記事から確認することができる。1901年に来韓したアメリカ人写真旅行家ホームズ(Elias Burton Holmes)の書籍でもこのような内容を確認することができる。ホテルの主人であるエンバリーは《独立新聞》が整理される時、最後に買収して1899年6月新聞社の社長に就任した人物で、これに先立ち1898年6月から三文出版社の印刷監督も引き受けた。 当時の色々な記録を見ると、ステーションホテルは最初瓦の韓屋から1904年頃に新しい西洋式2階建物を完工したものとみられる。これを契機にホテルの名前も「グランドホテル(Grand Hotel)」に改称したと推定され、以後1905年後半頃に「アスターハウス(Astor House)」に名称を再び変えた。 アスターハウスの主人はフランス人のマルティン(L. Martin)だった。よく「馬田」または「マッタン」という名前でも広く知られていたマルティンはアスターハウスを買収するのに先立ち、徳寿宮大漢門の前にあったパレホテル(Hotel du Palais)を運営した経歴のある人だった。名称の変更はマルティンのホテル買収と関連があるとみられる。マルティンは1907年以降、活動写真演劇場の運営に関連した活動が注目されるが、アスターハウスも宿泊施設という意味よりは草創期の活動写真、すなわち映画の大衆化に相当な寄与をした場所とも評価される。 また、ここは《大韓毎日申報》の社長だったイギリス人のベセル(Ernest Thomas Bethell)が亡くなったところでも有名である。ベセルは《デイリーメール(Daily Mail)》の特派員として来韓し、1904年7月梁起鐸とともに《大韓毎日申報》を創刊し、以後乙巳勒約の無効を主張するなど抗日活動を続けたが、1909年5月心臓病でこのホテルで病死した。 1910年7月以降、アスターハウスは売買広告が残っているだけで、宿泊施設や活動写真館としてその跡は残っていない。このホテルの主人だったエンバリーやマルティンの活動も同様である。しかし、景福宮から徳寿宮を経て南大門とソウル駅に至るまでソウルの西部地域一帯を示した1930年代の航空撮影ガラス原板資料を通じてアスターハウスの建物がその時まで健在だったことを確認することができる。以後、アスターハウスの場所には1933年朝鮮金融組合連合会本部が位置することになったが、これが現在の農協中央会の前身である。

大韓帝国/1901(推定)

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区忠正路1街

停車場旅館、グランドホテル(Grand Hotel)、グランド旅館(Grand旅館)、馬田

パレホテル(Hotel du Palais)址は1901年頃大韓帝国時期に設立されたパレホテルがあった所である。19世紀末朝鮮を訪問した外国人は朝鮮の宿泊施設に対して不便を訴えることが多かった。そのため、彼らはほとんど自国の公使館や領事館に泊まるのを慣例としていた。それだけ当時の朝鮮は高級宿泊施設であるホテルの必要性が切実だった。 韓国で「ホテル」という名前を掲げて本格的に営業を始めたのは、大安門(現徳寿宮大漢門)前のパレホテル(Hotel du Palais)と西大門停留所付近のステーションホテル(Station Hotel)だった。1880年代から仁川地域ではホテルが盛業していたが、首都ソウルに西洋式ホテルが建ったのはこの時がほとんど初めてだった。一般的にソウルの近代西洋式ホテルの最初は孫澤ホテル(Sontag Hotel)が広く知られているが、これは大韓帝国の皇室で運営した特定ホテルで、建物新築やホテルの営業開始もパレホテルより遅かった。 パレホテルの設計と建築過程については資料が残っていないため分からない。但し、当時の写真を見ると、2階建てのレンガ建物で、1階には雑貨店を兼ねて設置したのを確認することができる。そして、パレホテルを利用した外国人の記録によれば、ホテルに入浴施設が備わっておらず、不便だったものとみられる。 パレホテルは1905年2月に火災が発生して一時営業を中断し、1907年3月セントラルホテル(Central Hotel)に名称を変えて再開業した。そして、1908年5月にホテルを拡張して再び開業し、名前をパリスホテル(Palace Hotel)に変えた。 パレホテルの撤去過程についても正確な資料が残っていない。1912年以降、日帝によって実施された太平通(今の太平路)拡張工事の時、一緒に取り壊されたものと推定される。 パレホテルは高宗が居住していた慶運宮(現徳寿宮)の直ぐ前に位置した。大韓帝国から日帝強占期に入る激動の時期に歴史の現場を黙々と見守っていた。ホテルはわずか10年の歴史しかないが、韓国近代史の重要な現場であることに間違いない。

大韓帝国/1901年頃

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区太平路2街

フランスホテル(France Hotel)、フレンチホテル(French Hotel)、法

三文出版社址はアメリカ監理教宣教部が1889年に設置した出版社兼印刷所である三文出版社があった場所である。貞洞培材学堂内に位置した。当時国内に存在した印刷施設は、政府所有の博文局と民間の広印社印刷公所、三文出版社程度であった。 設立年度は1889年と1890年の説があるが、概して1889年に建てられたというのが定説である。「三文出版社(The Trilingual Press)」という名称の意味は、韓国語・英文・漢文など三つの活字を備えているという意味で、異称として「美以美活版所」または「韓美華出版所」とも呼ばれた。「美以美」は「メソジスト(Methodist)」の音訳で「監理教活版所」という意味である。 三文出版社は初めに培材学堂建物の地下に置いたが、しばらくして本館西側の後方に別途の建物を建てて印刷所として使った。《The Korean Repository》1892年8月号に関連記録があり、この建物がそれ以前に新築された状態であったということを推定することができる。 三文出版社は1887年12月に培材学堂総理教師アペンゼラー(Henry G. Appenzeller)の要請でオーリンガー(Franklin Ohlinger)が来韓したところから始まった。オーリンガーがソウルに定着し、最新の印刷機と活字導入に注力して培材学堂内に出版社を創立する一方、キリスト教関連の出版事業と文書宣教の部分で主に活動したためである。1892年には韓国関連の総合雑誌である《The Korean Repository》も創刊した。この雑誌は1年で中断したが、その後ハルバート(Homer B. Hulbert)によって復活し、1895年から1898年にかけて毎月発刊された。 1893年オーリンガーの帰国でハルバートが後任に任命され、1897年にはバンカー(Dalzella A. Bunker)に任されたが、1898年にはコブ(George C. Cobb)が運営を引き受け、再び1900年8月にはベク(S. A. Beck)が責任者になった。 《独立新聞》が整理された時期にこれを最後に買収し、1899年6月独立新聞社社長に就任したイギリス人エンバリー(W. H. Emberley)が1898年6月からこの出版社の印刷監督も引き受けた。 1900年、ベクは印刷所と出版社を分離することにして、出版社の名前を「韓国監理教出版社(Korea Methodist Publishing House)」に決めたが、この出版社は1909年頃に閉鎖されたと伝えられている。1901年からは《The Korea Review》を印刷し、1906年に実質的な教派連合出版社へと発展させるために努めたが、アメリカ北長老会の不参加で失敗した。1908年から伝道用印刷物の需要が減り、民間印刷所が多数設立されて1909年頃に閉鎖された。 三文出版社で刊行した出版物は大きく三つに分けられるが、まずキリスト教新聞と雑誌をはじめとする定期刊行物、二つ目は一般書籍とキリスト教系統学校の教科書出版、三つ目は聖書と賛美歌をはじめとするキリスト教文書の出版である。主な宗教出版物は《美以美教会綱例、1890)》《聖教撮要、1890)》《真道入門問答、1893)》《上帝真理、1893)》《美以美教会問答(1893)》《洗礼問答、1898)》などがある。 監理教出版社が分離した後、三文出版社では印刷機能が当分そのまま維持されたものとみられるが、どの時点までその役割をしたのかは明らかでない。以後、この建物は1912年秋に設立されたソウル外国人学校(Seoul Foreign School)が1912年から1915年まで使った記録がある。1929年9月、大講堂を建てるために培材学堂本館が取り壊された時点に旧三文出版社建物も撤去されたものと推定される。

朝鮮/1889

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

美以美活版所、韓美華出版所、三音出版社

長老教貞洞宣教部址は1884年以降貞洞一帯に形成されたアメリカ長老教宣教会の居住団地があった場所である。具体的位置はソウル特別市中区貞洞1-9、1-11、1-45、13-1番地一帯で、現在の旧米国公使館および芸苑学校、徳寿宮の一部などの区域に該当する。 近代開港期以降、貞洞地域に初めて進出した西洋人は米国公使館所属の外交官たちだったが、実際に貞洞が西洋人村に変貌した出発点は民間人身分の宣教師が大挙派遣され、ここに住むようになったところから始まった。最も代表的な人物はアレン(Horace Newton Allen)である。貞洞宣教部の場所もまた彼がアメリカ長老教所属の同僚たちのために隣り合う土地と家屋(貞洞1-9、1-45、13-1番地一帯)を買い取ったところから始まった。 1884年に来韓してアレンが初めて買い取った貞洞1-11番地の家屋は、1885年に来韓した北長老教宣教師アンダーウッド(Horace G. Underwood)が居住した。彼は翌年の1886年2月に孤児院を開設するために、道の向かい側の敷地(現貞洞31番地、梨花女子高シムスンホール一帯)とその中に入っていた大小の瓦の家5軒も買い入れたが、これが後の儆新学校の母体になった。そして、後にも引き続き医療宣教師ヘロン(John W. Heron)などの宣教師が大挙派遣されて居住した。 この一帯が長老教宣教会の居住団地になったのは、このように旧米国公使館(現貞洞10)西側の隣接地が一度にアメリカ長老教会所属宣教師の所有になったためで、この地域に多数の教会と教育機関が創設されたのは自然な結果であった。 1887年2月にアンダーウッドなどが組織した「聖書翻訳委員会(大韓聖書公会の母体)」はもちろん、1890年6月にヘロンの主唱で今日の「大韓キリスト教書会」の始まりになった「朝鮮聖教書会」の創設もアンダーウッドの舎宅で行われた。1886年に開校した儆新学校の前身である孤児院と1887年に長老教の最初の組織教会として建てられたセムンアン教会もここで創設された。アンダーウッドの舎宅とすぐ隣り合ったアレンの住宅は貞信女学校の発祥地になった。 このように長老教宣教会の居住団地は色々な団体の発祥地だったが、団体が本来の場所にそのまま存続した事例はほとんどない。これは他の地域への教勢拡張を目標にした長老教側が進んで貞洞の財産の一部を処分した点と、1897年以降徳寿宮を中心に宮廷の領域の拡大が推進され続けている状態で、隣接した長老教宣教部がその編入対象に含まれたためと推定される。 貞洞長老教宣教会の居住団地、すなわち貞洞宣教部址は近代韓国におけるキリスト教の布教の始まりとその活動をよく示しているという点と近代の児童教育機関および教会の創設地として意味がある。

朝鮮/1884

文化/遺跡地、史跡地/宗教遺跡地

ソウル特別市中区貞洞

黎明学校は北朝鮮離脱青少年が韓国の学生との教育格差を解消し、韓国社会に健康に定着できるように設立された学校である。また、彼らの教育経験を通じて統一後北朝鮮地域に適用可能な教育モデルを作っていこうと努力している。 黎明学校は2004年9月14日第1回入学式を行って開校した。学生23人、教師8人で始め、2005年第1回卒業式を行った。以後、2015年第11回卒業式まで卒業生172人を輩出した。南山洞2街に地上4階規模の建物に教室・楽器室・美術室・体力鍛練室・コンピュータ室・図書館・寮などの教育施設を備えている。 黎明学校では北朝鮮離脱青少年のための多様な特性化プログラムを運営している。まず、価値観教育として分かち合い朝礼、名士特講、礼節教育などがある。心理治癒課程では美術治療、専門心理相談プログラム(北朝鮮離脱住民専門家含む)、1人1器(音楽治癒)、体育特性化(健康回復)などを実施する。社会適応および民主市民教育プログラムでは社会生活の第一歩、民主市民の第一歩、開かれた社会の統一韓国、法と生活、経済と生活、各種文化体験プログラムなどがある。 学生中心のカスタマイズ教育課程で非保護(第三国出生子女)学生のためのハングルクラスと大学修学能力試験を受験する学生のための修能準備クラス、基礎教科である国語・英語・数学を学生の水準に合わせてクラス分けして学習動機を誘発する水準別クラス分け授業がある。 黎明学校は統一を目前にした時点で北朝鮮離脱青少年を通した教育経験を集約し、統一後北朝鮮地域に適用可能な教育モデルを構築することを今後のビジョンとしている。また、研究機関と協力して彼らに対する1人当たりの適正教育費、教育支援の方法、生涯学習課程を確立する活動も模索している。

現代/2004

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区南山洞2街

中区区立新堂図書館は地下1階地上4階の敷地面積618㎡、延面積1,557㎡規模の公共図書館である。21世紀知識情報化時代に応じるために、公共図書館が不足している中区東化洞および新堂洞地域に知識情報および生活文化サービスを提供するために2011年3月に開館した。 主な内部施設として地下1階には休憩室・セミナー室・駐車場があり、地上1階には幼児・子供資料室、母乳授乳室、無人返却器がある。2階は総合資料室で青少年および成人のための多様な分野の図書と定期刊行物・電子資料(インターネット、DVD)閲覧のためのPC・多文化家庭のための多文化図書が備え付けられている。3階には読書や勉強ができる場所である130席規模の閲覧室がある。閲覧室入口の自動座席配分システムで自律的に使用申請して利用することができる。また、近隣公園の連結通路があって休息空間として活用される。4階には文化講座室1室・2室、事務室がある。 所蔵図書は文学・社会科学・芸術分野などの一般図書18,987冊と児童図書12,583冊、英語図書2,979冊、多文化図書1,802冊、点字図書113冊を保有している。非図書資料はDVD762点、連続刊行物50種、新聞6種を具備している。 図書館の主な事業は中区区立図書館と協力して中区統合電子図書館を運営しており、新堂図書館顧客懇談会・無料映画上映・希望図書の購入・利用者懇談会・電子ブック図書館などを実施している。また、主な講座として本の題名二十の質問とカベ遊び・読書論述教室・折り紙資格証クラス・カラー粘土教室(クレイ)・土曜休日美術・童話口演・ABC英会話・成人ギター講座・POP手書き基礎クラスなどを開設して運営している。 新堂図書館の利用時間は火曜日から日曜日午前9時から午後10時まで(閲覧室、幼児・子供室は異なる)で、毎週月曜日および日曜・祝日は定期休館日である。地下鉄新堂駅4番出口方向の茶山路38ギル66-35に位置している。

現代/2011

場所及び施設/展示、観覧施設/図書館

ソウル特別市中区東化洞

徳寿宮布徳門は本来史跡第124号徳寿宮の東側の門である大漢門の上にあったが今は消失した。布徳門の扁額は徳寿宮西側の平成門の場所についていたが、現在は国立古宮博物館で保管している。布徳門については特に記録がない。1899年(高宗36)黄義秀というカトリック信者が布徳門を通って咸寧殿(徳寿宮の寝殿)で布教をしたが、捕まって絞首刑にあったという記録だけ残っている。 徳寿宮の西側にあるアメリカ大使官邸と向かい合っている平成門に一時布徳門の扁額がかかっていたので、一部案内文には平成門が布徳門と間違って表記されている。平成門は1904年徳寿宮の大火災当時、高宗(1852~1919、在位1863~1907)が重明殿(西洋式別棟)に避難した時に利用したという記録が残っている。 1910年に製作された慶運宮(徳寿宮)の平面図を見ると、平成門は今の布徳門の場所より南側にあった。布徳門の北側は1907年純宗(1874~1926、在位1907~1910)の皇帝即位式があった惇徳殿だった。惇徳殿は1922年高宗が崩御した3年後である1922年に日帝によって現在の徳寿宮石垣道が造成されて撤去された。 布徳門の「布徳」とは、「恩徳を広く施す」という意味で、《魯語》4編に「民に恩徳を広く施してその政事を正す」という用例がある。また、平成門の「平成」とは、「すべて順調によく調和する」という意味で、《書経》に出てくる「地平天成(世の中が平穏で、天地が治まること)」から取った言葉である。平成は現在明仁天皇の年号にも使われている。

朝鮮/不詳

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

ネオミュージアム(Neo Museum)は「動く芸術」を創造する所で、キネティックアートをはじめとしてローリングボールなどの作品を紹介して知らせる所である。ここではキネティックアート作品、ローリングボールなどを販売およびレンタルし、動く造形物、象徴造形物などの注文による制作および設置も行っている。 動く芸術「キネティックアート(Kinetic Art)」は現代融合美術の一つのジャンルで、風や電気など外部の力によって作品の空間と位置が変化し、動きを持つ芸術である。観客は作品に触ったり作品の上に上がるなど作品と相互交流しながら、視覚・聴覚・触覚を利用した遊びを楽しむことができる。観客と作品がそれぞれ動き、時には互いに調和して風変わりな面白さを感じることができる。 最初の作品はフランスの美術家デュシャン(Marcel Duchamp、1887~1968)が1913年に自転車の車輪を使って製作した「モビール」として知られている。キネティックは動きを意味するギリシャ語「キネシス(Kinesis)」が語源で、「運動の」、「運動による」という意味である。キネティックアートの代表的な作家としてはオランダのテオ・ヤンセン(Theo Jansen)がいる。 大型建築物のランドマークとして設置されたりもする動く芸術キネティックアートは、キネティックの広告映像が注目されていてよく知られている。最近、企業はキネティックアートを活用して顧客と疎通の幅を広げ、ブランドと製品の価値を高めている。 「ローリングボール(Rolling Ball)」はキネティックアートの一つの形態で、球(ball)を傾斜したレールの上を転がるようにした動く彫刻である。球が重力によって下に落ちながら位置エネルギーが運動エネルギーに変わる現象、速度、加速度、遠心力、慣性など科学的な原理も学びながら芸術を体験できる特殊な芸術装置である。 ネオミュージアムで制作したキネティックアート作品の主な設置場所は、明洞聖堂、鉄博物館、SC第一銀行本店、京畿道子供博物館、龍山子供博物館、ロッテ百貨店本店などがある。 毎週月曜日から金曜日午前9時から午後6時まで運営され、週末と祝日は休館日である。地下鉄忠正路駅4番出口方向セントラルタワーに位置している。

現代/2015

場所及び施設/展示、観覧施設/博物館(国立、私立)

ソウル特別市中区中林洞

シンガポール(Singapore)は島から成る都市国家で、東南アジアの赤道付近に位置している。1819年以降イギリスが貿易の拠点として開発した都市で、1959年6月イギリス連邦の自治領になった。1963年マレーシア連邦に属し、1965年8月独立共和国になった。人口は2012年の人口調査を基準として約535万人で、国土面積は697㎢である。マレーシアと国境が接していて、英語・中国語・マレー語を公用語として使用している。 シンガポールと韓国は1970年12月シンガポールに韓国通商経済代表部を開設し、1971年7月代表部が総領事館に昇格した。引き続き、1972年12月両国間航空協定が締結され、1975年8月領事関係が大使関係に昇格して公式に外交関係が樹立した。以後、1990年10月駐韓シンガポール大使館が開設された。 駐韓シンガポール大使館の主な業務は韓国政府との外交交渉および経済協力、シンガポール自国国民の保護と旅券発行、シンガポール旅行客に対する査証(ビザ)発行、国家情報および観光情報の提供、外交政策と文化広報などである。大使館傘下機関としてシンガポール貿易開発庁、シンガポール観光庁を置いている。貿易開発庁は韓国の経済動向および対外経済関連情報の収集、シンガポール企業の韓国進出支援、両国間の経済通商の協力増進などの業務を担当する。シンガポール観光庁は観光情報の提供および韓国人観光客の誘致を主な業務とする。 駐韓シンガポール大使館の業務時間は毎週月曜日から金曜日、午前9時から午後5時30分までで、週末と両国の祝日は休業である。地下鉄市庁駅4番出口方向の世宗大路136(武橋洞97)ソウルファイナンスセンター28階に位置している。

現代/1990

場所及び施設/その他の付帯施設/外国公館

ソウル特別市中区武橋洞

ソウル特別市立ソウル青少年修練館は1970年社団法人韓国青少年育成会の会員が募金して建設した韓国最初の青少年修練館で、1973年ソウル市に寄付採納した歴史的な建物である。修練館は青少年の正しい人格形成とバランスの取れた成長を助けるための多様な修練活動を遂行することによって、彼らが国家と社会が必要とする健全な民主市民に成長できるように寄与することに目標を置いている。 ソウル青少年修練館は地下1階から地上8階の規模で多様な施設を備えている。地下1階と地上1階には幸せと出会いの場所として休憩室、カフェテリアなどがあり、2階と3階は成長と才能をテーマにした体力鍛練室、大会議室であるヌルヘラン・ヌルソム・ヌルボム・ヌルソルギルがある。4階と5階には包容と情熱をテーマにした事務室とトングラミ学校を置き、6階と7階には愛と創意をテーマにした研修室と相談室が、8階にはアラム資料室と図書室がある。 ここで運営するプログラムには進路問題で悩む青少年のための進路プログラム、校内暴力の被害者と加害者を対象とするヒーリングキャンプなどがある。また、障害青少年プログラムとして希望学びの場、明るい学校作り、夢見る土曜日などが行われる。その他にも青少年サークル活動、文化体験活動、青少年文化空間の提供など青少年の情緒育成のための多様なプログラムを進めている。 ソウル青少年修練館内に位置する「トングラミ学校」は、公教育の枠組みに適応できない学校不適応の青少年を対象に運営される模範的な委託型オルタナティブスクールである。トングラミ学校の授業を修了すれば、本来通っていた学校の卒業証書を受けることができる。友達との関係で傷ついたり進路に対する夢がなくて無気力な青少年、公教育の枠組みが重いだけの青少年のために公教育の正規就業(国語・英語・数学・科学・社会など)はもちろん、オルタナティブ授業(製菓・製パン、料理、集団相談)など特性化された授業を基に運営している。また、学生たちの進路問題をはじめとして校友・異性・家庭問題など学生たちの悩みを相談および支援して青少年が正しく成長できるように教育している。

現代/1970

場所及び施設/レジャー、スポーツ施設/その他

ソウル特別市中区水標洞

韓国女性文芸院は文学と芸術に関するプログラムで女性自身の文学と暮らしに対する才能を呼び覚まし、資質向上に先駆的役割をするために作られた非営利女性文学団体である。1982年故張金生名誉院長が開院し、小説家金東里、随筆家趙敬嬉(前韓国文人協会理事長)、画家権玉淵などが顧問であり講師として参加した。 韓国女性文芸院はソウルおよび中区地域を基盤とした文学団体である。女性文化人の社会的地位向上のための権益保護・海外交流活動などを目的とする。このために文学関連行事および文芸誌の発刊、ソウル文学祭など多様な文化公演を企画して進めてきた。 開院後から今までの活動を見ると、1982年から1998年まで文学をはじめとする芸術講座(美術・音楽・演劇・映画など)を行った。1993年《中区文芸》創刊号を発刊し、1998年に第1回ソウル市女性詩文競作大会を開催(受賞集発刊)と、1998年には《ソウル女性文芸》創刊号を発刊した。また、2003年に青少年と共にする詩朗誦祭を開催し、2006年から2011年まで清渓川詩朗誦祭を、2009年9月第1期を皮切りに2015年第7期まで詩朗誦専門家課程を進めた。2009年12月には第1回ソウル文学大賞を開催し、2012年12月には《文学、像》創刊号を発刊した。 2013年中区施設管理公団と韓国女性文芸院は地域住民の読書文化増進のための多様な文化事業の推進および相互交流の協力のための業務協約を締結した。これを通じて両機関は地域住民の読書文化増進のための事業推進、人文学的知識と思考養成のためのプログラムの開発運営、健全な余暇生活および文学活動の支援、人格および情緒育成のためのプログラムの開発運営などの分野で相互協力し、これを持続的に維持発展させることにした。協約締結後、中区の図書館を巡回して成人を対象に「訪問する詩朗誦」講義が開かれた。また、「青少年のための人文学講座」が行われ、多様な階層に対する教育プログラムを設けた。 韓国女性文芸院は中区乙支路39ギル40中区区民会館1階に位置している。

現代/1982

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区乙支路6街

SKテレコム広報館ティウム(T.um)は最先端IT技術と移動通信サービスを結合したモバイル(mobile)体験館である。ティウムの名称はSKテレコムを代表するブランド‘T’と展示館・広報館などを意味する「ミュージアム(Museum)」の合成語である。未来のコミュニケーション技術が想像できる全てのものを現在の空間に実現させた。 ティウムの先端IT環境は観覧客に積極的に参加して楽しむことができる体験の場を開いてくれる。また、一方的な情報伝達や機能中心の体験に終わっていた既存の企業広報館の限界から抜け出そうとした。ITを中心に統合・融合する産業の未来像を提示することによって、観覧客にユビキタス(Ubiquitous)の世界をあらかじめ体験する楽しさを与え、ビジネスパートナーには協業を通した可能性と未来のビジョンを提示している。 ティウムの体験館は過去を見せてくれるプレイベーシック館(Basic)、現在を見せてくれるプレイナウ館(Now)、未来を見せてくれるプレイドリーム館(Dream)の3館で構成されている。 ティウムに入ると、個人化された人工知能キャラクターを見ることができるポンド(Pond)に最初に会う。引き続き、案内デスクでティーキー(T-Key)と呼ばれるUMD(Ultra Mobile Device、個人カスタマイズ移動端末)を受け取って体験館を見回せば良い。ティーキーは観覧客をティウムのすべてのサービスと結びつける未来型携帯電話で、観覧客の位置を自動的に把握して個人カスタマイズ体験が可能である。 3つの体験館のうち、プレイベーシック館は韓国の移動通信の技術と歴史をひと目で見ることができるように整えた展示館である。通信サービスの世代別速度を視角化された映像を通じて比較できるネットワークレボリューションマップ(Network Revolution Map)、移動通信が接続される経路を体験できるコールフロー(Call Flow)などを経験することができる。 プレイナウ館ではSKテレコムが現在サービスするタッチ型メディアテーブル、IPTV、モバイルゲームなど多様なコンテンツを体験することができる。 プレイドリーム館はモバイルで具現された未来型ユビキタスを基盤としたサービスを体験できる空間である。Tドライビング、マイTVステーション、リアルGXGの3つのアイテムで構成されている。 このようにティウムでは多様な体験サービスを通じて過去、現在、未来を行き来して21世紀のタイムマシンに乗って旅行する気分を感じることができる。 モバイル体験館ティウムは地下鉄乙支路入口駅4番出口方向のSKTタワーに位置している。運営時間は午前9時から午後6時までで、週末と祝日は休館する。少なくとも訪問希望日の1日前にインターネットで訪問予約申込をすれば展示館を体験することができる。

現代/2008

場所及び施設/展示、観覧施設/展示館(場)

ソウル特別市中区乙支路2街

聖フランチェスコ(St. Francis of Assisi、1181~1226)は1209年に「小さき兄弟団」という名前でフランシスコ会を初めて設立した。この修道会の修道士は極度に貧しい生活を追求した。通りの説教者として優先的に仕事をし、必要に応じて物乞いをしながら生計を維持し、貧しい人や病気の人、特にハンセン病(らい菌によって感染する慢性伝染性疾患)患者の世話に注力した。 韓国の「小さき兄弟団」は1937年9月、カナダ官区所属の修道士2人が入国し、大田に修道会を設立することによって始まった。6・25戦争などでしばらく閉鎖されたが、1955年に活動が再開されて1969年韓国準管区に昇格し、1987年12月に「韓国殉教聖人管区」に認可された。 フランシスカン霊性学校は韓国フランシスカン家族奉仕者協議会が2001年に設立した学校で、フランシスカン霊性と神学および哲学、歴史などを勉強する所である。設立趣旨は学問の研究を通じて韓国のフランシスカンたちが自分たちの霊性をより深化させ、世の中と教会の中でフランシスカン霊性をより具体的に実現し、生きていくようにすることである。 フランシスカン霊性学校は1年2学期制で運営される。1学期は入門課程として神学の基礎、フランチェスコが残した文章と歴史、聖人フランチェスコの時代背景と生涯を詳細に調べる。2学期は深化課程として修道規則と祈祷文、中世の芸術、フランシスカン悔悛運動の歴史的発展過程、聖女クララの文章について勉強する。 入学資格はフランシスカン霊性に関心があるすべての人で、1年に正規学生40人を募集する。授業は毎週月・火・木・金曜日の週4回で、午後1時限、2時限に分けて3時間進める。中区貞洞ギル9フランシスコ教育会館5階に位置し、地下鉄5号線西大門駅、1・2号線市庁駅と近い。

現代/2001

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区貞洞

TOYKINO Museumは中区貞洞ギル3京郷アートヒル2階に位置する玩具博物館である。2006年10月に鍾路区三清洞で初めてオープンし、2007年9月には京畿道坡州市ヘイリにも玩具博物館を開館し、2015年3月に現在の位置に移転して再開館した。自動車玩具、アニメーションキャラクターなどが展示されていて子供たちの遠足場所として人気がある。 TOYKINOという名前はおもちゃのTOYと映画を意味するKINOを合成した言葉で、ここには40万点余りの各種昔のおもちゃから今日の多様なキャラクターフィギュア(Figure)の中から選別した数万点余りのおもちゃが展示されている。 TOYKINOは1館と2館に分かれているが、1館であるキッズ館(Kids Gallery)は世界各国のアニメーションキャラクターでいっぱいに満たされている。アメリカを代表するミッキーマウス、白雪姫と七人のこびと、シンデレラ、不思議の国のアリス、ジャングルブック、くまのプーさん、人魚姫、ライオンキング、ムーラン、ターザン、ピノキオ、トイストーリーなど数多くのアニメーションの主人公に会うことができる。また、ナイトメアー・ビフォア・クリスマスとともにTVシリーズであるスマーフ、ザ・シンプソンズなども一緒に展示されている。この他にも日本アニメーションのワンピースの主人公とブリキロボット、ぜんまいおもちゃ、自動車など昔の思い出のおもちゃが展示館を満たしている。キッズ館はアニメーションと可愛くて色とりどりの童話の中の話が好きな子供たちと大人たちが一緒に楽しむことができる展示館である。 2館であるキダルト館(Kidult Gallery)は映画が好きな大人のための少し深みのあるコンテンツで構成されている。スターウォーズ、スーパーマン、バットマン、アイアンマン、スパイダーマン、キャプテンアメリカ、ハルク、マイティ・ソー、X-メン、アベンジャーズ、マトリックス、ロボコップ、ロード・オブ・ザ・リング、ハリーポッターなど映画の中のスーパーヒーローと多様なキャラクターフィギュアが展示場をいっぱいに埋めている。また、展示物に対する色々な情報をより簡単に理解できるように関連ポスターを展示した。また、世界的に人気のあるスポーツである野球(MLB)、バスケットボール(NBA)、フットボール(NFL)、ホッケー(NHL)のスターのフィギュアとボブルヘッド(Bobblehead、頭を大きく強調した人形)も一緒に展示されている。 TOYKINO Museumは毎週午前10時から午後6時まで運営し、祝日も正常に開館する。成人は1万2,000ウォン、18歳以下の青少年と子供は1万ウォンの入場料を受け取る。中区貞洞ギルに位置していて、周辺にある徳寿宮、ソウル市立美術館など多様な観光地とともに見回すことができる。

現代/2015(再開館)

場所及び施設/展示、観覧施設/博物館(国立、私立)

ソウル特別市中区貞洞

グアテマラは中央アメリカのメキシコ南端の太平洋沿岸に位置する国である。グアテマラの北東部とユカタン半島は紀元前マヤ(Maya)文明の中心地であった。300年間スペインの植民支配を受け、1821年9月に独立して1847年に正式に共和国になった。人口は2012年基準で約1,409万人で、国土面積は10万8,890㎢である。メキシコ、ホンジュラスなどと国境が接していて、スペイン語を公用語として使用している。首都はグアテマラシティである。 グアテマラと韓国は1962年10月公式に外交関係を樹立した。駐韓グアテマラ大使館は1977年10月に開設され、駐グアテマラ韓国大使館は1974年9月に開設された。2003年11月に発効された外交官および官用旅券の所持者に対する査証免除協定により、韓国人はグアテマラ入国時90日以内の観光などの目的で入国する際は査証(ビザ)が免除される。現地で90日間延長することもできる。 駐韓グアテマラ大使館の主な業務目標は、韓国との緊密で円滑な政治・経済・文化の交流と協力を通じて、両国国民の利益を最大限増進させて権益を保護するところにある。また、グアテマラ政府に韓国の政治・経済状況とその変化に対する評価などを報告する。そして、グアテマラで事業または学業に従事したり移民する韓国人にビザを発行する業務を遂行し、韓国内のグアテマラ市民権者などには領事業務サービスを提供している。 駐韓グアテマラ大使館の業務時間は毎週月曜日から金曜日午前9時30分から12時30分までで、週末と両国の祝日は休業である。地下鉄2号線乙支路入口駅7・8番出口方向、南大門路81ロッテホテルビル614号に位置している。

現代/1977

場所及び施設/その他の付帯施設/外国公館

ソウル特別市中区乙支路1街

ベラルーシ(Belarus)は1991年ソビエト連邦から独立した国で、東ヨーロッパに位置している。西ヨーロッパ、ロシア、アジアを連結する主要道路、鉄道、送油管および通信システムが交差する有利な地理的・地政学的立地条件を備えている。人口は2012年基準で約964万人で、国土面積は20万7,600㎢である。ロシア、ポーランドなどと国境が接していて、ベラルーシ語とロシア語を公用語として使用している。首都はミンスク(Minsk)市である。 ベラルーシと韓国は1992年2月公式に外交関係を樹立した。駐韓ベラルーシ大使館は1997年に開設され、駐ベラルーシ韓国大使館は2007年12月に新設された。韓国人がベラルーシ訪問時、30日未満は招請状なくても商用ビザの発行が可能だが、ベラルーシ側の招請機関の名称、住所および連絡先が正確に記入されている場合にのみ受付が可能である。 駐韓ベラルーシ大使館の主な業務は韓国政府との外交・交渉、韓国居住ベラルーシ国民の保護と旅券発行、ベラルーシを旅行する外国人に対する査証(ビザ)発行、国家情報および観光情報の提供、経済通商協力と科学技術・教育・文化交流などである。 駐韓ベラルーシ大使館の業務時間は毎週月曜日から金曜日午前9時30分から12時までで、ビザの案内は午前9時30分から午後4時30分までである。週末と両国の祝日は休業である。地下鉄6号線ポティゴゲ駅1番出口方向東湖路17ギル252-21に位置している。

現代/1997

場所及び施設/その他の付帯施設/外国公館

ソウル特別市中区新堂洞

薬水市場は中区茶山路10ギル12(新堂洞367-7)一帯に位置する伝統市場で、1960年代中区新堂洞メボン山北側の麓に貧民街が形成されたときに生じ、1968年正式に開設された。市場の名称はポティゴゲに体に良い湧水があることから由来した。かなり以前から露店で商人が物を売っていたので、いまだに1960年代から1970年代当時の伝統市場の姿をそのまま収めている。 貧民街の住民たちが主な顧客だった薬水市場は、1990年代後半地域再開発によって衰退し始めた。再開発で原住民が離れ、常連顧客が途絶え、1999年に入ってからは南山タウンアパートの住民たちはほとんど近隣の大型スーパーを利用した。薬水市場が存廃の危機に瀕すると、市場商人会を中心に自救努力を始めた。その結果、2011年3月この一帯5,798㎡の面積に68の店舗を備えた伝統市場として認められた。 2013年4月からロッテ百貨店は企業社会貢献プログラムの一つとして薬水市場をはじめとする全国8ヶ所の伝統市場と「伝統市場共生発展協約式」を結んだ。伝統市場では初めて百貨店と提携して百貨店式サービス・店舗管理の要領を伝統市場に合わせて再構成したパンフレットを作った。また、百貨店では状況別の挨拶要領、農水産物と加工品の陳列管理、常連の多い店の応対ノウハウ、お客さんを逃す失敗などについて詳しく説明するなど、百貨店と伝統市場の共生のための努力が続いた。 2013年5月には「わいわい薬水市場大祝祭」を開いて薬水市場内の店舗が1店舗1品目特価行事で最大50%まで割引して消費者を集めた。「孝分かち合い行事」ではこの一帯5つの敬老堂の老人たちを招請して商人会で食べ物を提供したりもした。これとともに、風物公演を皮切りにB-BOY公演、子供お茶目祭り、サクソフォーン演奏、のど自慢など多様な公演が繰り広げられた。 2014年9月には薬水地区単位計画が変更され、市場一帯の老朽建築物の個別的な整備と新築が可能になった。こうして50年の歴史の薬水市場一帯が地域生活圏の中心地に発展する機会を得ることになった。 薬水市場の主な販売品目は農水産物と工産品、餅などで、地下鉄3・6号線薬水駅に近くて交通が便利である。周辺に食堂が多くて食べ物が多く、特に餅屋が多いことで有名である。

現代/1968

場所及び施設/ショッピング/市場(在来、薬令市場など)

ソウル特別市中区新堂洞

李始栄(1869~1953)は韓末の独立運動家であり政治家である。ソウル出身で、1885年官職に進み、刑曹佐郎などいくつかの官職を歴任した。1895年に官職から退いた後には李会英(1867~1932)と新学問の探求に没頭した。1905年外部交渉局長に任命されたが、乙巳勒約を契機に辞職した。1906年平安南道観察使、1907年中枢院議官、1908年漢城裁判所長などを歴任し、安昌鎬・全徳基・李東寧・李会英などと秘密結社の新民会を組織して国権回復運動を展開した。 国権を奪われた後、新民会の国外独立運動基地の建設計画により6兄弟の家産を整理し、1910年末、西間島柳河県三源堡鄒家街に家族を率いて亡命した。1911年4月、柳河県三源堡大孤山で群衆大会を開催して耕学社と新興講習所の設立を主導し、1912年、通化県哈泥河に土地を購入して新興講習所を新興武官学校に拡大・発展させた。 3・1運動が起きると、北京から上海に行って大韓民国臨時政府の初代法務総長、財務総長、国務委員などを歴任した。光復後に故国に戻り、1948年7月大韓民国初代副大統領に当選したが、李承晩の統治に反対した。1962年、建国勲章大韓民国章が追叙された。 《大韓帝国官員履歴書》には漢城南署明礼坊苧洞契第64通第1号で、《国外における容疑朝鮮人名簿》には京畿道京城府黄金町2-164番地で李始栄の本籍地住所が記載されているが、同じ場所と推定される。現在、家屋は滅失してその場所に香隣教会と駐車場、ハンマウムオフィステルなどの建物が建っている。

大韓帝国/1910年以前

文化/人物/生家(址)

ソウル特別市中区乙支路2街

3・1万歳運動は1919年3月1日、高宗(1852~1919)の葬儀の日に全国で朝鮮の独立のために万歳を叫んだ事件をいう。1918年、パリ講和会議でアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義と1919年日本留学生の2・8独立宣言書発表の影響で3・1万歳運動が展開された。1919年3月1日、民族代表33人は泰和館で独立宣言書を朗読し、タプコル公園では学生と市民が万歳運動を展開した。 3月1日午後2時30分、タプコル公園で独立宣言式を終えた学生と市民数千人は鍾路通りに出て来て市民の歓呼を受け、いくつかの隊列に分かれて市街行進を始めた。引き続き、午後3時頃徳寿宮大漢門前に至ったデモ隊は広場で「大韓独立万歳」を叫んだ後、独立演説会を開催した。デモ隊の一部は高宗の殯殿付近まで入って弔問した。以後、デモ隊はいくつかに分かれ、一部はアメリカ総領事館に達して万歳を叫び、他の隊列約2,000人は朝鮮総督府に向かって市街行進を行ったが、本町通(現忠武路)入口で日帝の官憲と対立した。 日本陸軍省の文書である《独立運動に関する件(第2報)》に関連事実が記録されている。《京城府市街疆界図(1914)》を通じて、当時の徳寿宮大漢門の位置と大漢門前の広場の規模を確認することができる。当時の大漢門前3・1万歳運動デモ地は大漢門前から現ソウル広場の一部を含む通りだが、現在は道路の拡張で当時の面影はない。

日帝強占期/1919

文化/遺跡地、史跡地/独立遺跡地

ソウル特別市中区太平路2街

培材学堂は1885年宣教師アペンゼラー(Appenzeller,H.G.)によって設立された近代式中等教育機関である。寄宿舎は40人ほどを収容できる100坪規模の韓屋で1888年に建てられた。《培材100年史》によれば、当時培材高等普通学校(培材学堂の後身)寄宿舎は「今の正門守衛室後方の南館の場所」にあったという。また《培材100年史》に収録された当時の寄宿舎の写真背景のエンジュの木を根拠に位置を探すと、エンジュの木のそばにある培材貞洞ビル入口A棟の表示板周辺が培材学堂寄宿舎の場所だったことを確認することができる。現在、寄宿舎建物はすでになくなり、その場所に培材貞洞ビルが建っているが、保護樹に指定されているエンジュの木は当時と同じように入口に位置している。 培材学堂寄宿舎は独立運動の史跡としても意義がある。1919年3月4日午前、韓偉健をはじめとする市内の専門学校の学生代表と張採極・全玉玦・康禹烈など中等学校の学生代表が集まり、3月5日午前9時を期して南大門駅前広場で学生団主導の第2次独立万歳デモ運動を展開することを決めた。また、金元璧と康基徳を選定して指揮を任せ、各自の便宜により学校生徒と志気を糾合して参加することに方針を決めた。この時、彼らが集まった場所が培材高等普通学校の寄宿舎であった。《金炯璣など210人予審終結決定》に関連事実が記録されている。

大韓帝国/1888

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

<時代日報>は崔南善(1890~1957)と秦学文(1890~1948)が時事週刊紙<東明>の後身として1924年3月に創刊した新聞である。民族の団結と協同を標榜したが、1面を社会記事で満たすなど異彩を放った編集を試みて目を引いた。<東亜日報>、<朝鮮日報>とともに3大民間紙の一つだったが、財政難で休刊と続刊を繰り返すなど前途多難であった。 一時、普天教に版権を渡したが、内外の荒々しい批判世論に押されて休刊に入り、1925年4月洪命熹(1888~1968)を社長に迎えて容貌を一新しようとしたが思わしくなく、もう一度陣容が変わった後、1926年9月廃刊になった。以後、李相協(1893~1957)が<時代日報>の版権を買収し、その年の11月<中外日報>に題号を変えて創刊号を発行した。 時代日報の社屋については、<時代日報>創刊号其32面版権紙に当時の住所地が京城府明治町2丁目82と記録されている。その位置を<京城府地形明細図(1929)>と現<地番図>で追跡すると、現在の明洞2街55番地一帯として地番が変更された事実を確認することができる。現在、建物は滅失して商業建物に衣料品店などが入っている。

日帝強占期/1924(推定)

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区明洞

1906年(高宗44)統監府設置後、朝鮮の併合を急いだ日帝は、1907年6月ハーグ事件を口実に高宗(1852~1919)を強制的に退位させ、韓日新協約(丁未七条約)を締結した後、大韓帝国の最後の武力である軍隊を解散させた。 8月1日午前8時頃、デモ歩兵第1連隊第1大隊の将兵が武装解除された状態で軍隊解散式が挙行される訓練院に出発しようとする時、第1大隊長朴昇煥(1869~1907)参領が軍隊の解散に反対する遺書を残して拳銃で自決した。これに激怒した将兵は弾薬と武器を奪取して武装し、兵営の周囲に哨兵を配置した後、日本軍と銃撃戦を行った。西小門一帯で銃声が鳴り響くと、崇礼門内にいたデモ歩兵第2連隊第1大隊の兵士たちも呼応して武装し、日本軍に向かって射撃を開始した。大韓帝国軍の頑強な抵抗にあたった日本軍は、9時30分歩兵第51連隊第3大隊の全兵力と第1・2大隊の応援兵力を投じる一方、崇礼門の城壁の上に機関銃をおいて無差別射撃を加えた。 強大な銃砲と数字の劣勢に勝つことが出来なかった大韓帝国軍は、結局10時50分頃南大門の兵営を占領され、引き続き11時40分頃西小門の兵営まで占領されてしまった。しかし、二つの兵営から退却した韓国軍の一部は西小門外の高地一帯を背景に抵抗を続け、各地に散って義兵陣に合流することによって義兵戦争に発展した丁未義兵の基礎を築いた。 《韓国京城全図(1903)》に西小門内の南東に大韓帝国軍デモ第1大隊兵営(現西小門洞120)が、崇礼門内の南東に親衛第2大隊兵営(現南倉洞34)が表記されている。この二つの兵営を中心とした西小門と崇礼門一帯が軍隊解散当時、市街戦が行われた大韓帝国軍戦闘地である。現在のソウル商工会議所一帯で、当時の姿とは完全に変わっている状態である。

大韓帝国/1907

文化/遺跡地、史跡地/独立遺跡地

ソウル特別市中区南大門路4街

朝鮮教育協会は科学的知識の普及と「新教育主義」を標榜して発足した教育運動団体で、「朝鮮教育会」ともいう。1920年6月、尹致昭(1875~1944)の家で李商在(1850~1927)を臨時席長に選んで協会が構成された。同年4月に設立した朝鮮女子教育会とともに当時の代表的な教育運動団体であった。 1922年2月、日帝の「朝鮮教育令」の改正で大学設立の道が開くと、その年の11月に水標町の朝鮮教育協会会館を拠点に朝鮮教育会が中心となって朝鮮民立大学期成会が組織された。民立大学の設立のために地方の面単位まで責任者が任命され、海外同胞まで参加した非常に緻密な組織として活躍した。 しかし、同じ時期に展開した高等普通学校期成募金運動に参加した発起人が多く、募金活動が不振なうえに、これを民族運動と把握した日帝の組織的な妨害で所期の成果をあげられなかった。1923年5月「京城帝国大学令」が発表され、引き続き1924年京城帝国大学予科、1926年学部が設置されると、民族教育運動は大きく挫折した。その後、1927年新幹会の結成で朝鮮教育会は前向きな解体をしたが、その影響で各種私設教育機関が急増し、植民地の教育機関ではあるが、最高学部である京城帝国大学が設立される刺激剤になったというところに意味がある。 朝鮮教育協会会館については、<東亜日報>1922年5月11日付の記事に5月9日市内の水標町42番地の朝鮮教育協会会館で会員90人余りが出席した中で会長李商在の司会で第2回定期総会を開催した事実が記録されている。水標町42番地の敷地349坪に数十間の家屋からなる教育協会会館は、協会顧問であった韓圭卨が寄付したものだという。当時の建物は滅失し、現在商業建物が建っている。

日帝強占期/1920

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区水標洞

咸台永(1872~1964)は韓末の独立運動家・政治家・宗教家で、咸鏡北道茂山生まれである。1898年韓国最初の近代式法曹人教育機関である法官養成所を首席で修了し、翌年漢城裁判所の検事試補に任命されて法官生活を始めた。独立協会事件の時、李商在などに無罪を宣告したという理由で罷免されたことがあったが、その後大審院・覆審法院の判事を歴任した。しかし、在任中に不義に耐えられない剛直な性分によって執権層から憎まれて免官・復職を何回も繰り返したが、1910年公職から退いた。 その後、キリスト教に入教して長老になり、3・1万歳運動の時、民族代表48人の一人として活躍したが、逮捕されて懲役3年を宣告された。出獄後、平壌神学校を卒業、1921年牧師按手を受けて福音運動に身を投げた。光復後、審計院長、韓国神学大学長を歴任し、大統領李承晩とともに第3代副大統領に当選した。1962年大韓民国建国勲章独立章が授与された。 1919年当時、南大門外教会の助事(長老教で牧師を助けて伝道する教職)であった咸台永の舎宅は、3・1万歳運動の準備過程でキリスト教の拠点に使われた。彼の舎宅が独立運動の根拠地に浮び上がったのは、1919年2月宋鎭禹に会って独立運動旗揚げの提案を受けた李承薰が、帰郷の途中に南大門外教会を訪問したときからだった。この時から李承薰と咸台永は長老教会と監理教会の糾合方案について議論した。遅々として進まなかった天道教側との交渉も崔麟と李承薰が電撃会合して解決した。 キリスト教側の交渉委員だった李承薰と咸台永は2月23日天道教側の崔麟と独立宣言の問題を協議した後、その日の夜咸台永の家で第2次長老会・監理会の指導者連席会議を開いた。そして、天道教側で主張する独立宣言書の発表方針を受け入れることによって独立運動一元化の基盤を築いた。 《独立運動史料集》5巻によれば、3・1万歳運動当時、咸台永は南大門通5丁目75番地の南大門外教会の助事の舎宅に居住していたことになっている。《京城府地形明細図(1929)》と現地番図を通じてその位置を追跡すると、道路拡張の過程で地下鉄1号線ソウル駅5番出口前の道路に編入されたことを確認することができる。

日帝強占期/1919

文化/人物/その他

ソウル特別市中区南大門路5街

李甲成(1889~1981)は韓末の独立運動家である。1915年セブランス医学専門を卒業した。引き続き、1919年3・1運動の時、民族代表33人の一人として独立宣言書に署名しただけでなく、学生デモ運動およびビラを散布するなど重責を引き受けて遂行していたが、日本の警察に逮捕されて獄中生活を送った。 1924年セブランス医薬の支配人になり、1926年から大韓キリスト教青年会連盟(YMCA)の理事としても活躍し、1931年に京城工業の支配人になった。1933年新幹会事件で上海に亡命して独立運動を行ったが、帰国した後、1940年興業倶楽部(1925年に結成されたキリスト教系の抗日民族主義運動団体)事件で7ヶ月間服役した。光復後、色々な政治的活動を行い、1962年建国勲章大統領章を受けた。 李甲成の舎宅は独立運動のための主な集会を行った場所として使われた。李甲成は1919年2月11日、南大門外教会を訪問したイ・スンフンを通じて天道教側とキリスト教側の間に独立運動のための暗中摸索が進行していることを伝え聞いた。これに対して、2月12日夜セブランス病院の音楽会が終わった後、1月27日大観園の集会に参加したことがある韓偉鍵・金元壁・金炯璣・尹滋瑛とセブランス医学専門学校の金文珍・李容卨・裵東奭を病院構内の自分の舎宅に呼んで国内外の情勢について話し、独立運動に対する意思を打診した。その後、李甲成はもう一度専門学校の学生代表を自分の家に呼び、天道教側とキリスト教側の独立運動の推進状況を知らせた。一方、2月21日夜には第1次長老会・監理会両教団の指導者の連席会議が李甲成の家で開かれた。この席で天道教側との合同問題について相談し、役割を分担した。 《独立運動史資料集》5巻によれば、3・1万歳運動当時、李甲成はセブランス病院の製薬主任として在職し、南大門通5丁目15番地の病院構内の舎宅に居住していたことになっている。南大門通5丁目15番地は現在の南大門路5街84番地で地番が統廃合されたが、1940年代末セブランス医科大学および付属病院建物の配置図を通じて今のGS駅前ガソリンスタンドの周辺がそれに該当する場所であることを確認することができる。

日帝強占期/1919

文化/人物/その他

ソウル特別市中区南大門路5街

朝鮮民興会はソウル青年会と朝鮮物産奨励会が中心となって発起した民族協同戦線団体である。火曜会系の朝鮮共産党とともに国内の社会主義勢力を両分していたソウル青年会は、海外での民族唯一党運動の展開に歩調をそろえ、1926年3月朝鮮物産奨励会系の民族主義者たちと提携し、1926年7月制限された規模の民族協同戦線で朝鮮民興会を発起した。 これに先立ち、ソウル青年会は朝鮮物産奨励会が家賃すら払えないほど困難だった1925年6月頃から約5ヶ月間事務室を一緒に使った縁があった。この時結ばれた二団体の縁は1925年10月朝鮮物産奨励会が会館を移転した後にも続き、朝鮮民興会につながったのである。 朝鮮民興会は1926年7月、黄金町の朝鮮物産奨励会館で発起準備会を開催し、そこに臨時事務所を置いたが、1927年名実共に民族協同戦線として新幹会が発足すると、2月に合流した。多数の民族主義の左派と朝鮮共産党およびその関連団体が参加せず、制限された規模の協同戦線だったが、その目標と組織過程で蓄積された経験の多くの部分が新幹会に受容された。 朝鮮民興会の会館の場所については、<東亜日報>1926年7月10日付の記事と明済世が<朝鮮物産奨励会報>第3号に書いた「本会沿革其三を記録して」に関連事実と該当住所が記録されている。昔の住所は京城府黄金町1丁目143で、現在は道路拡張の過程で滅失し、乙支路入口駅8番出口前の道路に変わっている。

日帝強占期/1926

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区 乙支路1街

崔益煥(1889~1959)は日帝強占期に活躍した独立運動家で忠清南道洪城で生まれた。1909年舒川郡財務主事として在職中に一進会(親日団体)の会員として活動していた過ちを反省し、お金を奪って亡命しようとしたが、逮捕されて獄中生活を送った。1919年3月末、崔益煥は全協とともに朝鮮民族大同団の結成に団結し、その年4月金嘉鎮を総裁に推戴した。 この団体は独立意識の高揚を目的に宣伝活動を行い、3・1運動のような第2回独立万歳デモを準備した。崔益煥は権泰錫の助けで資金を支援され、京城府舟橋町にある自分の借家に印刷施設を設置して「宣言書」約50枚と「機関方略」約40通、「陳情書」約20通、「布告」約50通を印刷した。 「宣言書」は大同団の趣旨と目的を掲載し、孫秉熙など民族代表33人の独立宣言に基づいて、最後まで朝鮮の独立のために奮闘することを宣言した文書だった。「機関方略」は大同団機関の構成および活動方法を規定した文書で、「陳情書」はアメリカおよびパリ講和会議に日帝の韓国併合の不法性を反駁して朝鮮独立の公認を要請する内容だった。 崔益煥はその年の5月、楊済殷の家で権泰錫とともに朝鮮人学生の独立運動決起を促す「登校学生諸君」約60通と「宣言」約2,000枚などを印刷して一般に配布する計画を実行している途中、5月23日に日帝の警察に発覚して逮捕された。 崔益煥の宿舎については《(大同団事件)予審終結決定》と《公判始末書(1)》《崔益煥訊問調書(第2回)》などに関連事実と住所地が記録されている。当時の住所は京城府舟橋町125番地であった。現在、家屋は滅失してその場所にビルが建っている。

日帝強占期/1919

文化/人物/その他

ソウル特別市中区舟橋洞

大同団宣言文印刷地

趙炳玉(1894~1960)家址は日帝強占期に活動した独立運動家兼政治家である趙炳玉の家屋があった所である。今の中区萬里ジェ路37ギル30に該当する。趙炳玉は忠清南道天安の出身で公州永明学校と平壌崇実中学、培材学堂大学部で修学し、1914年アメリカに渡ってペンシルバニア州所在のワイオミング高等学校を卒業した。1918年コロンビア大学に入学して同大学で修士と博士課程を修了した。アメリカ留学時代に興士団と北米大韓人留学生会の結成に主導的に参加し、ニューヨーク韓人会などに関与して外交活動に努めた。 1925年帰国後、延禧専門学校の教授に在職しながら安昌浩系興士団の国内組織である修養同友会に加入して活動した。1927年民族協同戦線で新幹会が創立される時、本部幹事として参加し、1929年複代表大会で中央執行委員候補と教育部長に選任され、光州学生事件真相発表民衆大会を推進して日帝の警察に逮捕され、懲役3年刑を宣告された。出獄後、1932年朝鮮日報の専務兼営業局長に就任し、1937年修養同友会事件で再び逮捕され、2年間の予審の末、高等法院で無罪判決を受けて釈放された。 光復後、韓国民主党の結成に参加して米軍政警務部長に在職し、大韓民国政府の樹立後、内務部長官・民主党代表最高委員・民議院議員などを歴任し、1960年第4代大統領選挙に立候補中に死亡した。1962年建国勲章独立章が追叙された。 趙炳玉家址は彼が生前に住んでいた家があった所で、《独立運動史資料集》14巻に京城府中林洞331-13という当時の住所が記録されている。現在、家屋は滅失して京畿女商本館敷地の一部に編入されている。

日帝強占期/1920年代以後

文化/人物/生家(址)

ソウル特別市中区中林洞

国防部政訓局址は1950年代に国防部政訓局があった所で、現在の中区明洞7キル21に該当する。国防部政訓局は国軍の言論・広報を担当する組織だった。北朝鮮軍の南侵が始まると、政訓局では6・25戦争の直前に休暇中の将兵を招集するために、戦争当日ジープ5台で将兵に直ちに原隊復帰を知らせる街頭放送を実施した。 政訓局は開戦直後に甕津の第17連隊が海州に突入したという未確認報道を発表して混乱を起こしたりもした。概して戦争期間中の将兵の精神教育はもちろん、対北放送、心理戦、学徒兵募集などを遂行して戦争支援に大きく貢献した。政訓局はソウル修復後に復帰したが、1・4後退時に釜山に再び避難した。そして、休戦時まで将兵の精神教育と対北心理戦などの役割を遂行した。 戦後の証言録と政訓局将校出身であるイ・ウォンボクの証言によれば、国防部政訓局は旧大韓証券取引所建物にあった。文化財当局でこの建物の保存を決定したが、所有主が2006年に旧建物を壊して、住宅商店複合建物である明洞アルヌボセントムを新築した。

現代/1950年代

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区乙支路2街

愛国人士拘禁址は6・25戦争が勃発して北朝鮮軍がソウルを占領した当時避難できなかった著名人が北朝鮮軍によって逮捕され、拘禁された場所である。朴順天、呂運弘などの戦後の証言によれば、残留国会議員の監禁場所は瑞麟洞ソンナムホテル(現韓国預金保険公社前の道路)だったという。 ソンナムホテルは北朝鮮軍がソウルを占領する間、ソウルから脱出できなかった著名人趙素昻、元世勳、白寬洙、呉夏英、張建相などを逮捕して監禁した場所である。当時彼らをはじめとしてソウルに残留した多くの市民は、6月27日に「安心して生業に従事しなさい」という李承晩大統領の放送を信じて避難しないでソウルに留まったが、翌日から北朝鮮軍に逮捕されて拘禁された。 北朝鮮軍と左翼協力勢力は占領期間の間彼らに今まで大韓民国に忠誠を尽くしたことを過ちとして反省し、北朝鮮軍に積極的に協力することを強要した。この中で朴順天、朴健雄など一部は脱出したりもし、一部要人は北朝鮮軍に協力したため、戦争が終わった後処罰を受けたりもした。 現在、ソンナムホテルの場所は1961年に行われた清渓川覆蓋工事とともに撤去され、道路に変わっている。

現代/1950

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区茶洞

海軍本部址は6・25戦争の直前に海軍本部があった場所である。当時海軍幹部であった咸明洙提督などの証言によれば、現在の明洞ミリオレビルの場所が旧海軍本部の場所だという。 海軍は1945年8月の解放直後、海事隊が組織されて始まり、1946年1月に国防警備隊に編入された。仮政府の樹立とともに1948年9月に海軍が正式に発足した。一方、1949年4月には海兵隊が組織された。このような過程で海軍本部は寛勲洞・鎮海・釜山などを経て、戦争の直前に中区忠武路に場所を移した。 6・25戦争勃発当時、海軍総参謀長だった孫元一提督は艦艇を購入するためにアメリカに滞在していた状態であった。これに対して海軍士官学校長であるキム・ヨンチョル大佐が総参謀長代理として役割を遂行した。キム・ヨンチョル大佐は国防部で戦況を確認した末に国連軍の参戦まで海軍本部を撤収させた方が良いと判断し、1950年6月27日の夜、本部を水原に移したが、28日再び大田に移した。この過程で海軍本部はしばらく海軍作戦本部に縮小されたが、9月5日に釜山で再び海軍本部に改編された。海軍本部は1960年にソウル新吉洞(旧柳韓洋行周辺)に復帰したが、1993年に鶏龍台に移転した。

現代/1950

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区忠武路1街

申錫九(1875~1950)舎宅址は申錫九が担任していた水標橋教会の牧師の舎宅があった所で、今の中区水標洞65-3番地に該当する。1919年8月26日に高等法院の<申錫九訊問調書>および<孫秉熙など48人判決文>などによれば、当時の住所は京城府水標町65と記録されている。現在家屋は滅失して家屋があった場所にはビルが建っている。 申錫九は忠清北道清州で生まれ、協成神学校(現監理教神学大学)を卒業した後、監理教の牧師になった。ソウル・開城・春川・元山・南浦などで伝道事業に従事する一方、民族思想の鼓吹に尽くした。1919年3・1運動の時は、呉華英(1880~1960)の勧誘を受けて民族代表33人の一人として泰和館独立宣言式に参加し、2年間獄中生活を送った。2年間の獄中生活を送った後にも、監理教団の次元で神社参拝を拒否して免職されたりもした。1945年5月、戦勝祈願礼拝と日章旗の掲揚拒否で龍江警察署に連行され、監獄で解放を迎えた。 光復後には北朝鮮に残って牧会を続けたが、1949年4月鎮南浦反共秘密結社組織陰謀事件の主謀者として逮捕され、平壌刑務所で獄中生活を送り、6・25戦争の時犠牲になった。1963年に建国勲章大統領章が追叙された。

日帝強占期/1919

文化/人物/その他

ソウル特別市中区水標洞

申錫雨(1895~1953)家跡は日帝強占期に独立運動家として活動した申錫雨の家屋があった場所で、現在の中区水標洞67-1番地である。申錫雨はソウルの出身で旧韓末の武臣である申泰休(生没未詳)の息子である。日本の早稲田大学専門部を卒業し、1919年上海に渡って大韓民国臨時政府の臨時議政院議員などを歴任した。その後帰国し、1924年9月経営難に瀕していた朝鮮日報社を親日派の宋秉畯(1858~1925)から買収し、社長に李商在(1850~1927)を迎え入れて「朝鮮民衆の新聞」に変貌させた。1927年2月に結成された民族協同戦線新幹会に参加して主導的な活動を行った。 1927年3月李商在が亡くなると朝鮮日報社長に就任した。引き続き、1931年まで社長に在職する間ソウル堅志洞に新しい社屋を建てた。1929年から始めた「帰郷男女学生文字普及運動」は日帝強占期に新聞社が行った民衆運動の代表的な事例であった。1931年経営難で朝鮮日報社長を辞任した。1995年建国勲章独立章が叙勲された。 申錫雨の家跡については《独立運動史資料集》14巻と《新幹会役員名簿》に該当住所地が記録されているが、当時の住所は京城府水標町67だった。今日の中区水標洞67-1番地に該当し、現在家屋は滅失してその場所にビルが建っている。

日帝強占期/1920年代

文化/人物/生家(址)

ソウル特別市中区水標洞

コリアナホテル(Koreana Hotel)はソウル特別市中区世宗大路135に位置する特2級ホテルである。地下2階地上24階の建物で、1972年に新築した。ソウル光化門交差点に位置し、Nソウルタワー、宗廟、徳寿宮美術館、ソウル市庁、南大門市場などソウル市内の有名観光地との交通の便が良い。 このホテルは1969年韓日国交正常化以降最初の民間借款で、朝鮮日報社が本来朝鮮日報社屋だった敷地に日本の伊藤忠商社から400万ドル借りて建てたものである。1969年に着工に入り、1972年12月に「朝鮮日報社ホテルコリアナ」という商号で開館した。開館当時には268室の客室があった。外国人が宿泊できたホテルとしてはかなり以前に建築された半島ホテルと朝鮮ホテルしかなかった時期に、コリアナホテルは最新式のホテルだった。 1974年8月株式会社コリアナホテルに商号を変更し、1988年ソウルオリンピックの時はオリンピックメインプレスセンター食堂を運営した。また、まもなく開催された障害者オリンピックでは選手村食堂を引き受けて運営した。コリアナホテルは1989年に観光ホテル特2級判定を受けた。そして、開館以来数回の客室増設と外観および宴会場の改装を経て現在の姿に至った。 コリアナホテルは歴史の情趣を感じることができる景福宮、徳寿宮などの故宮と現代的な感じで再構成された清渓川、光化門広場を背景に広がるソウルの四季を見ることができる。また、顧客の便宜を満たすために337室の多様な客室を備えている。そして、洋食堂・中華食堂・和食店など多様な飲食付帯施設と最大220人を収容できる宴会場、フィットネスクラブなどの付帯施設も備えていて、ソウルの都心において有数のホテルの一つである。

現代/1972

場所及び施設/宿泊、食事/ホテル

ソウル特別市中区太平路1街

プレジデントホテル(President Hotel)はソウルの中心部であるソウル広場の前に位置する観光ホテルである。プレジデントホテルの建物はペクナム観光㈱が1969年8月に着工して1972年12月に完工した。地下3階地上27階規模で建物自体の名称はペクナムビルである。ホテルの運営はペクナム観光㈱が受け持っているが、この会社は漢陽大学財団である漢陽学院の関係会社で純粋な国内資本で設立された。 プレジデントホテルは建物を完工した翌年である1973年1月に201室規模の一流ホテルで登録して開館した。同年2月に客室102室を増設して合計303室になって現在に至っている。 プレジデントホテルは1975年観光の日大統領表彰を受けたのをはじめとして、各種表彰と産業褒賞を受賞した。また、調理理事が調理名匠を受賞し、誠実模範納税業者に選ばれるなど、国内外のホテル文化をリードしている。現在、韓食堂、洋食堂、和食店をはじめとする各種食堂とコーヒーショップなどを営業している。付帯施設には多様な規模の行事を行うことができる宴会場および国際会議場、ウェディングホール、ビジネスセンターなどがある。 プレジデントホテルが位置する乙支路はソウルの中心部に該当する所でソウル市庁の直ぐ前である。大規模な商圏と金融・ビジネスなどのオフィスタウンを形成しているこの地域で合理的な価格で多くのビジネスマンを誘致している。周辺に故宮やショッピングセンターなどが密集していて観光やショッピングにも便利である。

現代/1973

場所及び施設/宿泊、食事/ホテル

ソウル特別市中区乙支路1街

パシフィックホテル(Pacific Hotel)はショッピングとビジネスの中心部である明洞に位置する観光ホテルである。地下2階地上9階、客室数181室で1975年に開館した。1972年10月ホテルの新築のために敷地を買い取り、翌年5月22日韓国の㈱三丘商事と日本の食道園が合作投資契約を締結した。契約直後の1973年6月にホテルの建築に着工し、1975年2月に観光ホテルとして登録してパシフィックホテルを開館した。開館当時の等級は1等級だった。 開館後、歳月が流れてホテルの施設が修理された。1988年建物の対内外に全面的な改修・補修が行われ、1989年と2000年、2008年と2012年まで持続的に客室の増設を断行した結果、現在181室を運営している。また、2003年から2005年までホテル全館にかけてリノベーションおよび施設を交換して現代的施設に生まれ変わった。これを基に2005年にホテルの等級が特2級に昇格した。 パシフィックホテルには現在韓食堂と洋食堂など各種食堂とコーヒーショップ、サウナなどの施設が営業をしている。その他に付帯施設にはビジネスセンター、バー、土産品店などがある。 パシフィックホテルはソウルの名所である南山が背後にあり、南山の美しい景観を楽しむことができる。そして、南山の各種散策路と観光地を容易に利用できてビジネス目的の顧客がたくさん訪れる。また、都心のショッピング文化の1番地といえる明洞の繁華街も隣接していて観光客が便利に多様なショッピング文化を楽しむことができる。

現代/1975

場所及び施設/宿泊、食事/ホテル

ソウル特別市中区南山洞2街

世宗ホテル(Sejong Hotel)は1966年12月20日に開館したホテルで、世宗大学財団が運営している。世宗大学の前身である首都女子師範大学の主導で旧首都女子師範大学建物にホテルを建てた。「世宗」という名称は世宗大王の精神を活かすという意味で付けた名前である。首都女子師範大学は世宗ホテルの開館後である1979年に世宗大学に名前を変えた。 1966年ホテル開館後、新館を追加して建設した。工事の途中である1967年3月23日夕方、新館の建設現場で火災が起きて3階と4階が全焼する事件もあった。 世宗ホテルは1973年に特等級観光ホテルに昇格し、1978年から世宗投資開発株式会社がホテルの運営を受け持っている。世宗投資開発株式会社は世宗大財団である学校法人大洋学院が出資して建てた会社である。 2001年客室40室を増築したのに続き、2010年から2012年にかけて小規模だが客室数を増やした。そして、2013年には10階と11階に対するリノベーションを断行して着実に施設改善に努めている。現在は地上15階建物に客室数333室、レストランと宴会場を備えていて、付帯施設としてビジネスセンターと世宗ギャラリーなどがある。 世宗ホテルはショッピング、観光、ビジネスの中心である明洞に位置し、四季を通して美しい南山と華やかなダウンタウンの全景を鑑賞することができる。また、都心のショッピング街と各種観光地を便利に利用できる長所がある。

現代/1966

場所及び施設/宿泊、食事/ホテル

ソウル特別市中区忠武路2街

旧コスモス百貨店は1970年4月、在日同胞の丁奎成が明洞に建てた百貨店である。1970年代新世界・美都波百貨店とともに全盛期を享受し、「石を置いても売れる」という言葉があるほどであった。若者の間では出会いの場所として有名で、公示地価はウリィ銀行本店(旧商業銀行)の次に高い建物でもあった。 しかし、1979年道の向かい側にロッテ百貨店が建って生存競争が本格化した。コスモス百貨店は多様なコンセプトのロッテ百貨店に対抗できず営業不振に苦しめられた。その上、無理な事業拡張で1991年コスモス電子とコスモス電気が不渡りになった。以後、コスモス百貨店も不渡り処理され、1992年豊韓産業に売却された。 豊韓産業は大型ファッション商店街を計画して1995年9月28日コスモスプラザを開場した。しかし、建物の所有者が百貨店の売却代金を適期に支払わず2ヶ月で再び廃業することになった。1996年7月建物を競売にかけたが、4年間引受人が現れず、「明洞の凶家」という汚名まで着せられることになった。 以後、プライム産業が2000年3月この建物を買収し、2年後地下2階地上8階規模のアバターモールを開いた。アバターモールは開場以後しばらく人気を博したが結局失敗し、2007年コラムコ資産信託が買収した。コラムコ資産信託は建物を大々的に改装した後、2009年ヌーンスクエア(Noon Square)という名前で再び開場した。そして開場から2年で黒字転換に成功した。 ヌーンスクエアは道の向かい側の百貨店との競争は避け、若い女性がたくさん訪れる明洞の特性に合わせた戦略を追求している。アバターモールの時期に1,300余りに細かく分かれていた売場を整理して入店ブランドの数を30余りに大幅に減らし、売場面積を広げてブランド固有の特徴をよく見せられるようにした。それとともに多数のグローバル衣類ブランドが入店することになった。一日平均50万から70万人に達する明洞の流動人口のうち、ヌーンスクエアを訪れる人は約2万5千人から3万人に達するほどで、すでに「明洞の凶家」は昔話になった。

現代/1970

場所及び施設/ショッピング/その他

ソウル特別市中区明洞2街

スカンジナビアンクラブ(Scandinavian Club)はソウル中区乙支路6街の国立中央医療院内にあった北ヨーロッパスタイルのビュッフェレストランである。1958年11月国立医療院の開院と同時にスカンジナビアンクラブの歴史も始まった。 1950年6・25戦争が勃発すると、国連安全保障理事会は16ヶ国で構成された国際連合軍を韓国に派遣した。しかし、北ヨーロッパの三ヶ国、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンはそれぞれ病院船と野戦病院、そして赤十字病院を通じて戦争の負傷者のための医療団を派遣し、1953年7月休戦協定が締結されると本国に帰還した。休戦になっても、韓国は残酷な戦争の後遺症で医療施設が非常に不足していたので、韓国政府は再び国連を通じてスカンジナビア3ヶ国の医療支援を要請した。そして、1956年3月、韓国政府とスカンジナビア3国の政府、そして国連の韓国再建団(UNKRA)が共同でソウルに医療院を設置することに合意し、ついに1958年10月今の国立中央医療院が開院することになった。 それから1967年まで10年間、1・2次協定を経て年間人員370人余り(家族含む600人余り)に達するスカンジナビア医療スタッフが国立医療院に駐在した。当時スカンジナビアンクラブはその駐在医療スタッフのための食堂および社交の場として活用された施設だった。1968年スカンジナビア医療団が完全に撤収し、韓国政府とスカンジナビア医療使節団は国立医療院の完全委譲とともに「韓国-スカンジナビア財団(ハンス財団)」を設置してスカンジナビアンクラブの運営を任せることに合意した。そして、その収益金は国立医療院とスカンジナビア3国の病院との交流のために使うことになった。 2008年10月25日、国立中央医療院が設立50周年を迎えてスカンジナビアンクラブも50年の歴史を持つことになった。スカンジナビアンクラブは北ヨーロッパスタイルを守って1980年代まで会員制で運営された高級レストランで、政官界と財界の名士たちがよく利用した所である。しかし、2012年経営難を克服できずに廃業した。現在はその場所に病院を利用する人のための便宜施設が建っている。

現代/1958

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区乙支路6街

小公地下道商店街はソウル特別市中区小公路に位置する地下ショッピングセンターである。2005年に改装した後、地下1階5,736㎡、地下2階1,061㎡、合計6,797㎡の規模を備え、長さは340mで店舗数は151店舗である。管理主体は㈱小公ショッピングセンターで、主に日本人など外国観光客を相手に土産品、陶磁器、民俗工芸品などを販売している。 1976年に開場した小公地下道商店街は一時ソウルで最も繁盛するショッピング地に選ばれた。ロッテ・朝鮮・プラザホテルがすべて近くに位置する卓越した立地のおかげで外国人観光客が多く、70年代後半から80年代までは美都波・コスモス・新世界・ロッテ百貨店をつなぐハブの役割をしたからである。 今はその当時の勢いとは比較にならないが、まだ貴金属、高級時計、オーダーメイドスーツなどを売る店が多数残っていて、近隣の他の地下商店街とは全く違う雰囲気が漂う。商人も大部分30年から40年近くここで商売を続けていて自負心がすごい。 小公地下道商店街はロッテ百貨店本店・ヤングプラザ・アヴェニュエル地下につながる通路があり、ソウル市庁と明洞をつないでいてこの一帯を旅行したりショッピングする観光客の必須コースといえる。利用時間は午前10時から午後8時までで、休業日は第1・第3日曜日である。通路開放時間は午前4時30分から午後11時30分までである。 2005年にソウル特別市施設管理公団が71億ウォンを投入して現代式に全面改装した。そして、2015年8月にはソウル市が南大門市場現代化事業総合対策で南大門市場一帯の小公・会賢・明洞・南大門路・明洞駅・会賢駅など6つの地下商店街を一つに連結する事業を推進することに決めた。これら商店街は1970年代後半頃に造成されたが、互いに断絶していて観光客が利用するのに不便だった。6つの地下商店街を一つに連結すれば、地上に出なくても会賢地下商店街から小公や明洞、南大門路地下商店街に移動できて小公地下道商店街も今後さらに活性化すると予想される。

現代/1976

場所及び施設/ショッピング/その他

ソウル特別市中区南大門路2街

小公地下ショッピングセンター

マックスタイル(Maxtyle)はソウル特別市中区新堂洞にあるファッション専門ショッピングモールである。本来この敷地には1979年に開場した興仁市場と徳雲市場があったが、これを再開発して2010年10月に開場した。マックスタイルは‘maximum style’の略語で顧客に最大の満足と価値を提供してファッションと文化を創造し、先導する感性文化のリーダーになる複合的文化空間を意味する。 施行者は東大門中部商圏市場再建築事業組合、施工者は㈱大宇建設で、地上17階地下7階の規模で建てられ、建築面積は2,493㎡で延面積は49,938㎡である。このうち地上8階から地下2階までがファッションショッピングモールである。合計10階を、地下1階はヨーロッパの路地、地上1階はランウェイ(runway)上の一日、地上2階はホットクラブ(地上2階)で整えるなどそれぞれ違ったコンセプトのインテリアを採択したのが特徴である。 1990年代に入り東大門市場は卸売衣類市場で少量多品種の超スピード生産方式を基に飛躍的な発展を繰り返した。特に、ロシア・中国など社会主義国家との修交で世界各国への輸出が可能になり、南大門市場を抜いて国内衣類市場の主導権を完全に掌握した。その結果、商圏が拡大して東大門市場にデザイナークラブ、ウノコレ、チーム204、プレヤタウン、ミリオレ、斗山タワーなど現代的なファッションショッピングモールが建った。そのような市場変化の中で伝統市場である興仁市場と徳雲市場が再開発を通じて変化したのがマックスタイルである。 マックスタイルは2007年分譲時、地下鉄2・4・5号線が通る東大門歴史公園駅が商店街地下1階とつながってCOEXモールのように開発されると広告し、1,700人余りが分譲を受けた。しかし、以後マックスタイルと地下鉄の駅連結計画が取り消された。これによって分譲主と施工者、組合長の間で法的紛争が起こったりもした。 2013年に開館したすぐそばの東大門デザインプラザパーク(DDP)の特需を期待したりもしたが、2014年基準1階の大部分と4階の一部だけ入店し、残りは半分以上が空いている。各階では地下1階から地上2階は女性衣類および雑貨、4階は紳士服売場を運営している。営業時間は平日は11時から翌日5時まで、土曜日は11時から翌日2時までで、毎週日曜日は休業である。

現代/2010

場所及び施設/ショッピング/その他

ソウル特別市中区新堂洞

キョンギビルは鉄筋コンクリートで建てられた6階建物で、ソウル特別市中区小公洞に位置している。このビルは小公洞112番地一帯にある7棟の近代建築物(ハンウビル・サムボビル・チルソンビル・プウォンビル・ハンイルビル・タガビル・キョンギビル)の一つとして、1960年代ソウルで最も賑わっていた小公洞の事務所通りを証言する代表的な建築物である。 キョンギビルが位置する小公路は大韓帝国の時期に行われた都市計画の一環として造られた。1897年朝鮮ホテル付近の圜丘壇で高宗が大韓帝国を宣言した後、放射形の道路網が整えられた。現在の韓国銀行から市庁前広場までのびている500m余りの道は、慶運宮(現在の徳寿宮)から圜丘壇、そして大観亭址に長く続いている。この道は大韓帝国の時期に皇帝のための道として造られたが、南大門路に日本人の領事館と商店街が建って本来とは違った意味の道路になり、繁盛した。 小公路の全盛期は1950年代から1970年代までで、特に1960年代が最盛期であった。当時小公路は金融機関と報道機関・洋服店・貿易事務所・食堂やカフェなどが立ち並ぶ活気に満ちたオフィスタウンだった。しかし、1975年事務所が汝矣島に移り、1978年南山三号トンネルが開通すると、小公路は江南・江北行きの車が行き来する道になってしまった。この時期に繁盛した洋服店も既製服に押されて次第に閉店し、1980年代の再開発の失敗と1997年の金融危機などを経て、小公路は衰退の道を歩んだ。現在、キョンギビルはタガビル・チルソンビルなどとともに空いている。 2015年ソウル特別市は小公路の大観亭址とキョンギビルをはじめとする近代建築物7棟を撤去した場所に27階規模のホテルを建てるというプヨングループの再開発案を最終通過させた。小公路は1980年代以降衰退したが、去る100年の間ソウルの都市発展の側面を証言するという点でこれら近代建築物が持つ価値は少なくない。このために小公洞112番地の7棟の建物の撤去は多くの人々に名残惜しさを与えている。

現代/1960年代

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区小公洞

チルソンビルはソウル特別市中区小公洞に位置している。このビルは小公洞112番地一帯にある7つの近代建築物(ハンウビル・サムボビル・チルソンビル・プウォンビル・ハンイルビル・タガビル・キョンギビル)の一つとして、1960年代ソウルで最も賑わっていた小公洞の事務所通りを証言する代表的な建築物である。鉄筋コンクリートで建てられた6階建物で、サムボハンウビルとプウォンビルの間にある。 チルソンビルが位置する小公洞は朝鮮初期太宗の次女である慶貞公主の夫である平壌府院君趙大臨にこの土地を与えた後から俗称「小さな公州ゴル」すなわち「小公州洞」と呼ばれたところから由来する。 以後、1897年高宗が圜丘壇で大韓帝国を宣言してから小公路が整備され始めた。そして、小公路は徐々に放射形の道路網を備えるようになり、日帝強占期と産業化時期を経てさらに賑わった。 小公路は日帝強占期から発展したが、最盛期は1960年代であった。当時小公路には金融機関と報道機関・貿易事務所・洋服店・食堂・カフェなどが道端に並び、いつも活気があふれる所だった。しかし、1970年代以降汝矣島と江南が開発されて多くの事務所がそこに移り始め、ここで繁盛していた洋服店も徐々に既製服に押されて閉店した。 1980年代にはさらに急激な衰退の道を歩んだ。この頃再開発の失敗と1997年の金融危機などを経て小公路は空洞化したも同然となった。現在多くの事務室が倉庫で使われるか空いている状態で、チルソンビルもタガビル・キョンギビルなどと一緒に空いている状態である。 2015年ソウル特別市は小公路の大観亭址とチルソンビルをはじめとする近代建築物7棟を撤去した場所に27階規模のホテルを建てるというプヨングループの再開発案を最終通過させた。小公路は1980年代以降衰退したが、去る100年間ソウルの都市発展の側面を証言するという点でこれら近代建築物が持つ価値は少なくない。このために小公洞112番地の7棟の建物の撤去は多くの人々に名残惜しさを与えている。

現代/1960年代

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区小公洞

奨忠壇キル(奨忠壇キル)共同住宅はソウル特別市中区獎忠洞1街一帯に位置する連立住宅形態の建物である。東大門運動場と奨忠壇公園をつなぐ興仁門路奨忠洞豚足店通りの近隣にあるが、道路沿いでない鉄大門の内側にあって外部から探すのは難しい。 この共同住宅は計画的な設計や施工を備えて形成されたのではない。1945年の光復と1950年の6・25戦争以後、経済的遅れと物資不足、都市の人口増加、海外同胞の帰国などで住宅不足問題が深刻な状況で、避難民などの移住民は山裾の川端や鉄道沿いの公有地などに自分たちの住みかを作るしかなかった。 その中で奨忠洞一帯に建てた無許可住宅が拡大し、補修されて存続したのが現在の奨忠壇キル共同住宅である。このために1筆地あたり3階程度で形成された共同住宅は一般的なアパートや連立住宅と違った形態を有していて、各世帯もまた一定の規格がない。 1945年以降に形成されたこの建物が実際に使用承認されたのは1968年7月である。この時はソウル市の無許可建物陽性化事業が施行された時期であった。陽性化事業は1966年に実施された「バラック実態調査」を通じて把握された不良住宅を対象に住民自ら居住建物や住居環境を改良する場合、これを合法建物と認める事業技法だった。すなわち、当時無許可建物を整理するためにソウル市で最小限の建設資材だけを補助し、住民自ら家を改良するようにしたのである。このためにこの共同住宅は現在も零細な状態で残っている。数軒の家は外観を直して個別トイレを持つなど改装したりもしたが、空いている部屋が多く、主に外国人労働者がたくさん住んでいる。 奨忠壇キル共同住宅は60年以上もソウルの一方で村空間を維持したという点と光復以降の韓国の現代史の一面をよく示す空間という点で記憶する必要がある。

現代/1945

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区奨忠洞1街

貞洞アパートは1965年に大韓住宅公社がソウル特別市中区貞洞に新築したアパートである。このアパートは大韓住宅公社が東大門アパートに続いて作った二番目のアパートで、「高級アパート」と「中央庭園型構造」という点が似ているが、東大門アパートが口の字形構造ならば、貞洞アパートは鍵形で構成されたという点で違いがある。設計は日本人建築家がしたと伝えられている。 地上6階1棟に36世帯で構成されていて、各世帯は49㎡単一面積で部屋2、トイレ1、リビングキッチンで形成されている。最近では所有主によりワンルームに改装する場合もある。現在は建物1階の外観を大理石に改装するなど数回の大改装を経て竣工初期の建物の姿とは大きく変わった。それでも全体的な構造は以前と大差がない。改装前は建物がすぐに崩れそうなほど古く、映画やドラマで貞洞アパートが貧しい家の象徴としてしばしば登場したりもした。 しかし、近隣の貞洞ギルが旧韓末から政治と外交の中心地だっただけに、建設初期の貞洞アパートは代表的な高級アパートであり、居住者も国会議員や大学教授などが多かった。1969年にMBC貞洞社屋(現在の京郷新聞ビル)が建ち、芸能人がたくさん住んだりもした。現在は光化門と西大門近隣のサラリーマンなどが主な居住者である。 ソウル市は60年代の建築様式をそのまま収めている貞洞アパートを生活史的に意味があるという判断でソウル未来文化遺産に選定した。徳寿宮、貞洞教会、旧ロシア公使館、梨花女子高、旧新亜日報別館など旧韓末の姿を収めている貞洞でほとんど唯一の住居で、韓国の近代の姿をよく示しているという点で保存価値が高い。

現代/1965

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区貞洞

ソウルスクエア(Seoul Square)はソウル特別市中区ソウル駅の向かい側に位置するビジネスビルである。1977年に新築された大宇ビルを2009年に改装してソウルスクエアになった。地下2階地上23階の建物で、規模は敷地面積1万583㎡、延べ面積13万2,806㎡、建築面積8,027㎡で、最高高さは81.90mである。 外観デザインの場合、象徴的な建築物の外観を大きく変えずに新しい感じを与えるために、「ソウルキャンバス」という概念を導入して改装した。ビル全面に発光ダイオード(LED)電光掲示板を設置し、横99m、縦78mの先端デジタルアートキャンバスにした。このキャンバスの上でジュリアン・オピー(Julian Opie)など世界的な美術家の多様な映像作品が投影されるのがソウルスクエアの特徴である。 ソウルスクエアは本来大宇ビルだった。1974年に交通部(現国土交通部)が交通会館として建てて中断されたのを大宇グループが買収して1977年6月に竣工した。大宇グループが上昇気流に乗っていた時期、この建物は大宇グループはもちろん、韓国経済の高度成長の象徴ともいわれた。ソウル駅に到着して向き合うソウルの第一印象を決めた象徴的な建物で、1970年代から1980年代火が消えないビルのイメージは高度に成長する韓国経済を象徴したからである。実際に大宇ビルは一時国内で最も多い電力を使うビルとしても知られていた。 しかし、1990年代末大宇事件によって大宇系列会社は大宇ビルを離れ、錦湖アシアナグループが買収した。以後、外国系であるモルガン・スタンレーがビルを買収してから改装し、現在のソウルスクエアに名前を変えた。モルガン・スタンレーも不動産の景気低迷で事務室の賃貸が芳しくなく、ビルの価値も下落して巨額の損失を甘受し、シンガポール系投資会社に再び売却した。2015年現在はKRワン企業構造調整不動産投資会社がビルを所有している。 ソウルスクエアはソウルの都心に位置し、ソウル駅のKTXと仁川空港を連結する仁川国際空港鉄道、ソウル駅乗り換えセンターなどが連結され、ビジネスビルとしての立地条件が良い。2015年9月にはソウル市が「ソウル駅7017プロジェクト-17の人道」の一環として、ソウル駅高架公園とソウル駅周辺のソウルスクエア・大宇財団ビル・メトロタワービル・延世大学セブランスビル・ホテルマルなど5つの大型ビルを連結することにした。これに伴い、ソウル駅付近の大型ビル間の移動とソウル駅から南山公園へ行く道がさらに便利になると期待している。

現代/1977

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区南大門路5街

サムスン生命ビルはソウル特別市中区太平路に位置するオフィスビルである。1982年に起工式を行った後、2年6ヶ月の工事を経て1984年に竣工した。延べ面積26,200㎡、地下5階地上25階の規模で赤い花こう岩で装飾した外観が非常に特徴的である。 サムスン生命ビルの建設はサムスン生命の前身である東邦生命が推進した。当時東邦生命は業務効率化のために新社屋を建設することに決め、1979年に敷地を買い取った。1982年起工式を行い、1984年竣工した。竣工後、東邦生命が本社として使い始め、1989年に社名をサムスン生命に変えた後、現在までサムスン生命の本社として使っている。 このビルは震度5の強震に耐えられるように設計され、ビル自動化管理システムなど事務自動化設備も備えた。当時としては先端技術を活用した建物だったわけである。また、地下にアーケードと文化空間を設け、道路からビルまで25mの空間に都心公園を造成するなど市民に文化と休息空間も提供した。 この建物は1986年イタリアの国際建物コンテストで最優秀建築賞を受賞した。崇礼門のそばに位置して過去と現在が調和を成し、周辺の景観と滑らかに融和するという点が高い評価を受けた。建物の外壁の赤い花こう岩と周辺の景観との調和が特に引き立っている。 サムスン生命ビルは30年以上社屋として使われたという点でサムスン生命それ自体といえる。それだけでなく、サムスン本館建物とともにサムスングループを代表する象徴的な建物の一つでもある。

現代/1984

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区太平路2街

圜丘壇は天に祭祀を行う祭天壇で、1897年高宗(1852~1919)が大韓帝国の皇帝に即位して造成したものである。石鼓壇は圜丘壇の付属建物で、ソウル特別市中区小公洞にある。 石鼓壇は1902年高宗の即位40周年を記念するために建てたもので、圜丘壇東側の南別宮の場所に建てられた。石鼓壇は本来石鼓と石鼓を覆っている石鼓閣、正門である光宣門で形成されていたが、現在は石鼓だけが残っている。 圜丘壇は1913年日帝によって祭壇が取り壊され、その場に朝鮮ホテルが建てられて毀損され始めたが、圜丘壇の付属建物である石鼓壇も日帝強占期を経て受難を体験した。石鼓壇の庭に朝鮮総督府図書館が建ち、石鼓壇は皇穹宇の東側に移動し、石鼓閣は1927年南山東本願寺に移転され、光宣門は朝鮮総督府図書館の正門として使われた。 1967年朝鮮ホテルが再築され、圜丘壇は再び大きく毀損された。この時、皇穹宇、石鼓壇、三門などを除いた多くの施設が撤去され、圜丘壇の威容はこれ以上見ることができなくなった。 以後、朝鮮ホテル再築当時行方不明になっていた圜丘壇の正門が2007年に発見され、2009年に復元され、2012年から圜丘壇復元工事が実施され、2013年6月から再び一般に開放された。

大韓帝国/1902

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区小公洞

圜丘壇石鼓壇

圜丘壇は天に祭祀を行う祭天壇で、皇穹宇は神位版を奉安する付属建物である。圜丘壇は1897年高宗(1852~1919)が大韓帝国の皇帝に即位して造成された。本来、圜丘壇は3階建ての円形の壇とこれを取り囲んだ円形と四角形の塀で構成された圜丘壇の領域と、円形の塀で区切られた東・西廡を左右に置いた皇穹宇の領域で構成された祭天壇だった。現在、祭壇はなくなったが、皇穹宇の建物は圜丘壇の北側に位置している。 皇穹宇が建築された時期は1898年陰暦7月15日から1899年の間である。圜丘壇は1897年に新築されて全体が造られたのではなく、7年余りにかけて数回の改修と追加工事を経て完成された建物である。初期には圜丘壇だけ造られたが、1899年前後に皇穹宇が造られ、皇穹宇が造られた後、引き続き皇穹宇の東・西廡が修築された。以後1900年には斎室と行閣が造られる。そして、1901年圜丘壇が改修されて一部建築物が建ち、1903年からは周辺を整理して最終的に完成する過程を経る。 皇穹宇は3階建てで、1、2階は吹き抜けになっていて全8間で構成されている。両側の東・西廡はそれぞれ3間ずつだった。柱は角当たり3本ずつ合計24本の柱が支えていて、栱包は翼工系である。基壇の上には石欄干で囲まれていて、清の影響を受けた装飾が多い。建設当時は厨子が設けられておらず、周辺の東・西廡に神位を保管し、1908年に入ってから皇穹宇に神位を移した。 1913年日帝が圜丘壇を撤去して朝鮮ホテルを建てる時、また、1967年朝鮮ホテルが再築され、圜丘壇のほとんどの施設が撤去されて大きく毀損された時にも、原形とはかなり変わったが、皇穹宇はその場所を守り続けた。2007年に行方不明だった圜丘壇の正門が40年ぶりに発見され、2009年に復元され、2012年に圜丘壇復元工事が実施された。2013年6月から再び一般に開放された。

大韓帝国/1898~1899

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区小公洞

圜丘壇皇穹宇

柳寛順(1902~1920)井戸はソウル特別市中区貞洞の梨花女子高等学校の構内にある遺跡である。この井戸で柳寛順が学生時代に洗濯をしたと伝えられている。柳寛順は日帝強占期の独立運動家で忠清南道天安で生まれた。1916年、宣教師の紹介でソウル梨花学堂普通科3学年に校費生として編入し、1918年には梨花女子高等普通学校に入学した。1919年、3・1運動が起きると、学生たちとともに街頭デモを行い、学校が休校に入ると、帰省してアウネ市場で群衆に太極旗を配るなど万歳デモを主導し、逮捕されて獄中で殉国した。1962年建国勲章独立章が叙勲された。 柳寬順の母校である旧梨花学堂の場所には現在梨花女子高と梨花外高があり、これらキャンパス内に柳寬順が学生時代に洗濯したという井戸が実際に伝えられている。貞洞ギル側にある梨花女子高の東門に入ると、イチョウとアカシアで囲まれたところに案内板が見え、直径1.5m程度の典型的な昔の井戸がある。かつて、ここ貞洞の丘に住んでいた朝鮮時代の庶民が共同で使った井戸であり、梨花学堂が開校した以後には柳寬順をはじめとする梨花学堂の寮生がここで洗濯をしたという。当時の女子学生の生活をのぞくことができる遺跡である。現在は地下水の汚染によって使われていない。

日帝強占期/1916年以後

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区貞洞

徳寿宮九成軒址はソウル特別市中区貞洞の徳寿宮内にあった2階構造の洋式建物である九成軒があった場所である。徳寿宮は史跡第124号で、本来の名称は慶運宮だったが、1907年高宗が純宗に譲位した後、ここに住んで名称を徳寿宮に変えた。徳寿宮内には1900年以降に建設された惇徳殿・重明殿・静観軒・石造殿など洋式建築物があったが、九成軒もそのうちの一つである。 九成軒は現在の石造殿のすぐ後方にあった建築物である。小田省吾が1938年に著述した《徳寿宮史》などを通して九成軒の存在が伝えられているが、その建築形態や規模、機能などは具体的に知られておらず、史料を通した推定が多い。但し、その設計は孫澤ホテル、ロシア公使館、徳寿宮宮殿などを設計したロシア建築技師サバティン(A.I. Sabatine)がしたという記録がある。 九成軒は概して1899年以前に建設されたと推定される。《高宗実録》に1899年11月高宗がここで日本およびロシア公使に接見した記録があるからだ。そして、1900年から1910年の間に工事中である石造殿とともに撮られた写真があり、その工事の進行期間中に撤去されたと推定されている。一方、九成軒は前面約10.6m、側面約9.7m、建物面積35坪程度の小規模な2階建物で、南に配置した建物の上下階にはすべてアーケードにしたバルコニーがあり、レンガ建物に石灰を塗って屋根はトタンをのせたものと推定される。 この建物は惇徳殿が建設される前まで税関として使われ、惇徳殿が建設された後には高宗の外国使節の接見場所として使われたものと推定される。アペンゼラーのアルバムにイギリス領事館およびアメリカ領事館とともに建物の側面一部が出ており、この建物に“custom bldg”という朱旗がついているからである。 九成軒は旧韓末大韓帝国の状況と近代化をよく説明する重要な建物の一つである。しかし、発見された史料が限定され、その復元が容易ではない。したがって、九成軒の復元および保存のためには関連史料の収集と研究が先行する必要がある。

大韓帝国/1899年以前

文化/遺跡地、史跡地/宮廷址

ソウル特別市中区貞洞

徳寿宮惇徳殿址はソウル特別市中区貞洞の徳寿宮内にあった2階構造の洋式建物である惇徳殿の場所である。徳寿宮は史跡第124号で、本来の名称は慶運宮だったが、1907年高宗が純宗に譲位した後、ここに住んで名称を徳寿宮に変えた。徳寿宮内には九成軒・重明殿・静観軒・石造殿など洋式建築物があったが、惇徳殿もそのうちの一つである。 惇徳殿はその規模が徳寿宮内で最も大きい建物である石造殿に次ぐ大きさであり、1910年に完工した石造殿より早い1901年頃に建てられ、各国の使節との外交儀礼はもちろん、1907年純宗の即位式が行われた近代史の核心的な現場である。 惇徳殿の名称は《書経》舜典篇に出てくる「徳のある人を厚くし、善良な人を信じる(惇徳允元)」という文から取った言葉である。惇徳殿の来歴は正確に把握されていない。但し、小田省吾が1938年に著述した《徳寿宮史》などを通して惇徳殿は1901年頃に建設されたと推定される。また、2階構造の純洋式建物であり、その規模と面積は長さ127尺ほど、幅95尺ほどで建築面積約350坪、延べ面積約700坪だったと推定される。設計は孫澤ホテル、ロシア公使館、徳寿宮宮殿建物などを設計したロシア建築技師サバティン(A.I. Sabatine)が引き受けた。 惇徳殿は本来総税務司であるイギリス人のブラウン(Sir. John McLeavy Brown)が管掌した海関区域(Custom Compound)内に海関庁舎の用途で建てられた建物だった。しかし、慶運宮の領域が拡張され、その宮廷内に編入されるに至った。具体的な位置は現在の徳寿宮圏域の北西側の隅、石造殿の後方である。 当時の写真などを通して外観を見ると、レンガ造りの2階建物で、屋根は傾斜が急な寄棟屋根で処理され、側面と後面にとがった円錘形の尖塔を設けたのが特徴的である。また、1階と2階すべてレンガ柱の間にアーチを設けてアーケードを形成した。レンガ柱には大韓帝国皇室の象徴である梨の花模様の装飾を形成して視覚的に目立つようにした。 惇徳殿は主に皇帝の謁見所または宴会場として使われた。1907年純宗の即位式、1912年高宗の新年賀礼式などが惇徳殿で行われたと記録されている。一時、俄館播遷当時の写真として知られていた写真の中の建物が惇徳殿である。 惇徳殿は1919年高宗の死後にはほとんど放置され、1921年以後撤去されたと推定される。2011年大韓帝国期の法規集である《法規類篇(1908)》で惇徳殿の平面図が発見され、徳寿宮復元計画がより一層はずみをつけている。惇徳殿は旧韓末大韓帝国の状況と近代化をよく説明する重要な建物の一つである。したがって、限定された史料によってその復元は難しいが、その復元および保存が必要な建物といえる。

大韓帝国/1901

文化/遺跡地、史跡地/宮廷址

ソウル特別市中区貞洞

奨忠体育館入口から茶山八角亭まで達する東湖路17ギル一帯の長さ1kmの城郭探訪路の周辺には古い住宅が密集していて休息空間や販売施設、駐車場などが不足している。これに伴い、中区庁では老朽化した状態で放置された城郭道一帯を公共拠点の造成と民間投資の誘致などによって活力あふれる「芸術文化通り」にしようとしている。「芸術文化通り」造成事業の1段階として茶山アート公営駐車場の地上2~3階に2014年7月COREART城郭道芸術遊び場が設置された。 COREARTは韓国を知らせる国内唯一の文化芸術教育および体験施設である。中区庁と文化芸術社会的企業㈱ヘラが協約運営している。韓国の伝統文化と韓流文化のコンテンツおよび教育開発など多様な文化事業を通して地域民のための文化芸術教育の中心的な役割をしている。 COREARTは外国人のための韓国文化体験の場所でもある。ここは練習室が見えるカフェ、最大100人まで収容可能な2~3階の練習室、300席規模の野外公演場で構成されている。教育プログラムは大きく三つに分けられる。まず、一般人のための専門文化芸術教育プログラムがある。打楽・サムルノリ・ダンスなどの授業で以後同好会・専門家・趣味・講師に発展することができる。韓国文化体験プログラムは韓国を十分に経験したい国内外の個人および団体を対象に運営するプログラムで、セルフカクテルバー体験、太鼓作り、打楽パフォーマンスとKポップカバーダンスなどで構成されている。職業進路体験プログラムは小・中・高など学生を対象に芸術家関連体験をするプログラムで、120分の商品と240分の商品で構成されている。専門家課程(1つの職業群体験)または多角的探索(三つの職業群体験)に分かれて10人の小規模団体から170人まで収容可能だ。 COREARTでは公演観覧後、出演俳優陣とともにミュージカル<ファンタスティック>のハイライト部分を完成し、伝統太鼓を制作する体験プログラムも設けている。 

現代/2014

場所及び施設/展示、観覧施設/公演場、小劇場

ソウル特別市中区新堂洞

反民特委址は1948年に設置された反民族行為特別調査委員会が位置した所で、今の中区南大門路86の場所である。反民族行為特別調査委員会の略称である反民特委は、1948年8月憲法第101条に基づいて制憲国会に設置された。日帝強占期に日本に協力して悪質的に反民族行為を犯した人を調査して処罰するために置いた特別委員会である。 反民特委の活動成果は総取扱件数682件中起訴221件、裁判所の判決件数40件で体刑はわずか14人に終わった。実際の死刑執行は1人もなく、体刑を受けた人も直ちに解放された。反民特委は国会偽装活動家事件と6・6特警隊襲撃事件を体験して瓦解し始めた。 国会フラクション事件が親日派剔抉の主導勢力だった少壮派議員をスパイ疑惑で逮捕することによって反民特委を萎縮させた。そして、特委傘下の特警隊に対する警察の襲撃は反民特委の廃棄法案を通過させることによって民族反逆者に対する処罰を不可能にした。 光復後の韓国の課題はまず自主的な統一政府の樹立であり、このためには何よりも日帝強占期に反民族行為を犯した親日派の清算が重要だった。反民特委は設置目的により親日反民族行為者に対する下調べを皮切りに意欲的な活動を行ったが、親日派と結託した李承晩(1875~1965)政府の妨害、親日勢力の特委委員の暗殺陰謀、親日警察の6・6特警隊襲撃事件、金九(1876~1949)暗殺、そして反民特委法の改正で所期の成果をあげることができず、結局1949年10月に解体された。 米軍政の親日派保護政策まで重なってかえって親日勢力に免罪符を付与する結果を招いた。時が流れ、反民族行為者が復活して社会各分野の要職を掌握することになってしまった。 現在、中区乙支路2街国民銀行建物駐車場入口には反民特委本部があった場所であることを記念して、民族問題研究所が1999年に立てた標石が位置している。反民特委址の標石には「ここは民族抹殺に進んだ親日派を調査、処罰した反民族行為特別調査委員会本部があった所である」と書いてあり、反民特委の歴史的価値を物語っている。

現代/1948

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区乙支路2街

2005年10月、清渓川復元事業の竣工を控え、黄鶴橋と庇雨堂橋の間に黄鶴壁泉を設置した。壁泉とは、壁に付けた水口または彫刻の口などから水が出るようにした噴水をいう。黄鶴壁泉は黄鶴橋と庇雨堂橋の間の清渓川南側の擁壁の上段から水があふれて壁を乗って流れるようにした。壁面に沿って一日4,700トンの維持用水が流れるように設計された。この壁泉は黒い楕円形の石を壁面に打ち込んで魚が清渓川を遡る姿を躍動的に表現している。 夜間には4色のLED照明が88個ついて灯が水が流れるようにほのかなシルエットを発する。黄鶴壁泉はリズム壁泉とも呼ばれるが、リズムによって水が動くような姿に見えることからついたニックネームである。 高さ5m、長さ20mの大理石の壁と下部に設置された幅1m、長さ20mの水槽からなる黄鶴壁泉は比較的静寂な水景施設で、周辺の水辺デッキと調和して利用市民の快適な親水生態空間の役割をしている。  黄鶴壁泉一帯の庇雨堂橋と無学教の間の城北川合流地点の南側には庇雨堂トンネル噴水も設置されている。河川の底から空に水が噴きあがる一般的な高射噴水とは違い、トンネル型の景観を見せる。壁体についたノズル(Nozzle)から維持用水を噴射して散策路の上を越え、放物線を描いて清渓川に水が落ちるように設計した。高さ5m、幅50m区間の壁に42個のノズルがある。16m程度の距離で噴射する水流が作り出す水トンネルの間を歩く時、爽快さを感じることができる。また、夜間には多様な色のLED照明と清渓川内に残された昔の高架道路の橋脚照明、散策路照明などが調和して清渓川の新しい姿を見せている。 黄鶴壁泉と庇雨堂トンネル噴水の一帯は清渓川8景の中でもとりわけ水を利用したものが多く、空の水の場と呼ばれる。

現代/2005

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区黄鶴洞

リズム壁泉

清渓洗濯場は朝鮮時代に婦女子が利用した洗濯場を再現したもので、ソウル市中区黄鶴洞の茶山橋から永渡橋一帯に位置している。朝鮮時代、清渓川は近隣住民の生活の基盤だった。清渓川の上流と支流は住民の飲み水に使われ、今の城東区馬場洞東側の下流地域は野菜などを栽培する農業用水として使われた。清渓川の本流は汚染され、洗濯や使い水に使われるしかなかった。 しかし、北岳山、仁王山、南山、駱山渓谷の水はきれいだったので、明け方になると水売りが集まった。ここには綿布を漂白する人々と製紙業に従事する人々も住んでいた。東大門の野菜商人は五間水門付近で野菜を洗って売った。 清渓川の水流の両側には洗濯場があった。清渓川が覆蓋される前である1960年代まで大雨が降って清渓川周辺の汚いゴミが洗い流されてきれいな水が流れれば、近隣の女性たちは洗濯物を持って集まって洗濯をした。また、朝鮮時代に貧しくて主人の門屋に住みこみで働く「トゥナンサリ」女性洗濯屋も清渓川を作業場に使った。 日帝強占期の時は京城府内に20ヶ所余りの私設洗濯場があり、洗濯屋から一日使用料を10銭ずつ受け取った。1924年京城府は清渓川3ヶ所に公設洗濯場を設置する予算をたてた。京城府は公設洗濯場に200人余りが利用できるように水槽、沈澱池(水の中に混ざっている土・砂を沈めて水をきれいにするための池)、洗濯をゆでる大きな釜2つなどを備えることにした。利用料は私設洗濯場が10銭ずつ使用料を受け取るのに比べ、洗濯をゆでる燃料費だけ実費で受け取ると発表した。 2005年の清渓川復元事業竣工時、茶山橋と永渡橋の間に清渓川の昔の洗濯場を再現した。洗濯板の形をした板石をいくつかならべた似たような風景だが、清渓川は昔の女性の洗濯場であり、彼女たちの悩みを分かち合った話の場所であるため格別な意味を持つ。当時2列に立ち並んでいたヤナギの下に青い衣被を被って白い洗濯物を頭に載せて歩いていく女性の姿は一幅の絵であった。これを再現するために清渓川復元工事の時、忠清南道天安市から運んできたコウライシダレヤナギ16株を洗濯場の後ろに植えた。

現代/2005

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区黄鶴洞

2005年10月、清渓川復元事業の竣工を控えて清渓川復元区間の中間地点である東大門ファッションタウン周辺に、「未来へ行く道」という概念をテーマにして制作した「文化の壁」と韓国固有の色どりをテーマにした「セクドン壁」を設置した。 文化の壁は平和市場前の五間水橋上流の北側の擁壁に設置され、自然と環境をテーマにした現代美術家5人の作品である。作品当たり横10m、縦2.5mの大きさで設置された。この作品は石器組合土、白磁土および磁器質粘土などの材料で20㎝から40㎝の図版を制作し、これを壁画で構成して一つの作品で表現した。 まず、チョン・ガプペ(ソウル市立大教授)の<ソウルの歌>は清渓川の澄んだ水の中で魚、スッポン、カエルなど自然と共にするあどけない子供たちの姿をテーマにした。ペ・ジンファン(韓国芸術総合学校教授)の<視覚の迷路>は清渓川地域の過去と未来、周辺環境などを考慮して迷路を歩く好奇心と思考の楽しさを誘導した作品である。そして、チャン・スホン(ソウル大教授)の<星>は覆われていた清渓川が開かれ、その澄んだ水に星が映り、星を抱いて歌う都市になることを祈る作品である。ペク・ミョンジン(ソウル大教授)の<記憶の彼方>は清渓川の記憶の彼方で見ることができるイメージを想起させ、未来文明の彼方を想像してみることができる作品である。カン・ソクヨン(梨花女子大教授)の<生成-光>は生動と律動をテーマに、新しい未来への生成を表現した作品である。 セクドン壁は新平和ファッションタウン前の五間水橋下流の散策路に横18m、縦1.5mで、6㎝から40㎝の白磁図版を製作して壁画を造成した。色動作家であるイ・ギュハンの<色動愛>という作品で私たちの胸の中に受け継がれている伝統文化であり、韓国の色・息吹・魂を象徴する色どりを入れた作品である。 文化の壁はGS建設で去る2004年清渓川復元事業の文化空間造成の参加意思を明らかにして壁画を寄贈・設置することに決め、2005年1月から9ヶ月間作品と陶磁壁画を制作して設置・完了することになった。 文化の壁の下の方には10m沸き上がる河川噴水があり、向かい側には水辺舞台が位置していて公演を楽しむ場所として活用されている。

現代/2005

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区乙支路6街

清渓川8景のうち第5景である玉流川は高さ2.5m、幅1mの壁泉(壁に付けた水口または彫刻の口などから水が出るようにした一種の噴水)で、鍾路5街と乙支路の間にある馬廛橋上流の広蔵市場の前に位置している。2005年、清渓川復元事業竣工時に以前の清渓川に流入していた水路を忘れないために「玉のように澄んだ水が岩を回って滝のように落ちる」として付けられた昌徳宮後苑の「玉流川」を形象化した造形物である。 後苑は昌徳宮の後方に位置する宮廷庭園で、日帝によって秘苑と呼ばれるようになり、北側にあることから北苑とも呼んだ。「玉流川」は後苑の一番内側に位置する渓谷で、1636年(仁祖14)に大きな岩である逍遥岩を削って丸い溝を造って玉のように澄んだ水が岩の周りを回って滝のように落ちるようにした。王と臣下がここに囲んで座り、流れる水に杯を浮かして詩を作った。近くの逍遥亭、太極亭、清漪亭などとともに、後苑で最も美しい景色を収め、多くの王たちに愛されたところである。逍遥岩には仁祖(在位1623~1649)の玉流川という直筆の上に粛宗(在位1674~1720)の五言絶句詩が刻まれている。 玉流川の水流は北岳の東側の山の一つである鷹峰の麓から流れる水流である。仁祖の時、この水流に昌徳宮後苑の北側の奥に王が飲む水である御井を造った。ここの水は昌慶宮を経て宗廟の東に流れ、昌徳宮の西側から始まる北営川と合流して清渓川に合流する。

現代/2005

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区芳山洞

ベルリン広場は清渓川三一橋の南端にある長橋ビルの前に位置している。面積は100㎡で、地球上唯一の分断国家である韓国の統一を念願する意味でドイツのベルリン市が広場造成事業予算を負担した。 ここにはドイツのベルリンの壁の一部をそのまま移した幅1.2m、厚さ0.4m、長さ3m、高さ3.5mの壁が立っている。壁に描かれた落書きと絵まで原形のまま移転された造形芸術品である。壁は合計3つが連結されているが、3つすべてL字形で造られている。人の接近が可能だった西ドイツ側の壁面には家族を懐かしがったり統一を念願する市民の落書きがいっぱいで、統一に向けた彼らの切ない心を示している。反面、緩衝地帯が造成されて人々が接近できなかった東ドイツ側は壁面がきれいである。また、L字型に切られた壁の形態もまた車両による脱走を防ぐための段の役割をするように造られているのがわかる。ベルリンの壁は1961年東ドイツで設置したものだが、ドイツが統一されて1989年に撤去され、ベルリン市の東部地域にあるMarzahn休養公園の中に展示されていたものである。 ベルリンの壁を中心に100年余り前に造られたドイツ固有の街灯とベンチを設置し、そばにドイツ産のナラガシワを植えた。底はドイツの伝統庭園の底の様式である四塊石(花こう岩を四角形に整えた石)で舗装した。この四塊石舗装はドイツの最高技術者が作業したもので、透水性のある親自然工法を利用して施工した。この舗装工法は熟練した技術者一人が一日最大20㎡しか舗装できない精巧な工法である。 広場の前には「分断された国家の統一を念願する意味をこめてベルリンで造成することになったもの」であることを知らせる案内板を韓国語・ドイツ語・英語でそれぞれ設置した。同じようにドイツベルリン市のMarzahn休養公園にも3,000㎡規模のソウル庭園を造成して韓国とドイツの友好関係を示した。 ベルリン広場の壁の前には青い熊の彫刻像が置かれている。この熊の彫刻像はベルリン市の象徴物で、一方の面にはドイツ市民とブランデンブルク門が描かれている。統一されたドイツの象徴的な意味をこめているこの門の反対側には韓国の崇礼門が描かれている。

現代/2005

場所及び施設/公園/テーマ公園(Theme Park)

ソウル特別市中区長橋洞

巴里広場は1988年プランタン百貨店が開店し、ソウル特別市中区長橋洞ハンファグループビルの後面と長橋ビルの間に大きさ11,550㎡の小規模な公園として造成された。パリ広場の名称はプランタン(Printemps)があるフランスのパリから由来する。当時プランタン百貨店では巴里広場を野外結婚式場としても活用した。 プランタン百貨店は国内の大邱地域に基盤を置く東亜百貨店がフランスパリの有名百貨店であるプランタンとフランチャイズ契約を結んで長橋ビルに開店したが、2000年に営業不振で国内から撤収し、2006年に長橋ビルを売却した。 大型建物が屏風のように囲んでいる巴里広場の真ん中に彫刻家韓仁晟の作品である<錦繍江山>がそびえている。石材を主な材料として、高句麗壁画で見られる3~4重の等高線からなる山脈が空に向かって聳え立ち、屏風のように囲って大地とかみ合わさった姿である。環境造形物は建物に属していなければならないという固定観念から抜け出し、都心の公園活用の新しい概念を提示した事例でもある。直径10mの円形の芝を受け台として張り巡らした造形物は、民画や十長生図などで見られる身近な山勢を表現している。作品の題名のように索漠とした都市のビルの間で呼吸する自然を象徴し、憩いの場の役割もする。<錦繍江山〉を中心に巴里広場付近で見ることができるその他の造形物も当代の有名彫刻家の作品である。 巴里広場では2006年から昼休みを利用した無料公演が開催されている。ハンファと中区文化院が共同主催する「金曜正午音楽会」で、毎年4月から6月、9月から10月中に開催され、毎週金曜日午後12時20分から12時50分の間に多様なジャンルの音楽を鑑賞することができる。 一方、巴里広場の近くにはベルリン広場と乙支ハンビット通りがあって歴史的な造形物と照明芸術作品を一緒に見ることができる。

現代/1988

場所及び施設/公園/テーマ公園(Theme Park)

ソウル特別市中区長橋洞

正祖大王陵幸班次図壁画は朝鮮時代の王室記録画である正祖大王陵幸班次図を描いたもので、2005年長通橋の下の清渓川散策路に設置された世界最大の陶磁壁画である。 正祖大王陵幸班次図は朝鮮22代王正祖が1795年、恵慶宮洪氏の還暦を記念して父の思悼世子の墓がある華城顕隆園に行幸する姿を描いた記録画である。王の行幸が昌徳宮を出発し、清渓川広通橋を渡って華城へ行く姿を板刻画で描き、1,779人の人員と779頭の馬が行進する姿を描いた。朝鮮時代の山水画と風俗画で有名な檀園金弘道の指揮の下、金得臣、李寅文、張漢宗などそうそうたる画員が合作で描いた作品である。王朝の威厳と秩序を壮厳に表現しながらも、楽天的で自由奔放な人物描写が引き立っている。正祖大王陵幸班次図は王室記録画で、一幅の大きな風俗画を連想させる。当時の行幸の格式と服飾、衣装、楽隊の構成などを見ることができる貴重な歴史的価値を有しており、朝鮮時代の記録文化の宝庫といえる。 壁画は長通橋の下の左右の清渓川散策路の擁壁に横30㎝・縦30㎝のセラミック磁器タイル5,120枚を使って作った。高さ2.4m、長さ192mで制作された陶磁壁画で、世界で最も長い壁画である。 2005年の清渓川復元事業当時、新韓銀行(当時朝興銀行)が文化空間の造成意思を明らかにして色々な方案を検討した。その結果、班次図の陶磁壁画を寄贈・設置することに決め、2005年4月から作品の制作を始めて5ヶ月で壁画を完成した。正祖大王陵幸班次図壁画を設置することによって清渓川を訪れる国内外の観光客に王の行幸時に行われる雄壮な儀式を示すと同時に、韓国の優れた記録文化を世界中に知らせる効果があると見ている。

現代/2005

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区三角洞

清渓川復原事業はソウルの歴史と文化・環境を復元し、江南と江北の均衡発展のためにソウル市で推進した清渓川一帯の復元事業である。清渓川の本来の名前は開川で、ソウルの北西側の仁王山と北岳の南側の麓、南山の北側の麓などが水源地で、都城内の中央で合流して西から東に流れる全長10.92kmの都市河川である。清渓川流域は総面積50.96㎢でソウルの中心に位置している。清渓川は1394年ソウルが朝鮮王朝の首都に決まった後、都城内を地理的に区分すると同時に、政治・社会・文化的にも区分する象徴的な境界線だった。清渓川は継続的な氾濫と土砂埋没などで問題が多かった。ついに覆蓋問題が議論され、1958年5月本格的な清渓川覆蓋工事が始まって1961年12月に完工した。 清渓川覆蓋工事が完了した後、覆蓋道路を中心に左右に商店街が密集し、交通量が急増して都心から郊外に出て行く新しい道路が必要になった。ソウル市では1968年に竣工した阿峴高架道路の建設の経験を活かして清渓高架道路工事を同時に推進した。清渓高架道路は1967年8月に着工して1971年8月に完成し、延長5,650m、道路幅が16mに達する。 清渓川復元事業は2003年7月に着工して2005年10月に竣工した。事業区間の全長は5.84kmで、総工事費は3,867億3,900万ウォンかかった。「自然がある都市河川」をモットーに始まった清渓川復元事業は、歴史(伝統)・文化(現代)・自然(未来)という3つの大きな時間軸で構想した。開始点から2kmまでは歴史と伝統、2km地点から4km地点までは文化と現代を中心テーマに設定した。4km地点からは自然と未来の概念を導入し、3区間は8つの重点景観を含むように構成した。 清渓川のあちこちには植生群落・小規模な憩いの場・飛び石・早瀬・自然学習場などを造成し、水景施設と清渓広場、文化の壁など多様な文化空間を設置した。 また、清渓川を覆っていた高架道路と覆蓋道路を撤去したおかげで周辺の交通量が著しく減り、大気環境が改善されて周辺の騒音が減った。水が流れて復元された緑地と河川に沿って風の道が作られて夏の気温を下げ、ヒートアイランド現象も減少するようになった。 ソウル市は清渓川復元事業を通じて、2004年第9回ヴェネツィア国際建築ビエンナーレ変形特別賞「水の都市賞」、2006年日本土木学会環境賞を受賞するなど国際的にも良い評価を得た。

現代/2005

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

大然閣ホテル火災事故は1971年12月25日午前10時頃、ソウル市中区忠武路1街に所在する大然閣ホテルで起きた火災事故である。大然閣ホテルは1970年に完工した22階規模の当時最新式のホテル建物だった。大然閣ホテル火災事故は1971年12月25日午前10時17分に発生し、死亡163人、負傷63人の人命被害と71年当時の貨幣価値で8億3,820万ウォンの財産被害が発生した事故である。 火災は午前9時50分頃1階のコーヒーショップの台所の中にたててあったプロパンガスボンベが爆発して2m程度離れていたガスレンジに引火して発生した。燃焼機と容器のPVC連結配管からガスが漏れて点火し、容器の破裂とともに急速に広がった。火は床のナイロンカーペットと建物内部の木造施設などホテルロビーの可燃性内装材に燃え移り、階段を通じて3階と4階に広まってあっという間に上の階に火が回った。火災が発生して1時間30分が過ぎた11時20分頃、冷暖房ダクト(Duct、空気やその他流体が流れる通路および構造物)を通じて建物最上層であるスカイラウンジに拡大して建物全体が炎に包まれた。 ソウル市内のすべての消防車が出動したが、強風で火をよく消せないうえに、あまりにも高層なので消防車だけでは人命を救助するのが困難だった。これに伴い、当局は大統領専用ヘリコプターをはじめとして陸軍航空隊と空軍、そして米8軍からヘリコプターが支援されて火災現場に投入したが、あまりにも火が強くてヘリコプターも建物の近くに接近するのが難しかった。結局、火災発生から10時間が過ぎてやっと消火した。 最上層と低層部から火炎が広がる状態で中間層にいた人々の被害が多く、屋上の出入口がロックされていて待避できない23人が屋上の出入口付近で犠牲になった。当時国内最高の32mのはしご車を利用して鎮火作業に出たが、7階までしか及ばず、人命救助の役割をするのに終わった。 火災発生当時、警報設備もまともに作動せず、スプリンクラー(sprinkler)のような自動式消化設備が設置されておらず、被害が増加した。この事件を契機にすべての大型建物にスプリンクラー火災鎮圧システム設置、高層建築物屋上ヘリコプター離陸・着陸場の確保が法律で義務化されて施行された。 大然閣ホテル火災事故が発生する頃、ソウルは人口500万を超え、急速な都市の膨張に合わせて高層ビルが90余りに達するほど増えたが、それに合う安全対策と安全意識は不十分な状況だった。大然閣ホテルも完工して1年6ヶ月しか経っていない新築建物だったが、火災発生時の安全を保障する施設と対策はきわめて不備な状況だった。 大然閣ホテル火災事故はいまだに世界最大のホテル火災事故として記録されている。

現代/1971

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区忠武路1街

崇礼門の火災と復旧   崇礼門の火災事件は2008年 2月10日から2月11日、社会に不満を抱いた放火犯によって崇礼門が焼け落ちた事件だ。その後、崇礼門は各界の専門家が参与して約5年2か月にわたり復旧工事を行いついに2013年 5月4日に竣工し、一般に公開されている。 崇礼門の火災事件は2008年 2月10日から2月11日、社会に不満を抱いた放火犯によって崇礼門が焼け落ちた事件だ。2008年 2月10日午後8時40分前後に発生したこの火災で、2月11日午前0時40分頃、崇礼門の楼閣2階の屋根が崩壊した。続いて1階にも火が移り、火災発生から5時間経った午前1時55分頃、燃えない積み石を除く1、2階の木造楼閣がほぼ全焼した。 崇礼門火災の初期鎮圧が難しかった理由は、「積心」という木の部材に火が燃え移ったからである。積心は垂木の上部、瓦の下部に位置する木の部材で、外部から見える部材ではないので、消防ホースで火種を消すのが困難だった。 2008年6月から崇礼門の復旧工事が始まった。単に建物の外形だけを復旧するのではなく、建物を建てた方式あるいは既存の伝統的な建築技法を導入して推進された。「復元」ではなく「復旧」と規定する理由は、崇礼門全体が焼失したのではなく、一定の部分だけ消失したためである。復旧は復元とは異なり、「毀損した部分をきちんとする」という意味が込められている。 復旧作業には重要無形文化財技能保有者が参与した。復旧に参与する職人は、木工事を担当する大木匠、城郭などの石工事を担当する石匠、丹青作業を担当する丹青匠、瓦製作を担当する 製瓦匠、屋根瓦葺きを担当する翻瓦匠であった。 崇礼門の1階の門楼は約10%だけ毀損したので、焼失しなかった木材は再利用して復旧作業に使われた。瓦は工場で大量に作るのではなく、朝鮮時代の伝統窯を再現して手作業で合計2万3000枚を完成させた。丹青にに合成顔料ではなく、伝統的な材料である天然顔料が使われたが、残念ながら国産顔料ではなく、日本産の顔料を使用せざるを得なかった。国産の天然顔料は近代化の過程で生産が中断され、生産技法も具体的に伝承されていないからである。 火災によって崇礼門が毀損した経験を振り返って復旧された崇礼門を、より安全な方法で維持するために文化財安全管理システムが作られた。最先端の監視装置と防災装置を管理する管理棟が崇礼門の隣にできた。また、火災発生時に直ちに警報を鳴らす光センサー型熱感知器をはじめ、赤外線火気センサーも上層と下層にそれぞれ8か所ずつ計16か所に設置された。 崇礼門は火災の後、計5年2か月にわたる復旧工事の末に、2013年5月4日に竣工して一般に公開されている。 2008.02.10 放火犯によって崇礼門火災発生 2008.06 復旧工事開始 2013 5年 2か月ぶりに竣工し一般に公開されている。

現代/2008

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区南大門路4街

崇礼門は、朝鮮時代の漢陽を取り囲んでいた城郭の正門で、本来の名前は崇礼門だが、南にあることから南大門と呼んだ。韓国の国宝第1号であり、ソウルに残っている木造の建物の中で最も古いもので1396(太祖5)年に作り始めて1398(太祖7)年に完成した。崇礼門は1448(世宗30)年に改修されたもので、1961~1963年の解体・修理の際に1479(成宗10)年にも大きな工事があったという事実が明らかになった。 崇礼門の扁額は、火の気運を防ぐために制作された。崇礼門は四大門の中の南の門で、向こうに冠岳山を見る位置にある。ところで、冠岳山は風水地理から見ると火気が非常に強い山である。また、陰陽五行説(木 - 東、金 - 西、火 - 南、水 - 北)によると、南は火の気運があり、礼もまた火気が非常に強い文字に当たる。これに対して火の気運が都城の中にそのまま入ってくるのを防ぐために、崇という字を頭に使用したが、崇もまた火を象徴する文字であるため、火の気運を防ぐことができるとして鄭道伝(1342〜 1398年)が付けたという説がある。 『芝峰類說(1614年にイ・スグァンが編纂した韓国初の百科事典的な著述)』や『五洲衍文長箋散稿(朝鮮後期の学者イ・ギュギョンが書いた百科事典形式の本)』などに鄭道伝が扁額を縦に書くようにして、字は讓寧大君(世宗の長兄)が書いたと記録されている。ある記録には、後に火災で扁額が焼失して工曹判書柳辰仝が再び書いたという説もある。扁額を縦に書く理由もまた、冠岳山の火の気運が都城の中に入らないようにするためだったという。縦の形は、火が下から上へ燃え上がる形であると同時に、水が上から下に落ちる形でもあるので、こうすれば火の気運を防ぐことができると考えたというわけだ。 崇礼門扁額は、2008年の崇礼門火災事件で落ちて損傷し、古宮博物館に移送された。復元のための崇礼門扁額の調査は、国立文化財研究所で行われた。扁額の文字と丹青模様に関する文献調査を経て保存処理し、ソウル銅雀区至徳祠の所蔵拓本資料を発見し、復元を行った。復元材料としては、崇礼門の火災被害の際に収拾された資材と回復のための寄贈された松が使用され、作業には重要無形文化財第106号刻字匠(木版に字を刻む技能を持つ職人)の吳玉鎭と、第48号丹青匠(丹青の仕事を専門とする者)の洪昌源が参与した。 崇礼門扁額は、1年あまりの復元過程を経て、2009年7月、一般に公開された。

朝鮮/1398

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/扁額

ソウル特別市中区南大門路4街

茶洞•武橋洞伝統飲食観光特区文化通りは、2000年に新設された明洞観光特区を拡張して2012年に指定した食文化の街をいう。茶洞と武橋洞を含めて観光特区として指定された所は、 明洞の世宗ホテル世子の道路(三一大路)から始まり退渓路沿いに新世界百貨店を通り過ぎて南大門市場、プラザホテル、市庁前、清渓川広場、広通橋、長橋ビルから再び世宗ホテルまでの道路に囲まれた87万2,809.2㎡(26万 4,025坪)の地域だ。ここはソウル市の中心地として知名度がとても高く、交通も便利で国内の人はもちろんん、外国人が多く訪れる地域で、観光特区としての基盤条件が満たされている観光ショッピングの名所だ。 過去、1950年から1960年代、武橋洞一帯には居酒屋があった。武橋洞は近郊の庶民や周辺の業務施設に従事する人々の休息の空間だった。その後1965年、武橋洞でパク・ムスンというおばあさんがナクチ(テナガダコ)炒めという肴を出し始めたのをきっかけに酒の愛好家に大人気となり、食べ物の観光名所として知られるようになった。自然とテナガダコ料理を求める人々が増え、清渓川を渡った鍾路区瑞麟洞一帯の住宅街の道にテナガダコ料理の店ができたが、当時、隣接する武橋洞があまりにも有名だったので、武橋洞ナクチ通りと呼ばれるようになった。 茶洞•武橋洞一帯はソウル市庁を中心に、乙支路、太平路、南大門路の大通りにビルがあり、路地には伝統的なグルメの店が多く、ビルに勤めるサラリーマンが訪れる名所だ。最も有名な武橋洞のテナガダコの他、ビールとサザエ、伝統の冷麺屋など、1960年から1970年代のサラリーマンが飲み会のために訪れた多くの店が小さな路地に並んでいる。 ホワイトカラーのサラリーマンが勤める代表的な地域という名声は衰えたが、清渓川が復元され、多くの市民が訪れるグルメ街へと変貌しつつある地域ということができる。 1996年から毎年、「茶洞・武橋洞食文化秋まつり」を開催している。 2014年、第18回を迎えたこの祭りで生きたテナガダコ獲り体験、辛いタコを食べる大会、模範青少年奨学金授与、のど自慢など多彩な行事が催される。

現代/2012

場所及び施設/観光及び休養、修練地域/文化の通り

ソウル特別市中区茶洞·武橋洞

「チェミ路」は、明洞駅3番出口からソウルアニメーションセンターに至る長さ450m漫画ストリートだ。 2013年12月、南山一帯を創意と観光のメッカであるアニメーションタウンとして造成するための第1段階事業として推進し、ソウル産業振興院(SBA)ソウルアニメーションセンターが運営している。 チェミ路がスタートする明洞駅3番出口前の「想像公園」は、漫画ストリートのスタート始点で、参加とコミュニケーション活性化のための漫画のターミナルのスペースである。オープン構造の大型シェルター(Shelter、休憩所)を設置して、休息と連携した展示施設を造成した。ここには代表的な韓流コンテンツの原作漫画「宮」の漫画とテレビドラマ(MBC)の画像を活用している。 続く漫画三叉路は、明洞駅近辺のパシフィックホテルの周辺にある。漫画ストリート入り口の大型の壁面に漫画家、ジャンル、素材、プラットフォームなどを考慮して「漫画対漫画」というテーマで、大規模な壁画を掲示している。 韓国パワーウェブトゥーンウォール(Webtoon Wall)は退渓路20ギルで 放置された空き地(地上に建築物や構築物がない敷地)のフェンスを活用して、漫画の壁を設置することにより、良くない景観を改善した。こちらはポータルサイトの代表推薦作12編のイメージで構成されている。 「道路道路路地」は、裏通りを対象に漫画家の才能の参加と公共・私有空間共有の結合を目標として造成した。路地および路地連結階段、壁面などに漫画による楽しい要素を付与した。 チェミ路の最後は、巨大な南山擁壁が塞いでいるが、この擁壁の上に韓国漫画100選の中から40の有名キャラクターを活用して漫画の丘を造成した。ここは夜間ライトアップして象徴的なランドマークとしてのスペースを造成した。 チェミ路を行くと、黄色い建物の「チェミラン」漫画博物館がある。ここは地下1階、地上4階の規模で、漫画に関連する各種の展示およびイベントが開催される漫画カルチャースペースだ。火曜日から日曜日、午前9時から午後6時まで無料で観覧することができる。 また、チェミ路では、2013年から毎年、ソウル漫画ストリート祭り「チェミロノルジャ」を開催している。祭り期間中、地域の店や漫画家が企画した漫画異色ショップ、漫画同好会のコスプレフォトツアー、ストリート漫画部屋、漫画家を含む若いクリエーターたちが直接デザインした小物を販売するストリートマーケットなどが開かれる。これにより、漫画家をはじめ創作者と市民が共にに参加する開かれた共有マーケットの概念を強化し、地域住民と共生するストリートフェスティバルを目指している。

現代/2013

場所及び施設/観光及び休養、修練地域/テーマ道(パルチザンルート、キム・サッカッ道など)

ソウル特別市中区南山洞2街

孫基禎(ソン・キジョン, 1912~2002年)は平安道新義州生まれで、幼い頃からマラソンランナーとして頭角を現していた。1936年 8月9日、日本代表のマラソン選手として参加した第11回 ベルリンオリンピックのマラソン競技で2時間29分19秒という公認された世界最高記録で優勝した。その当時、孫基禎は自ら国籍を「韓国(Korea)」と書き、名前もハングルで書くなど、自分が日本人ではなく韓国人であることを世界に知らしめた。オリンピックが終わり、当時の東亜日報は月桂冠を被って表彰台に上った孫基禎の左胸にある日の丸を消し、その写真を1936年8月25日付けの夕刊に載せて配布した。これにより関係者は拷問を受け、東亜日報は無期停刊の処分を受けたが、これが有名な日章旗抹消事件である。 孫基禎は統治からの解放後の1948年、大韓体育会副会長、1963年には陸上競技連盟会長などを歴任した。 1966年からは大韓オリンピック委員会常任委員、第5回アジア大会韓国代表選手団団長として活躍した。その後、ソウルオリンピック競技大会組織委員会の委員として、韓国のスポーツ発展のために尽力した。これらの功績が認められ、1970年に国民勲章牡丹章を授与され、 死後は国立大田顕忠院(第2国立墓地)に安置された。 孫基禎トゥルレキルは孫基禎の業績を称えるために中林洞と孫基禎体育公園一帯に造成された散策路である。中林洞では複数回にわたる住民討論、現場踏査、住民説明会などを通じて孫基禎記念館、薬峴聖堂、西小門歴史公園や観光スポットを連携して長さ1,200m、徒歩30分程度の孫基禎トゥルレキルを造成した。 トゥルレキルのスタート点には孫基禎のゴールシーンの壁画があり、歩道には孫基禎のフットプリントを配置するなど、孫基禎をブランド化した村特化事業として推進した。特に孫基禎トゥルレキル事業は、中林洞住民が自ら事業計画から推進、完成まで参与して造成したことに意味がある。壁画を描くことに反対する建物の所有者を何度も訪問して説得し、大規模な壁画作業には、大学生のボランティアやプロボノ・企業のボランティア・赤十字奉仕会のほか、マンションの婦人会が協力した。 孫基禎トゥルレキルの周辺には、1892年竣工された韓国初の近代式建物である史跡252号の 薬峴聖堂や孫基禎記念館が位置している。孫基禎記念館は、孫基禎がマラソン金メダルの贈り物として受け取った古代ギリシャ青銅兜と優勝の金メダル、月桂冠など各種の遺品を観覧することができる。ここでは、2014年から毎年「孫基禎トゥルレキル歩く祭り」を開催して孫基禎選手の成果と孫基禎トゥルレキルを知らせるために努めている。

現代/2014

自然及び生態環境/自然景観/一本道、登山、散策路

ソウル特別市中区万里洞2街

孫基禎(ソン・キジョン, 1912~2002年)は平安道新義州生まれで、幼い頃からマラソンランナーとして頭角を現していた。1936年 8月9日、日本代表のマラソン選手として参加した第11回 ベルリンオリンピックのマラソン競技で2時間29分19秒という公認の世界最高記録で優勝した。その当時、孫基禎は自ら国籍を「韓国(Korea)」と書き、名前もハングルで書くなど、自分が日本人ではなく韓国人であることを世界に知らしめた。 孫基禎は、1948年に大韓体育会副会長、1963年には陸上競技連盟会長などを歴任した。 1966年からは大韓オリンピック委員会常任委員、第5回アジア大会韓国代表選手団団長として活躍した。その後、ソウルオリンピック競技大会組織委員会の委員として、韓国のスポーツ発展のために尽力した。これらの功績が認められ、1970年に国民勲章牡丹章を授与された。 これらの孫基禎業績を称え、中林洞(中林洞)と孫基禎体育公園一帯に2014年孫基禎トゥルレキルが造成された。孫基禎トゥルレキルは孫基禎記念館、ヤクヒョン大聖堂、西小門歴史公園や観光スポットを連携した長さ1,200m、徒歩30分程度の散策路である。 2014年10月25日に孫基禎体育公園で第1回孫基禎トゥルレキルウォーキングまつりが開催された。祭りのテーマは「太極旗と共に孫基禎トゥルレキルを歩く」で、ベルリンオリンピックの表彰式当時、月桂冠樹で日の丸を隠してた孫基禎の痛みと不屈の意志を称えた中林洞住民300人余りが参加して孫基禎トゥルレキルを歩きながら、様々なイベントを開催した。 2015年10月24日には第2回孫基禎トゥルレキルウォーキングまつりが開催された。 「家族と共に孫基禎トゥルレキル歩く」というテーマで中林洞住民など1000人が参加し、孫基禎体育公園サッカー場を出発して中林派出所を経てレミアンアパート横の道と忠貞緑地帯の道を通って再び孫基禎体育公園に戻ってくるという行事を行った。開催前のイベントとして近隣の学校の中学生が準備したプンムルノリ公演とダンス公演が繰り広げられ、行事が行われている間、孫基禎体育公園では家訓清書、月桂冠を被っての写真撮影、フェイスペイント、食べ物市場など、多彩な付帯行事も行われた。歩いた後は、孫基禎・中林洞に関するクイズ、歌、景品抽選など、住民の和合の場となった。

現代/2014

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区万里洞2街

5タイムカプセル(85 Time Capsule)は、中央日報社が創刊20周年記念事業として5百年後の2485年の子孫に1985年の韓国人のリアルな姿を伝えるために南山八角亭付近に埋設したタイムカプセルだ。 タイムカプセルとは、人類の文化遺産を保存する方法の一つで、人がこの世に存在したという証拠を残すために特殊金属で作られた容器の中に、その時代を代表するものや、記念するものを入れて土の中に保管し、子孫が発掘するようにしたものである。 85タイムカプセルは、各界の専門家20人から構成された委員が、中央日報の読者のアイデアなどにより準備された収蔵予想品目リストを事前に検討して物品の選定基準を定めた。それを受けてタイムカプセル収蔵品の選定基準は、「人」と定め、人をさらに個人・家族・集団・国に分類した。そしてまたこの4種類の人の形態が時間(日・月・年・それ以上)の中で生活することにより派生した記録・物質・事件などを収蔵品の対象とすることにして小委員会を構成した。 その後、小委員会が、文化・生活・社会・経済・国など5つのテーマに分類した451点の収蔵予想リストを要約した。そして先に定めた基準に基づいて項目別に検討して約40点を追加、あるいは削除した。最終的に実物199点、マイクロフィルム169種類、ミニチュア14点、ビデオテープ56種類、録音テープ28種類など466点を確定した。また、保存性・サイズ・重要度に応じて、魚雷型の鋼容器の収容能力を超える場合に派一部を調整した。タイムカプセルに入れられた主な物品は、太極旗、住民登録証、貨幣、クレジットカード、衣類、種子、食品、キッチン用品、教科書などである。 埋設地は、読者公募1位の独立記念館前、2位南山八角亭前、3位国立中央博物館などの候補地が提起されたが、最終的に一般人がアクセスしやすく、500年間の地形変化が少ないことが予想される南山八角亭付近に決定された。 その後、1985年10月17日、長さ240cm、直径36cm、重さ348kgのタイムカプセルを深さ15mの地中に埋め、その上に埋設したことを示す石碑を立てた。 中区は85タイムカプセル以外にも、1994年南山ゴルの韓屋村に埋設されたソウル千年のタイムカプセルがある。ソウル定都600年記念事業の一環として、600点の内容が入っており、定都1,000年となる2394年11月29日に開けられる予定だ。

現代/1985

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区芸場洞

ソウル市庁西小門庁舎は、大韓帝国の度支部(国家の財政を担当していた部署)の庁舎と日本統治時代の中樞院(朝鮮総督府の諮問機関)の建物があった場所で、1975年に最高検察庁の庁舎として竣工した。最高検察庁が瑞草区瑞草洞の法曹タウンに1989年に庁舎を新築し移転することになり、ソウル特別市庁が別館として使用している。 ソウル市庁西小門庁舎は5つの建物から構成されている。15階建ての1棟はソウル特別市の各部署の業務スペースとして活用されている。10階建ての2棟には一部の部署と銀行・医務室・歯科があり、3棟には情報通信関連部署が入居している。 5棟は監査・監察関連部署がある。そして別館の厚生棟には、レストランおよび売店と講堂がある。 1棟の13階には、貞洞一帯が一望できる「貞洞展望台」がある。貞洞展望台は、2012年9月20日、ソウル市の「共有都市(Sharing City)ソウル宣言」によるソウル市・自治区の講堂、会議室などの空間の開放と脈絡を同じくして開かれた。 2013年4月13日から開放された貞洞展望台の面積は94.88㎡(約28.7坪)で、備品倉庫として使用されたスペースと大会議室の一部を改造するなど、既存の施設を積極的に活用して作られた。 貞洞展望台からは、展望台を基準として北東方向のソウル広場とソウル特別市庁新庁舎をはじめ、徳寿宮から北西側は貞洞教会一帯まで一望することができ、天気が良い日には遠く仁王山(高さ338m)まではっきり見えるほど見晴らしの良い景色を鑑賞することができる。展望台の中にはカフェがあり、飲み物を飲みながら観覧することもできる。カフェの横には、ソウル市新庁舎をはじめとする貞洞一帯の主要な観光スポットに関する説明の添えられたパノラマ写真と共に、過去の外交および国際交流や新文物発祥の地であった貞洞一帯の1900年代の写真資料も見ることができる。写真には西洋の建築様式の外国公使館、貞洞教会、梨花学堂、慶運宮I(徳寿宮の昔の名称)などの昔の姿が写されている。展望台は年中無休で、午前9時から午後6時まで無料で観覧可能となっている。

現代/1975

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区西小門洞

永楽教会は、1945年 12月、共産主義の迫害を避けて越南した27人の北朝鮮避難民と韓景職(ハン・ギョンジク, 1902~2000年)牧師が共に設立した。その投じの教会名は「ベタニア伝道教会」だった。1954年に現在の本堂で献堂礼拝を捧げた。その後、教会は成長を続け、永楽教会は18教区、1290区域に組織されており、信者数は約5万人にのぼる。 永楽教会50周年記念館は、永楽教会の創立50周年を記念して建立された建物で、キリスト教の教育と文化活動のための教会の付属建物だ。建築当時、地下空間を活用して地上の余裕スペースを確保し、巨大なピロティ(Pilotis, 近代建築で建物の上層を支える独立柱)を置いて開放性を確保することに重点を置いた。ここは特にアクセスが可能なすべての方向から進入が可能となっている。したがって建築物自体が「開かれた教会」の性格を表わしている。この記念館は、既存の本堂と周辺の環境が持つイメージと歴史性、そして象徴性を保ちながら調和して建てたと評価されている建物である。第16回「ソウル市建築賞銀賞」を受賞し、1998年の「韓国建築文化大賞入選作」である。 永楽教会50周年記念館は、着工から4年後の1997年11月2日に開館した。地下5階、地上8階の規模で、敷地7,717㎡、延面積は3万3,881㎡で(宣教館、牧羊館をを含む)、活用スペースは1万人収容可能である。特に地下1階から3階にかけてのベタニアホールは1500席規模で、最新の音響設備と照明を備え、様々な公演およびコンサート、若者の礼拝、日曜礼拝付属室などとして使用されている。 地下2階に位置するドリームホールは700席規模で、高等部、大学部の礼拝スペースおよび各種行事の進行が可能な複合領域として使用される。2階は幼稚部、3階は幼年部、4階は中等部の教育空間として使用される。 5階から8階には堂会室、教育部傘下の各級の教会学校、事務所、北朝鮮宣教センターなどがある。

現代/1997

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区苧洞2街

韓国漢城華僑小学校は明洞に位置する台湾系の外国人学校で、1909年 9月に韓国で初めて正式な認可を得て設立された。1902年に開校した最初の華僑学校である仁川華僑小学校に続き韓国で2番目に開校した華僑学校である。台湾式(繁体字)の教育方式を採用し、台湾政府から教科書が無償で支援されている。中国人としてのアイデンティティを保つために、正規の体育の授業に加えて、一週間に1時間、武術の授業を別途行っている。 中国大使館の隣に位置する漢城華僑小学校は、全国各地にある14校の華僑学校の中で最も大きな規模を誇る。学校が盛んだった1960年から1970年代、学生数が全校生徒2,300人と最も多かった頃は、世界第3位の規模であった。歳月が経つにつれ、学生の数は徐々に減ったが、漢城華僑小学校は今でも韓国で最も有名な華僑学校の一つだ。 明洞に漢城華僑牛学校と中国大使館がある理由は、1882年に発生した壬午軍乱と関連がある。旧式軍隊と西洋式教育を受けた新式軍隊が衝突して 壬午軍乱が起こり、清はこれを鎮圧するという名分のもと3,500人の兵士を派遣し、その一部が現在の中国大使館のある所に駐留した。当時、兵士と共に朝鮮にやってきた清の調達商人(軍属)がいたが、彼らは明洞を中心に呉服店や料理店など、様々な店を開いて大金を稼いだ。 1885年には、清の実権者であった袁世凱(1859〜1916年)が、兵士たちの駐留していた場所に公館を建て、10年近く滞在した。袁世凱の庇護の下、明洞に定着した清商の影響力はさらに大きくなり、彼らを通じて様々な中国文化が流入し始めた。 ハンソン華僑小学校と駐韓中国大使館の入り口周辺では、中国に関連する商品を売る店や華僑が運営する伝統中華料理店を簡単に見つけることができる。この通りを[官前街]と呼ぶが、文字通り大使館前の通りを意味する。中国では、「繁華街」の意味で使われることもある。ここの中華料理店は、ほとんど華僑たちが直接運営する。これら代を継いで明洞を訪れる人々に中国本土の味を伝えている。

大韓帝国/1909

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区明洞2街

1973年2月16日、政府は、小規模映画業者の乱立および底質な映画の制作防止、不合理な映画界の制度改善などを目的に、第4次改正映画法の施行を発表した。これにより、1973年4月3日に映画振興公社が発足した。 映画振興公社は、1977年から南山洞3街の旧KBS社屋の南山ビル(現リビングTV社屋)を引き受けて業務を開始した。ここは、地上3階、地下1階の規模の建物で、国立映画製作所と映画振興公社が同居していた。その後、1990年に南山洞社屋を売却し、1995年7月24日、東大門区洪陵の社屋に移転、映画振興委員会と名称を変更し、2013年に釜山広域市海雲台区祐洞に移転した。 1984年映画専門教育機関である韓国映画アカデミーを設立した。ここは少数精鋭で学生を選抜するが、教育課程として映画の演出・撮影・アニメーション演出の専攻がある。ここで作られた映画のほとんどが国際映画祭に進出するなど、多くの注目を集めている。 また、同年、映画芸術との間の相互協力および親睦を図って映画界従事者の福祉向上および後進の養成のための奨学事業などを目的とする韓国映画福祉財団を設立した。 1997年には、京畿道南楊州市に最先端の機材を備えた総合映像支援センターとしてのソウル総合撮影所(現南楊州総合撮影所)を竣工した。 1991年から造成を始めて7年ぶりに133万6,409㎡(約40万坪)の敷地に映画撮影用の屋外セット、規模別に様々な6つの屋内撮影スタジオと録音スタジオ、各種制作機器などを備えたアジア最大規模の映画制作施設を建設した。 続いて1998年には、南楊州総合撮影所に映画文化館を開館した。映画文化館では、100年の映画の歴史について知ることができるが、日本統治時代の映画人、春史・羅雲奎(ナ・ウンギュ, 1902~1937年)の直筆シナリオ原本など、草創期の韓国映画史料が展示されている。また、映画の制作過程や特殊効果映像など、映画の誕生から技術の発展までを知ることができる。 その後、1999年、映画振興委員会に名称が変更となり、現在も韓国映画発展のための様々な活動をしている。

現代/1973

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区南山洞3街

扈衛庁址は南山洞2街2番地の現南山初等学校付近にあり、過去、ここには朝鮮時代の宮中を警護していた軍営である扈衛庁があった。それで南山洞2街は扈衛庁洞、扈洞または扈衛庁ゴルとも呼ばれた。 扈衛庁は1623(仁祖1)年、宮廷の守護のために設置された。扈衛庁は本来、仁祖反正に加担した功臣が個人的に抱えていた反正の軍事力を正規の兵力として公認する過程で設立されたものである。 扈衛庁は4人の勳臣(著しい功を挙げた臣下)または戚臣(王と姓は異なるが親戚の臣下)が護衛隊長となり、各隊長が100人の軍官を率いて宮中の中で国王を護衛する任務を引き受けるようし、各隊長が1庁ずつ引き受けすべて4庁から構成された。しかし、後に御営庁・総戎庁などの新たな軍営が設置される過程で、扈衛庁所属の軍官新軍営の基幹要員となり、その位置は弱体化した。 これにより、顕宗の時代には3庁に減り、粛宗の時代に4庁に回復したが、再び3庁にもどった。この時、扈衛庁の官員として、各庁ごとに大将(正1品)3人、別将(正3品)3人、軍官350人、所任軍官3人、堂上別付料軍官1人がいた。扈衛庁の大将の中の1人は、国舅(国王の妃の父親)が、2人は勳臣・戚臣である大臣が兼職するのが常であった。 ところが、1777(正祖1)年、扈衛庁の軍官がが寢殿に侵入するという事件が発生した。正祖は、3庁だった扈衛庁を1庁350人に大幅に縮小し、扈衛庁の代わりに宿衛所を新設して、護衛させた。当時扈衛庁は、事実上、正祖の王位継承に反対していた戚族勢力が掌握していたので、正祖が扈衛庁を縮小したのは、親衛体制を強化するためであった。 その後、降扈衛庁は、廃止と復設が繰り返されたが、1894(高宗31)年の甲午改革の軍制改編の過程で完全に廃止された。

朝鮮/1623

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区南山洞2街

西大門停車場は京仁線開通当時の始終着駅だった。大韓帝国末期、近代文物の輸入と合わせて都城内外を結ぶために新しい道路と鉄路が建設され始めた。1899(光武3)年9月18日、韓国初の鉄道である京仁線の鷺梁津から済物浦までの区間が開通した。京仁線は日本の京仁鉄道合資会社が仁川と鷺梁津の間に敷設した延長 33.2㎞の鉄道だ。 京仁線が開通したが、漢江直前の鷺梁津で途切れ、漢城まで連結できなかった。1900年7月、漢江鉄橋が完成し、鉄道が西大門まで延長され、ソウル初の鉄道駅である西大門停車場ができた。京仁線の開通式は11月12日に「京城停車場」とも呼ばれ呼ばれた西大門停車場で行われた。当時、西大門付近と貞洞に住む外国人のために設置された駅だった。 しかし、京釜線鉄道が開通し、その位置が適切でないと判断されたことにより南大門の外に新たな駅舍を建てた。駅舎は33㎡の平屋の木造建物で、これを鹽川橋の下の水田の中に建て、南大門駅とした。南大門停車場の構内には、京釜鉄道会社事務所と機関車のガレージができた。 京仁線の開通式に続いて、京義線の起工式(1902)および竣工式(1906)、京釜線の竣工式(1905)のどちらも南大門駅で行われた。朝鮮総督府の鉄道局は、1910年代初めに南大門駅を2階建ての洋風レンガ造りに改築し、10月1日から京城駅と名前を変えた。この京城駅前広場は、1919年、三一運動の歴史的な場所となった。 西大門停車場址は、現在、中区義州路1街44-義州路公園内の小さな石碑となっている。2002年に建てられた石碑には「西大門停車場は京仁線開通当時の始発駅だった。京仁線は韓国初の鉄道で、1899年9月、仁川~鷺梁津区間が開通し、1900年7月、漢江鉄橋の竣工に伴い、ソウル~仁川全区間が開通した」と書かれており、西大門停車場の歴史的価値を物語っている。

大韓帝国/1900

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区義州路1街

中区明洞に建てられた旧証券取引所は1922年に「京城株式現物取引所」という名で開設され、 1956年大韓証券取引所が出帆し、韓国の証券市場の歴史が始まった場所だ。 大韓証券取引所は、1956年2月11日に設立された韓国初の証券取引所だ。同年3月に初めて株式市場が開場し、大韓証券取引所には12社の株式が上場された。しかし、国民所得が低かったために投資余力がなく、公募をするほど信用のある会社も稀だったので、株式取引は微々たるものだった。しかし、1968年12月に「資本市場の育成に関する特別法」が制定され、公開企業を優遇するなど、証券市場定着のための制度的な装置が設けられた。1973年に「企業公開促進法」を制定して半強制的に強力な公開政策を施行し、1978年の末までに上場企業が356社に増えた。1979年7月、証券取引所が汝矣島(ヨイド)に移転するまで、韓国証券取引所のある明洞が株式市場のメッカであった。 証券取引所が汝矣島に移転した後に、建物はオフィスビルとして使用されたが、2005年初めに競売にかけられた。その後、落札業者が撤去を計画したが、市民団体などの反対で2005年6月20日、文化財庁によって近代文化遺産として文化財登録が予告された。しかし、その年の10月、文化財登録予告が法的拘束力のない隙を利用して奇襲的に撤去され、韓国初の証券取引所の建物は消えることになった。撤去後の2008年、「明洞アールヌーボーセンタム」というオフィス商業複合ビルが建ち、現在に至っている。 旧証券取引所の建物は、地上3階、地下1階、延面積3,638㎡で、その当時(1922年)としては最新式の建物であった。建築様式が美しい上に、朝鮮戦争当時の屋根が破壊されて部分撤去・増築されるなど、韓国近代史の証拠として保存価値が認められている建物であった。現在は明洞アールヌーボーセンタムの片側に旧証券取引所があったことをを知らせる標識がある。

現代/1956

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区乙支路2街

陸軍第9歩兵師団は、1950年10月25日、国防部一般命令第192号の命により、当時の中区水下洞清渓国民学校で創設された。初代師団長は 張都暎(チャン・ドヨン, 1923〜2012年)准将で、隷下部隊に歩兵第28・第29・第30連隊と第30砲兵隊を置いた。 第9歩兵師団は、編成して1か月も経たない1950年11月23日から慶北地区(永州、金泉、聞慶)共産党遊撃帯の討伐作戦に参加した。1951年1月、25日、連合軍の第2次総反撃の際には、第1軍団隷下部隊として北朝鮮軍第10師団の主力を殲滅した。この戦闘で敵射殺5,549人、火気捕獲1,622丁などの大きな戦果を挙げた。その後、鉄原築反撃作戦、金華地区防御作戦、蛇頭峰戦闘を相次いで闘った。 有名な江原鉄原の白馬高地戦闘では、中共軍第38軍の12回にわたる人海戦術にもかかわらず、すさまじい攻防戦の末に、敵兵8,234人を射殺するなど白馬高地を回復することに成功した。戦闘が終わった後、砲撃によって高地の形が馬の形に変わったのを見た米軍は、そこ395高地を「白馬高地(White Horse Hill)」と呼んだ。また、陸軍第9歩兵師団は、李承晩大統領によって「白馬部隊」という名称を与えられた。 その後、1966年6月1日、国防部指令第3号により、第2次ベトナム派兵戦闘師団として指名され、海外に派兵された。白馬部隊はベトナム派兵期間中、478回の大部隊の戦闘と21万1,236回の小部隊戦闘を行い、合計21万1,714回の戦闘を行った。また、戦闘中にも対民間農業・労力奉仕・医療奉仕・道路建設および住宅建設・給水施設など、住民に対する様々な事業を支援した。 第9歩兵師団が創設されてから60周年を迎え、2010年、水下洞フェロムタワー前(旧清渓国民学校址)に「陸軍第9歩兵師団創設地」という石碑を立て、白馬部隊の戦果と名声を記念している。

現代/1950

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区水下洞

黄土峴とは現在の世宗路と新聞路、鐘路が交差する交差点の南側の低い丘を「黄土マル」と呼んだことに由来する。2005年から実施された「景福宮光化門復元事業」により世宗路一帯を整備し、2009年、中区太平路1街68の光化門ビル付近に「黄土峴址」が造成された。 朝鮮が建国され、都城と宮廷、官衙の建物ができ、世宗路は漢城の心臓部となった。景福宮の正門である光化門の南に続く通りの両脇に、議政府・六曹・司憲府・漢城府などの官衙の建物が位置し、ここを六曹通りとした。六朝通りは東大門と西大門を結ぶ東西に伸びる幹線道路とぶつかって終わり、その南が黄土マルとなる。 日本統治時代の1914年4月1日から光化門通りと改称した。統治からの解放後、1946年10月1日に日本式の町名を韓国の名称に改称した際に地名を世宗路と改称し、道路名もやはり世宗路としたが、これはハングルを創製した世宗大王を称えるためだった。 世宗路は碑閣(高宗の即位40年稱慶紀念碑)から世宗文化会館を経て光化門にいたる街路名であり、法定洞の名称だ。世宗路は長さ600mに過ぎないが、幅は100mで、韓国で最も広い道路だ。世宗路は朝鮮時代にも今日のように幅が広い道で、1912年に日本が京城市区改修予定計画を立てて29の路線を告示し、1914年に光化門から黄土マルまでの道路を改修した。その後、1936年 朝鮮総督府告示第722号いよりこの道路の幅を30間(約53m)と指定したが、現在の半分程度の幅だった。 現在は太平路が通って南大門まで大路が伸びているが、初めは道がなかった。1914年、太平路が幅27mで開通するまでは、南大門までの道は鐘路を回って行く現在の南大門路だった。黄土マルの南側は、現在プレスセンターのある場所に軍器寺(高麗・朝鮮時代に兵器の製造などを管掌した官庁)があり、現在の貞洞一帯には太祖の妃だった神徳王后の貞陵とその願堂である興天寺があった。その南側には太平館(朝鮮時代に明の使臣をもてなした迎賓館)があった。 世宗路は朝鮮時代から韓国の政治の中心部であり、現在も世宗路の西側には政府総合庁舎、東側にはアメリカ大使館が位置しており、六曹通りの脈を600年以上にわたり受け継いでいる。

現代/2009

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区太平路1街

李裕元(イ・ユウォン, 1814~1888年)は南山の麓の202番地に住んでいたが、先祖の白沙李恒福を崇めて白沙の宗稧序に従ってばらばらになっていた氏族の系図を集めて慶州李氏の族譜を整理した。白沙の家址を買って修理し、先祖の故事を追慕し、亭の名前も以前と同じく双檜亭と変え、弼雲台に祖先を称える詩句を記した。 1841(憲宗7)年に庭試文科に丙科で及第し、検閱および待教を経て安東金氏の勢道を背景に高宗の時代の初期には左議政になったが、興宣大院君と反目した。1865(高宗2)年に判府事として景福宮の修復に対して財政の窮乏を問題として難色を示したが、これにより水原留守に左遷された。 1873年に大院君が失脚し、間もなく領義政となり大院君攻撃の先鋒となった。1875(高宗 12)年には奏請使として清に赴き、李鴻章に会見して世子冊封を推進した。 1882(高宗19)年、新式軍隊である別技軍と旧式軍隊が衝突を起こすと、興宣大院君がこれを政治的に利用して日本人将校を殺害した事件の壬午軍乱が起こった。これにより生じた両国の間の問題を処理するために、全権大臣として日本弁理公使の花房義質と済物浦条約に調印した。 博学で、詩、文章、書法、芸書など、多方面に秀でており、徹底した考証を通じて当代の文化・芸術を多方面の著述を通して体系化した。諡号忠文で、著書に『林下筆記』『嘉梧藁略』『 橘山文稿』などがある。

朝鮮/1814~1888

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

鄭芝潤(チョン・ジユン, 1808~1858年)は生まれた時に手のひらに寿の字の刺青があった。名前の芝潤の芝が漢書に芝生銅池とあることからその銅の字を取って寿銅という別号を使い、名前よりも別号で広く知られている。 彼は中人・庶子・胥吏・平民といった巷の出身の委巷詩人の代表的人物で、金興根、金正喜、趙斗淳などの名士との 交わりも篤く、その才能を買って後援者になろうとしたが、受け入れなかった。 規律的な生活を嫌う自由奔放な性格で、生涯を布衣詩客(官職に就かず詩を詠んで風流を楽しむ人)で満足し、頭脳明晰でどんなに意味深く難しい文章でも一度にその要旨を悟ったが謙遜だった。 彼の詩風は権力に対する抵抗の中で鋭い風刺と揶揄に一貫し、面倒な文章や虚しい形式を排撃し、簡潔な中にも格調高い詩を詠んだ。また、個性を尊重する詩を書くことを強調した。 鄭芝潤의の諧謔と風刺詩は、その奇異な行跡と共に多くの民間伝承を生み、「奇抜な戯け者鄭寿銅」として有名であった。50歳で暴飲により死去したが、戯け者らしく、遺言も特異だった。「死ぬ気分はどうかって? 死ぬのは初めてだからよくわからないな。死んでから教えてやろう。」これが彼の残した遺言だ。著書に『夏園詩鈔』がある。

朝鮮/1808~1858

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朴永元(パク・ヨンウォン, 1791~1854年)は1813(純祖13)年に司馬試で進士となり、1816(純祖16)年に式年文科に丙科で及第し、假注書として経筵官となった。その後、清要職を経て成均館大司成、大司憲などを経て四道の監司と六曹判書をすべて歴任し、左議政まで務めた。 孝明世子・純祖・憲宗・哲宗の世子侍講を担って35年間、世子と王の師匠となった。純祖を除いては王になった後も侍講を担ったが教える時間は短かった。朴永元は学問を通じて幼い王を君王とするために特に努力した。長期にわたる勢道政治により弱化していた王権を強化するためには、教育が重要だと考えていたからだ。 その文集である『梧墅遺稿』の講義録には、世子侍講に関する内容が綴られているが、その内容を見ると、徴税を軽減して刑罰を減免し、民生を保護して勉学に力を注ぎ、王の任務を果たすようにしたことがわかる。 朝鮮後期の勢道政治の下で、勢道家の一つの路線を支持することなく、有能な実務能力により政局を運営し、政治的論乱に纏わられることがなかった。また、王道政治を夢見て世子と王の師匠として努めた。 実録では常に慎重かつ謙遜で、4人の王に仕える間、家に貯めた財物はなく、持ち前の品性が篤実で、人としての姿勢が簡重だと評価している。 諡号は文翼で、著書に『 梧墅遺稿』がある。

朝鮮/1791~1854

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

鄭元容(チョン・ウォニョン, 1783~1873年)は1802 (純祖2)年に庭試文科に乙科で及第し、假注書を経て検閱・吏曹参議・大司諫などを務めた。 1831(純祖31) 年は冬至使として清に赴き、その後も昇進を重ねて1842 (憲宗8)年には左議政になった。憲宗の死後に領義政として江華に住む徳完君を王として擁立することを主張して哲宗を擁立した。 朝鮮後期は壬辰倭亂と丙子胡亂により衰弱した王権の上に、純祖の時代から続いてきた勢道政治の弊害が集積し、官紀が乱れてあちこちで民亂が起こっていた時期だった。鄭元容はこれを治めるために暗行御史制度を復活させるように建議した。 1862年には高齢にもかかわらず 三政釐正庁の摠裁官となり、政界に進出した。三政とは、土地税の田政、軍役を布で受け取る軍政、救恤米制度の還政を意味するもので、哲宗が在位していた頃に官吏の不正腐敗が続き、民から収奪する手段として利用された制度だ。それにより全国で民乱が絶えなかったことから、鄭元容は収拾策を講じて三政の弊害を改革するために努めた。 1863(哲宗14)年に哲宗が崩御すると院相となり、高宗が即位する時まで政事の面倒を見て翌年に『哲宗實録』の編纂に参与した。 鄭元容は91歳の長寿を享受し、72年間官職を務めたが、質素で財産を増やさず、国の仕事に対して勤勉であった。諡号は文忠で、字がうまく、『経山集』『北征録』『袖香編』『文献撮要』『経山日録』など多くの著書を残した。そのうち『経山日録』は鄭元容が科挙の及第後から他界するまで約71年間にわたり記録した日記だ。正祖・純祖・憲宗・哲宗・高宗の時代の政治・社会像が綴られており、史料としても重要な価値がある。

朝鮮/1783~1873

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

趙顕命(チョ・ヒョンミョン, 1690~1753年)は1713年(淑宗39), 進士試に合格、1719(淑宗45)年に増広文科に丙科で及第し、検閱・持平などを務めた。1721(景宗1)年、後に英祖となる延礽君が老論の支持で王世弟(王位を継承する王の弟のことを言う)に選ばれた。すると少論は、延礽君を迫害し、 趙顕命は世弟保護論を提唱して苦境に立たされていた 王世弟の保護に力を注いだ。 延礽は英祖として即位した後に、少論と老論の両方を起用する蕩平策を実施して党争の激化を防いた。しかし、1728(英祖4)年、少論の強硬派の李麟佐などが英祖の景宗毒殺説を前面に出して、乱を起こした。 趙顕命はこの時、都巡撫使の吳命恒の従事官として従軍した。乱の鎮圧で功を挙げ、奮武功臣三等となり、豊原君に奉じられた。その年、副提學に昇進し、1731(英祖7)年には、慶尚道観察使に赴任して、深刻な飢饉で被害を受けた人々の救済にに力を注いだ。 翌年、対馬の火災で朝廷が慰問米を送ろうとした際に「倭人は毎年嘘をついて私たちをだまし、また使者を送りもしないのに先に慰問米を送るのは間違っている」として、積極的に反対し、罷免された。1733(英祖9)年に再び起用され、判義禁に特進したが、刑政の不公正を上訴し、金聖鐸事件で正論を述べたことで再び罷免された。 その後、再び復職し、昇進を重ねて1750(英祖26)年に領議政になった。翌年、戶曹判書朴文秀の主張で戶錢法の実施が議論されると、均役庁堂上としてその具体的な節目を決定して良役(朝鮮時代に16歳~60歳までの良人の装丁に課せられていた貢役)を合理的に改革するために先頭に立った。 党派としては老論に属したが、英祖の蕩平策を支持し、弊害の根本が良役にあるとして様々な改善策を提示した。英祖の政策遂行に積極的に協力し、不義を見ると我慢できず、二度も罷免されたが、英祖の信任を失わなかった。一貫して清廉な生活し、孝行により旌門が立てられた。諡号は忠孝で、著書に、『帰鹿集』がある。 趙顕命は南山の麓の筆洞2街に『帰鹿亭』を建てて、官職よりも郷里の田園生活に憧れた。それゆえ、官職を務める中でも家の近くに鹿を飼い、いつでもその鹿が引く車に乗って田舎に戻る心の準備をしていたという。

朝鮮/1690~1753

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

羅弘佐 (ナ・ホンジャ, 1649~1709年)は 宋浚吉(ソン・ジュンギル)の門人だったが、武芸を磨いて武科に志願した。宣伝をはじめ摠部都寺・訓鍊院正を経て1685年(淑宗11)年に內禁衛将になった。その後昇進を重ねて1699(淑宗 25)年に御営大将を経て漢城府左尹に任命され、翌年に捕盜大将になった。 羅弘佐は将帥だった時に威厳と知恵を持ち合わせ、兵士の心を掴み、厳しく規律を治めた。請託は受けず、ひたすらその人の能力を見て部下を任命し、兵士の育成と兵糧の貯蓄に専念した。 彼が捕盜大将 となった後に、科挙の不正による科獄事件が発生した。これ調査する過程で、ある試官の不正を告発した人がいた。しかし、捕盜大将羅弘佐が告発内容を記載しないようにしたと言ったことで免職された。これに対して1701(粛宗27)年にに粛宗が直接流刑を命じ、龍川(平安北道龍川郡)に流刑になった。1703(粛宗29)年にギム・チャンジプ(金昌集)などの大臣の弁論によって免罪となり、その後、水原防禦使に赴任したが、すぐに辞職した。 ナ・ホンジャは南山洞1街2番地に住んでいたが、現在はそこに南山初等学校がある。この付近の町は「ナデジャン(羅大将)ゴル」と呼ばれてきたが、これは ナ・ホンジャ(羅弘佐)大将が住んでいたことから付けられた名前で、略して羅洞と書かれたこともある。

朝鮮/1649~1709

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李弼雨 (イ・ピルウ, 1897〜1978)は、中区乙支路入クリゲで生まれ、草創期の韓国映画界の技術分野を開拓した代表的な先駆者である。幼くして両親に先立たれ、彼は弟のイ・ミョンウ(李明雨)と共に共成学校に通う中で映画に対する魅力に引かれ始めたが、李明雨は兄の後援で後に韓国映画受難期の日本統治期に映画監督および撮影技師として活躍した。 11歳の時に祖父が死亡し、その後、時計屋と写真館で働いていたイ・ピルウは1913年、優美館の映写技師として働きながら、子供の頃から写真機・幻灯機・映写機など映画に関連する機器を扱う技術を身につけた。 韓国映画技術開拓という遠大な夢を抱いていた彼は、17歳になった年の1920年、日本に渡って大阪にあった帝国キネマ系の小阪撮影所で撮影と現像技術を習得した。 1923年に帰国して連続活動写真劇を製作・・計画中だった文芸団(1919年に大邱で創設された新派劇団)のイ・ギセ(李基世)と出会い、最初の作品である『知己』を撮影し、その年の4月に公開することにより、韓国の映画史上初の活動写真の撮影技師となった。 これは、1919年当時、韓国初の連続活動写真劇『義理的仇闘』日本の撮影技師によって撮影されたという優越感から、日本人がややもすると韓国映画人を軽視する時代に、日本の技術に対抗して韓国の技術を誇示した最初の正面対決でもあった。 李弼雨 は1924年、団成社の撮影部に専属契約して最初の体育記録映画『全朝鮮女子オリンピック大会』と純粋な韓国人制作の『薔花紅蓮伝』で撮影・現像・編集を担当した。また、1925年にイ・グヨウン(李亀永)と共に高麗映画製作所を設立し、『双玉涙』前・後編を脚色、撮影し、1926年に半島キネマを創立した後に、朝鮮日報連載漫画を脚色した『愚か者』を脚色・監督・撮影した。 1927年には、極東キネマを設立して『楽園を探す群れ』を撮影した、『洛陽の道』、『紅恋悲恋』は脚色・監督・撮影を兼ねた。 このように、李弼雨は脚色・監督などの創作分野でも大きく活躍したが、アメリカで制作された発声映画が韓国に初めて紹介されると、そこに大きな感銘を受け、発声映画の装置に没頭した。それは当時、韓国の映画界の技術レベルや機械的設備では考えも及ばない困難なことであった。その時の韓国映画制作機材と言えば、古いニュース映画撮影用のアメリカ製アイモの撮影機数台と撮影機2台、そして最新式だと宣伝していたものの、アメリカの機材に比べれば古物に過ぎなかったユニバーサルウィラード撮影機1台だけだった。ウィラードも1927年に製作された『落花流水』の撮影で初めて使用されたものであった。 そこで李弼雨は、録音技術の研究開発に全力を尽くし、ついに1935年、韓国初の発声映画『春香伝』を完成することにより、新たな発声時代の序幕を開き、韓国の映画発達史に画期的な転機をもたらした。 撮影技術のパイオニアであると同時に録音装置の開発者であり、監督をも兼ねた李弼雨は、韓国映画会社の独歩的な存在として評価されている。

朝鮮~現代/1897~1978

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李亀永(イ・グヨン, 1901~1974年)は中区会賢洞で生まれ、日本統治時代に主に活動した映画人で、映画監督とシナリオ作家、俳優、評論家を兼ねた。 尚洞攻玉小学校を卒業して培材高等普通学校に進学した彼は、青少年時代に「チャップリン」というあだ名がつくほどチャーリー・チャップリンの物真似をするなど活動写真の見物に関心があり、映画狂として噂されていた。 16〜17歳の頃、彼は本格的に映画の勉強をすることを決心し、日本で出された映画雑誌を集めて読む一方、ほとんど映画館に入りびたりだった。その後、映画修業のために、日本へ行く道を模索していた彼は、日本の大阪每日新聞に記者として入社することになる。しかし、 李亀永の意志は、最初から映画監督になることだったので、暇さえあれば劇場と撮影所に行くことが主な日課だった。 1923年に帰国し、中外新聞、朝鮮日報などに筆名、匿名で映画に関係する記事を寄稿し、韓国演劇界の先駆者の一人であるヒョン・チョルと出会った。二人は意気投合して朝鮮の映画界と演劇界の革新を実現するために、1924年に朝鮮俳優学校を設立するが、この学校は、韓国俳優専門学校の嚆矢となった。ヒョン・チョルは演劇科目を、 李亀永は映画を担当してシナリオ作法、演技論、活動写真師など、自分の映画の知識を総動員し、情熱的に教え後進を育成した。学校は、生徒の中できちんと授業料を納める人はいないほどで、厳しい状況だったが、そのような中でも後日、良い演技者が輩出された。イ・グムリョン、ボク・ヒェスク、ワン・ピョン、キム・アブなどがこの時に輩出された第1期生だった。 この頃、彼に映画演出のチャンスが訪れた。日本人の早川が、制作して興行に大きく成功した『春香伝』に鼓舞されて、映画製作の依頼が入ってきたのだった。 当時、朝鮮の映画界はユン・ベクナム(尹白南)の人脈と団成社の人脈の二大派閥から構成されていたが、 李亀永は団成社の人脈の中心だった。ところが、二つの派閥がぶつかって李亀永が企画していた『沈清伝』が水の泡に帰すと、彼は朝鮮俳優学校を共に設立したヒョン・チョルと決別した。 そして1925年、イ・ピルウ(李弼雨)などと高麗映画製作所を設立し、『双玉涙』を映画化することにした。李亀永はこの作品の演出を引き受け、監督と映画台本作家として登場し、自分の長年の夢をかなえた。『双玉涙』は、前・後編15巻で映画史上最も規模が大きい大作で、朝鮮監督の最初の作品という面で多くの期待を集めた。 李亀永はその年の冬、団成社に入社し、映画の宣伝および撮影部の仕事を引き受けて韓国の劇場宣伝を体系化する先駆者的役割を果たした。 また、1927年には、キム・ヨンファン(金永換)と金剛キネマを設立し、その後、代表的な無声映画『落花流水』を監督するなど、この時期の朝鮮映画界の中心人物として活動した。 1924年から1954年までの30年の間、合計7本の映画と映画の台本16編を出し、主な作品として、『双玉涙』、『落花流水』、『僧房悲曲(1930)』、『アリランその後の話( 1930)』、『スイルとスネ(1931)』、『葦の花(1931)』などがあり、主なシナリオとしては、『春香伝(1935)』、『三一革命期(1947)』、『美しかったソウル(1950 )』、『成仏寺(1952)』、『栄光の道(1953)』、『故郷の歌(1954)』などがある。

日本統治時代~現代/1901~1974

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金陶山(キム・ドサン, 1891~1922年)は忠武路草洞で生まれた韓国で最初の映画監督であり映画作家で、本名は金鎭学である。 彼は1919年、韓国映画が不在の不毛の地で『義理的仇闘』を制作して立ち上がった。この映画は、35㎜白黒1冊分の連続活動写真劇で、韓国映画史に初めて記録された映画であり、嚆矢である。 映画制作者だったバク・スンピル(朴承弼, 1875〜1932)と共に連続活動写真劇を開拓した金陶山は、新文化演劇映画運動の先駆者であり、映画の企画・演出・脚色者であると同時に演技者でもあった。 金陶山は尚洞礼拝堂の中にあった尚洞学校を出て、早くから演劇を志して新劇運動の先駆者である李人稙(イ・ジンシク)の下で新劇場に参与した。 李人稙の円覚社(韓国初の西洋式私設劇場)で活躍していたが、ここが閉館になると、1911年イム・ソング、キム・ソリャン、 パク・チャンハン、イム・イングなどと共に革新団を組織して南大門の外の御成座や団成社などで舞台公演を行った。 続いて1914年には、キム・ソンリャンなどと協力して、唱劇俳優や新派俳優を合わせた新派劇団の改良団を作った。 改良団は唯一団(1912~1914年まで活動した新派劇団 )、芸星座(1916年3月〜12月まで活動した新派劇団 )、演美団系統で活躍していた新進らが大挙結集し、特に韓国新劇史上初の女優である金小珍がいることで、異彩を放った。彼らは金陶山を団長として団成社で主に公演していたが、団成社が映画常設劇場として改築されると、地方巡回公演に場を移した。 その後1917年に改良団から出たキム・ソリャンが聚星座(新派劇の草創期に大衆演劇を主導した新派劇団)を新たに構成し、俳優の組合を作ると、金陶山は再び新劇座を設立した。演技者としてはイ・ギョンファン、ビョン・ギジョン、ナ・ヒョジン、ソ・ジェウォン、イ・ウォンギュ、キム・ヨンドク、ハン・ギルヒョン、ホン・ヨンヒョンなど社会の著名な陣立てで組織されており、『湖』、『血闘』、『黒真珠』などを地方公演した。 このように演劇に専念していた金陶山は、1918年に黄金座の創立2周年記念公演のために招待された日本の瀬戸内海劇団の連続活動写真『船長の妻』を見ることになる。 これを見て刺激を受けた彼は、団成社の所有者だったバク・スンピルに会って彼の助けを借りて活動写真連続劇ヨンスェグク『義理的仇闘』を制作し、1919年10月27日に団成社で公開した。また、これを皮切りに、『大友情』、『刑事苦心』、『義賊』など四編の連続活動写真劇と『京城全市の景』など2編の記録物(ドキュメンタリー)フィルムに至るまで創造的努力を惜しまなかった。 金陶山は1922年、活動写真に近い『国境』を脚色および制作し、最初の活劇映画を試みたが、最後の場面を撮るために車から飛び降りて負傷し、肋骨2本を折りセブランス病院に入院して治療を受けた。一説には、闘病中に死去したとも言われているが、それは確かではなく、金陶山は、最終的に映画を完成しないまま、同年12月に享年31歳で惜しくも早世した。

朝鮮~現代/1891~1922

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金永根(金鎮学)

忠武路3街・草洞・乙支路3街にわたる地域は椒井ゴルと呼ばれており、ここには、椒井という井戸があったが、現在はなくなった。この井戸の水は味が辛くピリッとしてまるでコショウが入っているようだということから、コショウ井戸とも呼ばれた。この井戸は、朝鮮時代に胃腸病に良く効くとして長い間、多くの人々が愛用したが、1906年に日本人がジンゴゲを8尺も掘り高さ5尺のの水路を埋めてからは、水がにごり、味も普通の水のように変わって効能がなくなったと伝えられている。 英祖の肖像を奉安していた慶熙宮泰寧殿の西側には、為善堂があった。 為善堂の西には霊洌泉があり、朝鮮時代の宮廷の記録が記され多『宮闕志』によると、泉が岩間から流れ出て常に枯れることはなく、水はとても澄んで冷たく、人々はが 椒井と呼んだと記されている。 椒井は冷泉浴の一種として使用された。朝鮮時代の初め、世宗は自分の眼の病気を治療するために1444(世宗26)年に清州牧の椒水に行宮し、王妃と共に行幸して、忠清道木川縣、全義縣の椒水が効力があるとし、内贍寺人員を遣わして行宮を建造した。 『世宗実録地理志』や『新増東国与地勝覽』で、冷泉は椒水、薬水、鹹泉、酸水、潭泉 、冷泉などの名前で伝わっているが、それぞれの場所で その水の味を厳密に調査し、水の味が一致する所は椒井・鹹水・酸水などの名前を付けて、病人が利用しやすいようにした。これは冷泉浴がその当時の一般的な民衆の病気の治療に広く利用されたということを裏付けている。

朝鮮/未詳

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区忠武路3街

ベルギー領事館は、現在、ウリィ銀行本店のある中区会賢洞2街78番地にあったが、現在地下鉄4号線明洞駅付近の忠武路1街18番地に移転した。 朝鮮とベルギーとの間の外交関係が正式に結ばれたのは、1901年10月17日のことで、ベルギー全権委員のLeon Vincartが外部大臣の朴斉純と条約を批准して行われた。その頃にベルギーは白耳義とも言われていたが、比利時・比国・大比利時国などとも表記されていたので、この条約は、 韓比修好通商条約という名称とすることになった。 ベルギー総領事にはでは Vincartが任命されたが、彼は1909年9月まで韓国に常駐した。 ベルギーは1902年6月10日、現在の会賢洞2街78、79番地に領事館新築地を選定して、2年以上にわたる工事の末、1905年、地下1階、地上2階、延床面積454坪規模の領事館の建物を新築した。 レンガと石材を混用して建てたこの建物は、古典主義樣式の玄関とバルコニーのアイオニック・オーダー(Ionic Order)石柱など、意匠においてかなり秀麗な様式となっている。設計者は、日本人の小玉で、北陸土木会社の西村が監督して工事を行ったとされている。建設工事はすべて日本人によって行われたが、日露戦争のために工期が少し延長となったものと推定される。 しかし、会賢洞にあったベルギー領事館が彼らの最初の領事館だったか定かではない。ベルギーはこれに先立って貞洞地域に領事館を置いていたと考えられるが、湖巖・文一平が『朝光』に寄稿した「今昔を語る外国領事館の基地の由来」という文章とグレゴリー・ヘンダーソン(Gregory Henderson)が『ロイヤル・アジアティック・ソサエティ韓国』に寄稿した「貞洞地域とアメリカ大使官邸の歴史」という文章によると、その位置は、貞洞16-1番地であったと推測される。位置のみ推定するだけで開設時期や場所がその最初の領事館かどうかなどについてはわからない。 ベルギー領事館は乙巳条約後も、日本との外交関係を継続しながら、領事館を維持し、1919年には会賢洞領事館の建物を日本の横浜生命保險会社に売却し、現在の忠武路1街18番地に移転した。その後、この建物は、日本海軍省で武官部官邸として使っていたが、統治からの解放後、海軍憲兵監室と商業銀行が使用していた中で、1977年11月22日史跡第254号に指定された。その後、ソウル特別市で新たに移転・復元するために1980年8月に撤去し、1982年8月冠岳南峴洞541番地1・2・6・7号に復元した。

日本統治時代/1919(以前)

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区忠武路1街

現在、ソウル市立美術館が位置している西小門洞38番地は、本来、1890年から1902年まで旧ドイツ領事館が位置していた地域であった。 ドイツは1883年11月26日、朝鮮と韓独修好通商条約を結び、日本の横浜総領事のKarl Edward Zappe(1843〜1888年)を派遣し、韓国側は交涉通商事務衙門督弁の 閔泳穆(ミン・ヨンモク,1826〜1884年)を全権大臣とした。 その後1884年6月24日に副領事H. Budlerがソウルを訪れ条約批准のための準備業務を行い、その年の10月14日総領事Captain Otto G. Zembsch(1841〜1911年)が正式に赴任して条約批准書を交換した後に、ドイツの公館開設が進められた。公館は協弁交渉通商事務衙門としてで活動していたドイツ人Paul George von Moellendorf(穆麟徳,1847〜1901年)の斡旋で駱洞(現忠武路1街ソウル中央郵便局裏)に定めた。 ここでは、3か月に一度支払う条件で、毎月15ウォンで賃貸して使用する韓屋だったが、ドイツは建物が狭く古いという理由で近くの西側にあった空き家を借りて使用しようと数度にわたり朝鮮政府に要請したが。しかし、そこはすでにフランスの公館として使用するために空けておいた建物だったので断られたとされている。 その後、ドイツ領事館は1886年11月、薄洞(現鍾路寿松洞鍾路区庁の位置)の邸宅に移転したが、世昌洋行(Edward Meyer&Co.)と朝鮮政府の所有権紛争が起き、貞洞の育英公院に場所を移すことになった。 その後、1900年3月、大韓帝国宮内府からドイツ領事館一帯の敷地を買い取って尚洞所在の館有地を引渡し、ドイツは1901年3月に工事を開始して、地下1階、地上2階の延べ252坪規模の建物を新築し、1902年に完成して移転した。そして1903年5月弁理公使Conrad von Saldern(1847〜1909年)が新たに赴任し、正式にドイツ公使館となることになった。 しかし、1905年乙巳条約の後に再び領事館に格下げされ、1906年の初めに西大門の外の平洞(現在の橋南洞)の邸宅に移り、1914年には日本のドイツに対する宣戦布告により外交関係が断絶して閉鎖された。その後、約14年ぶりの1928年6月に再開されたが、光化門通210番地、西小門町55番地、西小門町41番地と転々としていたことがわかる。

朝鮮/1884

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区忠武路1街

ドイツ公館(独逸公館)

ここは本来、汝矣島の面積の2倍を超える広さの朝鮮神宮があった場所だ。朝鮮神宮は日本列島を創造したとされる天照大神と明治天皇を奉る日本の神社の総本部で、解放当時、全国に1141あった日本神社の筆頭だ。日本の聖地を造成するために、崇礼門から朝鮮神宮の入り口まで参道を造るために、崇礼門から南山を結ぶ漢陽都城城を壊して車道にした。神社の入り口から本殿のある広々としたか場所に至る稜線には、石段384個を置いたが、これが現在のサムスン階段である。朝鮮神宮の歴史は、1945年、日本が敗戦することで終わった。朝鮮総督府は、その年の8月17日、神宮に神物として置いてあった鏡を飛行機に乗せて日本に移し、建物を解体した。 ここ周辺には、安重根義士記念館左側のソウル市教育研究情報院の建物の2、3階に世界民俗教育博物館があり、全世界の民俗遺物展示を観覧することができる。サムスン階段は、この博物館左側にあり、2005年のドラマ「私の名前はキム・サムスン」を撮影した後には、外国人観光客も多く 訪れる名所となった。

現代/2005

文化/人物/文学/映画/ドラマの背景地

ソウル特別市中区会賢洞1街

ソウルの中心点標石は、 2010年7月、ソウルの行政区域の地理的中心が南山の頂上部にあることを最先端のGPS測量を利用して見つけ、設置した象徴物である。 ソウルは1394(太祖3)年に漢陽遷都により都となって以来、時代の流れに伴って行政区域が拡張され、漢陽都城の中心から漢江の南北まで含まれるようになった。したがって、ソウルの地理的中心点は、南山の頂上にある現位置になった。 ソウルの中心点標石は、韓国の地理的位置決定のための測定の出発点となった大韓民国初の経緯原点となった場所に置かれたもので、国家基準点(ソウル25三角点)と地籍三角点として測地と地積測量に使われる。 現在鍾路区仁寺洞194-4(ハナロビル1階)に1896年に設置された中心点があるが、これは朝鮮時代当時の基準点で、その後急激な変化を経たソウルの行政区域変遷などの歴史的な変化が反映されていない。したがって、ソウル市が2008年にソウルの地理的中心点を算出するために最先端のGPS測量を実施し、南山の頂上部の中心点の位置を明らかにした。 過去、韓国の測量の重要な基準点として使用されてきた南山頂上の三角点は規模が大きすぎて周囲の自然景観との調和を損なうということで、ソウルの中心点と統合してデザインした。また、中心点の造形物に、最先端のGPS受信機能を導入し、実際の測定の基準点としても活用している。 中心点標識石のデザインは、ソウルと漢江の姿を反映して、水と共にある躍動的な「文化ソウル」をテーマに、ソウル市25区を共に表示し、ソウルの象徴的な意味を込めた。中心点の周辺には、ハングル・英語・中国語・日本語など4つの言語で中心点に関する案内説明板、床・支柱のマイルストーンを設置して、観光客や南山を訪れた観光客が中心点について理解しやすいようにしている。

現代/2010

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区芸場洞

逆さに立てた像は、旧朝鮮統監府官邸で韓日併合条約が締結されてから105年になる2015年 8月22日に、その日の恥辱を忘れないために立てられた像だ。 逆さに立てた像は、1904年日の韓日議定書と、第一次韓日協約、1905年の乙巳条約締結の先頭に立ち男爵の爵位まで受けた日本公使の林權助(1860〜1939年)の銅像の残骸を利用して制作された。林権助は日本の外交官で1889(高宗26)年に仁川駐在副領事として赴任し、1899年に再び公使として赴任した。日露戦争が起きると、1904年韓日議定書と第一次日韓協約を結び、1905年乙巳条約を締結するにあたって主導的な役割をした人物である。後に日本駐英大使、枢密院(当時の天皇の諮問機関)の顧問を務め、1939年、80歳で死去した。 第1次日韓協約とは、1904(光武8)年の2月、日露戦争の後に日本の要求で日韓の間で結ばれ、韓国を日本の保護国にするという屈辱的な内容の協定である。そして乙巳条約とは、1905(光武9)年に日本が韓国の外交権を剥奪するために韓国政府を強圧して締結した条約で、高宗が裁可していないので、無効の条約である。 統治からの解放と共に取り壊された林権助像は、2006年に南山の北の麓で「男爵林権助群像」と書かれた像の敷石3点だけが残った状態で発見された。この像が発見されたことで、光復と共に撤去されて正確な位置がわからなくなっていた朝鮮統監府官邸址の位置も明らかになった。 ソウル特別市では、2015年8月22日、日韓併合105周年を迎え、旧朝鮮統監府官邸の退渓路26街ギル6に新たに造った「逆さに立てた像」を披露した。逆さに立てた像の設置は、日帝の残滓をどのように後世に継承するかという悩みから出発したもので、国を失った恥辱を忘れないという覚悟を表現すると同時に、同じ悲劇を繰り返さないという意志が込められている。そして、ソウル市では放置されていた像の残骸を集めて逆に立て、の下の部分に鏡のように文字が映る黒い烏石を配置して碑石に書かれた「男爵林権助群像」という文字が読み取れるようにした。 

現代/2015

文化/築造物/銅像

ソウル特別市中区芸場洞

チェミランは明洞駅3番出口からソウルアニメーションセンターに至る450mの漫画ストリート「チェミ路」にあるの漫画博物館だ。2013年12月、南山一帯を創意と観光のメッカのアニメーションタウンとして造成するための第1段階事業「チェミ路」と共に推進した漫画文化空間で、ソウル産業振興院(SBA)ソウルアニメーションセンターが運営している。 チェミランは、地下1階、地上4階の規模で、地下1階は展示および公演コミック劇場となっている。ここでは、最新の漫画作品の画像と共に単なる展示ではなく、インタラクティブメディア(Interactive Media、対話型メディア)として生まれ変わった作品に接することができる。来場者が床にあるボールを投げて映像の中のキャラクターにぶつけると面白いシーンが展開するようになっている。また、ライブドローイングパフォーマンス(Live Drawing Performance)などで漫画を新たに楽しむことができる様々な空間が設けられている。 1階は展示スペースと様々なキャラクター商品を扱う商品ショップがある。常設展示「チェミラン再発見」コーナーは、タッチスクリーンを利用して漫画作品を鑑賞することができ、各種の企画展示が期間別に催される。 2階は展示ギャラリーで、有名なウェブトゥーン(Webtoon)作家の作品の主要な場面や作家の仕事の痕跡が展示されている。華やかではないが細やかで温かみのある展示は、観覧客をウェブトゥーンの世界に引き込む。あちこちに設置されたキャラクターの造形物を見ているだけでキャラクターと一緒に、その時間と空間の中にいるような錯覚を覚える。 3階は漫画の専門資料のある作家のコミュニティ空間だ。また、マスタークラス(Master Class、専門課程)・カトゥーンフォーラムなどがここで開かれる。運営オフィスとしても使用され、漫画家が集まって会議をしたり、意見を交わしたりなど、作家同士の出会いの場でもある。作家ミーティングがある場合を除いては、一般の人々の入室は制限されている。 4階は国内の漫画約1千冊が置かれた漫画屋根裏部屋と屋上庭園がある。思い出の漫画部屋・漫画体験工房など市民のための休憩室として使用されている。全面ガラスで構成された漫画部屋から屋上と外の風景を見ることができ、リラックスした雰囲気の中で漫画を読むことができる。窓際のテーブルや、暖かい床に座ったり、横になって快適に漫画を見ることができ、ホワイトボードに絵を描くこともできる。 チェミランは地下鉄明洞駅3番出口を出て退渓路20ギル(チェミ路)にを歩いていくとある。周辺にはソウルアニメーションセンターがあり、そこに行くこともできる。火曜日から日曜日、午前9時から午後6時まで無料で開放されており、毎週月曜日と祝日は休業となっている。

現代/2013

場所及び施設/展示、観覧施設/博物館(国立、私立)

ソウル特別市中区南山洞2街

徳寿宮の隣のセシル劇場は、1976年4月に開業し、韓国で最も美しい10大建築物に選ばれるほど美しい劇場である。特に、有名な建築家である如泉・金重業(キム・ジュンオプ,1922〜1988年)の作品として広く知られている。セシル劇場という名称は、当時建物の所有者だった大韓聖公会の草創期の神父「セシルクーパー(Alfred Cecil Cooper)」を記念して名付けられた。 セシル劇場は開館、1年後の1977年4月、韓国演劇協会が借りて演劇人会館として使用し、韓国演劇の中心地として浮上した。セシル劇場は、特に瑞草洞の芸術の殿堂、恵化洞の文芸会館ができるまで、第1回(1977)から第5回(1980)「大韓民国演劇祭」が開催された。このような理由から、演劇人たちがセシル劇場に格別な愛着を持ち、維持されてきた。 1981年1月から民間団体である制作グループ「マダン」がセシル劇場を買い取って劇団の専属団体の公演場所として使用してきた。 アジア通貨危機の当時、劇団マダンが賃貸料を払えず撤収したことから、所有者の大韓聖公会が劇場を直接運営することになり、歌手兼国楽家のチャン・サイク(張思翼)がコンサートを企画した。しし、興行に失敗し、赤字がますますかさむようになり、聖公会では結局、劇場を事務所として改造することに決定した。 しかし、1999年、当時の劇団「ロデム」の代表は、建物の所有者であった聖公会がセシル劇場を事務所に改造するという話を聞いて、私財をはたいて賃貸契約を結んだ後に、当時の第一火災から賃貸料の試演を受けて、なくなる危機に瀕しているセシル劇場を再び発足することができた。このため、「第一火災セシル劇場」という名称が生まれた。 1999年にロデムが引き受けた後のセシル劇場は、大幅な改修作業を行い、既存の300席の客席を232席に大幅に減らすなど、観覧環境を大型劇場並みに改善した。 2010年ハンファ損害保険㈱が第一火災海上保険㈱を買収したことにより、「ハンファ損保セシル劇場」へと名称が変更された。その後、2012年3月ハンファ損害保険㈱とのスポンサー契約が終わり「セシル劇場」に名称が変更された後に、各種の演劇や公演が催されている。 セシル劇場は地下鉄市庁駅3番出口から近く、周辺には徳寿宮・ソウル市立美術館・貞洞劇場・ソウル広場などがあり、公演観覧以外にも文化探訪の時間を持つのに適した場所である。

現代/1976

場所及び施設/展示、観覧施設/公演場、小劇場

ソウル特別市中区貞洞

李栄薫追慕碑は中区貞洞ソウル市立美術館前三叉路の徳寿宮石垣の道に作曲家李栄薫(イ・ヨンフン、1960〜2008年)を追悼するために、2009年に立てられた追悼碑である。イ・ヨンフンは1980年代を代表する大衆音楽の作曲家である。1985年歌手イ・ムンセ(李文世)のサードアルバム「私はまだ分からない」で大衆音楽の作曲家としてデビューした。 イ・ヨンフンは演劇・放送・舞踊音楽などを作る比較的純粋な芸術の領域に属する仕事をしていたミュージシャンだった。そのような中、1984年キム・ウィソク監督のデビュー短編映画音楽を引き受けて大衆音楽へ転換し始めることになった。翌年、歌手イ・ムンセに出会い、本格的に大衆音楽に着手した彼は、1985年、サードアルバムの「私はまだ分からない」を皮切りに、「口笛」「少女」などを相次いでヒットさせ、「ポップバラード」という新しいジャンルを開拓した。 1987年、4集目のアルバムには「愛が過ぎ去れば」、「別れ話」、「彼女の笑い声だけ」などをヒットさせ、その年のゴールデンディスク大賞および作曲家賞を受賞し、最高の作曲家としての立場を得た。 150万枚が売れたサードアルバムがミリオンセラー時代を開いた信号弾であったとすれば、285万枚の販売記録を樹立した第4集は、それまでの史上最多アルバム販売記録を覆す一つの事件だった。1988年、彼が全力を投入下イ・ムンセ第5集は、「街路樹の木陰なら」、「光化門恋歌」、「赤い夕焼け」など、アルバムに収録されたほぼ全曲を10〜20代が口ずさむほどだった。このアルバムでイ・ムンセはゴールデンディスク賞の3連覇を成し遂げることになり、彼が披露した質の高いポップバラードは大衆歌謡に対する認識の転換をもたらし、それまでのラジオを占領していたポップソングプログラムの時代を終わらせて、歌謡プログラムが大挙編成される分岐点を提供した。 その後、イ・ヨンフンは作曲活動を続ける中で、2006年に大腸がんの判定を受け、闘病生活をしていたが2008年2月14日に死去した。追悼1周期の2009年2月14日、「李栄薫追慕碑(イ・ヨンフンの追悼歌碑)」が「光化門恋歌」の舞台となったソウル中区徳寿宮石垣の道にある貞洞第一教会の前に建てられた。

現代/2009

文化/人物/記念碑

ソウル特別市中区貞洞

水標橋は1420(世宗2)年に架けられた清渓川の石橋である。1441(世宗23)年に水標を製作して橋の西に立てて清渓川の水位を測定し、洪水に備えさせた後からこの橋が水標橋と呼ばれるようになった。1760(英祖36)年の水標橋の修理時には橋の柱にも庚・辰・地・平という表示を記して水の深さを測った。このように水標橋は川を渡る単なる通路ではなく、洪水の調節のための水量の測定においても重要な役割を果たした。 水標橋の柱は9行5列に配列されており、石柱の上は両端を半円形に整えた太く長い石が縦に置かれている。その上に床石を縦横に組み立てて床面を構成している。床の両端にある石の欄干を構成している部材は、蓮の花のつぼみ・蓮の葉などをモチーフにして設計された。これは、朝鮮時代の石の手すりの典型的な形式に倣ったものである。 水標橋はもともと清渓川2街にあったが、1959年の清渓川覆蓋工事の際に新栄洞にしばらく移転され、1965年に現在の場所に移された。1973年 6月7日にソウル特別市有形文化財第18号に指定された。 2003年 6月には清渓川復元工事の一貫として清渓川に本来の水標橋を模して造った新しい水標橋が建築された。

現代/1965(以前)

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区奨忠洞2街

日本統治時代の暗鬱な現実が続いていた1936年に開かれた第11回ベルリンオリンピックのマラソンで、韓国の孫基禎が1位で優勝し、金メダルを取った。このニュースは、当時、日本統治時代に民族史的な苦難に喘いでいた国内の韓国人と海外の韓国人に大きな民族的自負心と希望を与えた。 第11回ベルリンオリンピックマラソン優勝遺物は、この時に孫基選手が獲得した金メダルと優勝の賞状そして月桂冠から構成されている。 まず、オリンピック金メダルの表には「XI OLYMPIADE BERLIN1936」とあり、勝利の女神ニケがオリーブの冠と月桂樹の枝を持っている。裏にはマラソンの英雄を肩車に乗せて歓呼する市民の姿が刻まれている。 金メダルと共に孫基選手が得たマラソン優勝賞状には「XI OLYMPIADE BERLIN1936」のフレーズとベルリンオリンピックメインスタジアムの姿が刻まれている。月桂樹は勝利者を尊敬する意味で、オークの葉に花輪を作ったものである。 孫基禎が受信した第11回ベルリンオリンピックマラソン優勝遺物は日本統治時代の韓国人が最初に受けたオリンピック優勝遺物という点で大きな体育史的・民族史的な価値がある。 2012年 4月18日に登録文化財第489号に指定された。

日本統治時代/1936

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

発行元の朝鮮日報および東亜日報に教材6種7点が保管されているが、そのうち朝鮮日報社で発行・所蔵中の文字普及教材は合計3点で、次のとおりである。 まず、『ハングルウォンボン』は1929年9月から1933年10月の間に発行された教材である。各種文献に登場するハングル教材をすべてまとめて要約・編集した著作で、その後登場した文字の学習書『諺文反切表』原型となった。 『諺文反切表』は、1930年11月に出版された文字普及教材の中で最も進んだ的な文献と判断される。ここに書かれている子音と母音の名称は、1933年朝鮮語学会が制定および公表した「ハングル正書法統一案」と一致する。 『文字普及教材』は、ハングルと算数を同時に教える目的で発行した資料である。この本は、朝鮮日報が所蔵している1936年12月発刊本と東亜日報が所蔵している1934年6月発刊本の合計2冊で構成されている。本頭の「教授25上注意」に続いて『ハングルウォンボン』と『算術教材』が一冊にまとめられている。 朝鮮日報社が所蔵している3種の文字普及教材は、2011年 12月15日に登録文化財第484-2号に指定された。

日本統治時代/1930

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/金属活字

ソウル特別市中区

培材学堂ピアノはH.Dアッペンツェラー(Henry G. Appenzeller, 1858~1902)が1932年から約1年間、培材学堂大講堂を新築した際に、アメリカから船で取り寄せたコンサート用グランドピアノである。ピアノの製作会社は、ドイツのブリュートナー(Bluthner)社で、1911年に作られた。現存する国内のコンサート用ピアノでは最も古いものである。 1930年台にはピアノがかなり珍しかったので、学生の教育ではなく音楽家たちの演奏用に主に使用された。また、日本統治時代には公演活動に対する制約が多かったことから、公演場として、外国人設立学校ということで比較的に干渉が少なかった培材学堂の公演場が好まれた 培材学堂ピアノは1930年代以降キム・スンヨル、キム・スンナム、イ・フンリョル、ハン・ドンイル、ペク・ゴなど多くの音楽家を輩出して育てるゆりかごとしての役割を果たした。本来は培材高等学校で保管していたが、現在は培材学堂歴史博物館で保管および展示している。 培材学堂ピアノは制作履歴と国内搬入の背景、演奏履歴などが明確で、韓国の近現代音楽に大きな影響を及ぼした遺物として高い歴史的価値を有する。2011年 10月17日に登録文化財第480号に指定された。

日本統治時代/1911

文化/活字、磁器、機器類/その他

ソウル特別市中区貞洞

『つつじの花』は金素月 (キム・ソウォル, 1902~1934年)が生前に出した唯一の詩集だ。また、その死後にも様々な出版社によって詩集が出版されるほど、韓国人に最も愛されている作品の一つとして挙げられる。 詩集には金素月の代表的な作品の『つつじの花』をはじめ「遠い後の日」、「山有花」、「オンマヤヌナヤ」、「招魂」など土俗的で伝統的な情緒を節制された調べの中に込めた127編の作品が収録されている。 詩集に収録されている大部分の作品は、詩集にする前に金素月が個別に発表したものだ。但し、発表当時の作品とはその文脈の処理や形態にかなり差のある点が見られ、詩集刊行当時、金素月がすでに発表した作品を手直しして出したものと推定される。 韓国の近代に出帆された文学作品としては初めて2011年 2月25日に登録文化財第470-2号に登録された。

日本統治時代/1925

文化/活字、磁器、機器類/金属活字

ソウル特別市中区貞洞

金堤新豊農旗は長さ464cm、幅270cmの木綿布に雲に囲まれた青龍を描き、黄土で染めた布で作ったムカデの足の形の装飾が下部に付けられている。 金堤新風農旗は龍の絵が専門の画員の腕前で、非常にリアルに描かれている。龍は水を司る神物で、稲作の豊穣を祈願する意味で描かれた。金堤新風農旗は寄贈者と制作者、集落の中心人物、制作年度などが墨書でに記されている。それによると、農旗は丁酉年に郭安栒が制作した。絵を描いた画士は、蘭谷という銘文があり、製作年代は1957年と推定される。 普通、農旗はかさばるので主にたたんで庭に保管された。したがって、紛失しやすく、また傷んだ状態の物が多いが、この農旗は保存状態が良い。また、龍旗の伝統と神農遺業など古制に従っており、ムカデの足型の装飾を使用するなど、形式と内容の面でも優れた評価を受けている。2009年 3月5日にソウル特別市文化財資料(文化財資料)第43-4号に指定された。 農旗は農村で集落単位で農作業をしたり、豊年を祈願する風楽を奏でたりする際に使用した旗である。ドゥレと呼ばれた農村集落がなくなって長い歳月が過ぎ、農旗も徐々になくなり、現在は残っているものが非常に少ない。このように農旗が稀な状況で金堤新風農旗の持つ歴史的価値は非常に大きいということができる。

現代/1957(推定)

文化/活字、磁器、機器類/その他

ソウル特別市中区忠正路1街

瑞山徳之川農旗は長さ460㎝幅240㎝で、木綿布に青龍が描かれており、旗の両端に大型の龍の尾の旗が付け加えられている。龍は水を司る神物で、稲作の豊穣を祈願する意味で描かれものだ。 瑞山徳之川農旗の角に「天下大本大正五年丙辰陰六月新備」と書かれている墨書の句からして、制作時期は1916年と推定される。 瑞山市徳之川洞には青龍大旗と黄龍大旗という2つの龍大旗あったと伝えられている。現在、黄龍大旗は村に保管されており、青龍大旗は1995年に農業博物館に寄贈された。 瑞山徳之川農旗は2009年 3月5日にソウル特別市文化財資料(文化財資料)第43-3号に指定された。 これに関連する昔の正月の民俗遊戯の一つに、近隣の集落の龍大旗を奪うドゥレサウムがあった。徳之川洞でも徳之川とトルゲミ(現在の獐洞)の集落の人との間のドゥレサウムが1940年代まで続いていた。このような伝統は「瑞山龍大旗ノリ」として伝承されている。

日本統治時代/1916(推定)

文化/活字、磁器、機器類/その他

ソウル特別市中区忠正路1街

農旗は農村において集落単位で農作業をしたり、豊年を祈願する風楽を行ったりする際に使用した旗だ。農村の共同組織である集落の象徴として、集落単位で行われる村のすべての活動において必ず先頭に立てられた 康津龍沼農旗は長さ379㎝、幅394㎝の木綿布3枚を合わせ、正方形の旗幅を作り、赤い布で縁に三角形の装飾を3辺に施した形になっている。 康津龍沼農旗は農神である神農氏が龍に乗っている姿と様々な雲の紋様と鯉、亀などが民画で表現されている。龍は水を司る神物で、稲作の豊穣を祈願する意味で描かれている。また、 康津龍沼農旗を含むほとんどの農旗には、「農者天下之大本」という文句が書かれており、世の中の根本となる農業の重要性を強調している。 南外里の朴敬采が癸酉年に制作した農旗の墨書であることを考えると、康津龍沼農旗の制作年代は1933年と推定される。 1995年に農業博物館に寄贈され、2009年 3月5日にソウル特別市文化財資料(文化財資料)第43-2号に指定された。

日本統治時代/1933(推定)

文化/活字、磁器、機器類/その他

ソウル特別市中区忠正路1街

農旗は農村において集落単位で農作業をしたり、豊年を祈願する風楽を行ったりする際に使用した旗だ。農村の共同組織である集落の象徴として、集落単位で行われる村のすべての活動において必ず先頭に立てられた。 論山酒谷農旗は長さ463㎝、幅340㎝の白地の布に「神農遺業」と書いて、左右の端には黒の三角形の装飾祖があり、下には白い布で龍の尾が付いている。 「農者天下之大本」などと書かれている他の農旗とは異なり、農業の神である「神農氏」が墨書されている点が論山主穀農旗だけの特徴である。 また、丙午という明文からして、最初に制作された時期は1846年と推定される。その後、日本統治時代を経て何度か修繕および改造して使用されたものと考えられるが、このような痕跡は他の大部分の農旗にも存在する。1995年に論山酒谷里から農業博物館に寄贈されて現在に至っている。ソウル特別市文化財資料(文化財資料)第43-1号に指定された。

朝鮮/1846(推定)

文化/活字、磁器、機器類/その他

ソウル特別市中区忠正路1街

太平路2街地下排水路の開始点は南大門の近所と推定される。 太平路2街地下排水路を通った水はソウル広場を通って清溪川に向かう。長さは約184.7mだ。 太平路2街地下排水路の下部は平らなコンクリート床だ。上部は既存の排水路が円形や卵型だったのとは異なり、半円形のアーチと逆台形型の構造となっている。ここの地下排水路の最も大きな特徴は、赤レンガを使用しているという点だ。ここに使用されている赤レンガの大きさは概ね22×11×6㎝で、レンガ23枚を使用して上部を積んでいる。垂直よりも水平が長い平たい形態で、規模は幅0.7~0.98mと比較的狭い。 太平路2街地下排水路の造成時期は正確にはわかっていない。 レンガ製造工場の 煉瓦製造所ができた1907年から鉄筋コンクリート管が使用され始めた1918年の間と推定されるに過ぎない。現在の太平路2街地下排水路はソウルメトロ(Seoul metro)とソウル市および中区庁の協力で原型に近いものに補修された。 2015年 3月19日にソウル特別市の記念物第41号に指定された。

大韓帝国~日本統治時代/1907~1918(推定)

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区

南大門路地下排水路は、1910年前後に造られた配水管路である。朝鮮開国以来、数百年にわたる下水体系と水路を根幹として近代的技術を導入して再構築され、ソウル広場の地下排水路と同様に1910年前後に造られた。 南大門路の地下排水路は、乙支路入口交差路から韓国銀行前までの約554mにわたって続いている。上流区間の長さは11.6m、内径1.37mで、下流区間の長さは144m、内径1.46mである。 南大門路地下排水路はソウル広場の配水管路と共に赤レンガを積んだ円筒型構造という点で類似している。しかし、南大門路地下排水路は上部の半分は赤レンガを利用し、水と接する下半分は、半円形のコンクリート構造を採択しているのが特長だ。また、石積みの南側の南大門路配水管路とつながっている入口施設は、計18個の花崗岩の石材を精巧に加工して円形に積み上げている。 このような形態の南大門路地下排水路は現在も周辺の雨水と生活排水を処理する下水管路として活用されている。2014年 7月3日にソウル特別市記念物第39号に指定された。2014年11月から2015年4月まで一般市民と学生などを対象に開放され、新たな文化の見学場所として定着した。

日本統治時代/1910年前後

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区

ソウル広場地下排水路は、1910年前後に作られた下水管路である。朝鮮の開国以来、数百年にわたる下水体系と水路を根幹に近代的技術を導入して再構築し、南大門路地下排水路と同様に、1910年前後に造られた。 ソウル広場地下排水路は、ソウル広場の南西の角から始まり市庁の正面中央に流れ清渓川に合流する。幹線は、直径1.81m、1.92mで、2つの支線は1.46m、0.93mである。赤レンガを積み重ねてできた円筒形の水路で、長さは190.9mである。 下水管路は円形のレンガ積み、卵型のレンガ積みなど、下水量に応じて様々な形態と構造に構成されており、円形暗渠下部の半分の部分のレンガは、約2㎝ずつずらして積み上げ、モルタルで仕上げて下水が円滑に流れるようにした。支線と幹線が合流する地点は、水渠と同じレンガ式、あるいはコンクリート構造に部分変更してある。これにより、地下排水路が滑らかな流線型のカーブを成し下水の流れを円滑にした。また管の直径を拡大するためにくさび型のレンガを活用した高精度の施工がなされ、技術的にも非常に優れている。 このような形態のソウル広場地下排水路は、現在も周辺の雨水と生活排水を処理する下水管路として活用されている。2014年7月3日にソウル特別市記念物第38号に指定された。2014年11月から2015年4月まで一般市民と学生などを対象に開放され、新たな文化の見学場所として定着した。

日本統治時代/1910年前後

文化/築造物/その他

ソウル特別市中区

大韓天一銀行創立関連 文書および会計文書一括(以下大韓天一銀行資料という)は1899(光武 3)年に創立された大韓天一銀行の設立過程を示す請願書と認可書・定款をはじめ、仁川・釜山などの支店の設置関連文書などを含む創立および初期運営に関連する文書と会計関連文書である。 大韓天日銀行は1911年、朝鮮商業銀行と改称され、光復後には韓国の商業銀行「韓国産業銀行」およびハンピッ銀行時期を経て、現在のウリィ銀行と改称された。現在、ウリィ銀行で所蔵している大韓天一銀行関連資料は、多くの部分が失われているが、それ以 外の全体的な状態は非常に良好だ。これらの資料は、その性質に応じて、創立および初期運営関連文書と会計文書に分けられる。 大韓天一銀行とほぼ同じ時期に設立された朝鮮銀行と漢城銀行の文書は、対照的にほとんど残っていない。したがって、大韓天一銀行の創立関連文書類12件が韓国の近代銀行および株式会社の発達史の研究において持つ史料的価値は非常に高い。特に、会計関連資料は韓国で考案された特殊な複式簿記法の松都四介置簿方式で作成されており、会計史および旧韓末の社会経済史研究の重要な資料として評価される。2009年 1月2日にソウル特別市有形文化財第279号に指定された。

大韓帝国/1899

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/その他

ソウル特別市中区会賢洞1街

『紺紙銀泥梵網経菩薩戒および菩薩戒儀』は『梵網菩薩戒経』を筆写した文献である。『梵網菩薩戒経』とは大乗仏教の戒律に関連する書籍である。経文の最初の題目は、紺紙銀泥梵網経盧舍那仏說菩薩心地戒品第十卷下で、経文の最後の仏経の名は受菩薩戒法である。 この経典は『梵網経』120巻61品の中で菩薩心地品の1品のみ後秦の 鳩摩羅什が漢文に翻訳したものだ。菩薩心地品 は本来、上下2巻から構成されているが、その下巻を菩薩戒経または菩薩戒本という。 表紙は4つの金泥で描かれた蓮華と銀泥の唐草模様を背景に、中央に「梵網菩薩戒経法合部」という題簽樣式の本の名が長方形の枠の中に金泥で書かれている。経の構成は、仏教に関する様々な内容を視覚的に形象化した絵の変相図に続き、梵網菩薩戒序・梵網経盧舍那仏說菩薩戒心地戒品・受菩薩戒儀などから構成されている。変相図は「梵網菩薩戒変相」という題名に続て4面にわたっている。 内容は、菩薩が肝に銘じるべき10の恐ろしい罪、即ち「殺害すべからず」・「盗むべからず」・「淫乱すべからず」・「妄語すべからず」などの十重大戒と、「師と友を敬え」・「酒をの飲むべからず」など48の軽い罪に該当する戒律について説明する部分だ。受菩薩戒儀は『梵網経』巻下の 偈頌以下を注釈した内容となっている。2008年 7月10日にソウル特別市有形文化財第268号に指定された。

高麗/未詳

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/写経(仏経を写し書きした本)

ソウル特別市中区奨忠洞2街

法住寺水晶庵石仏坐像は忠清北道法住寺の後方の水晶庵址に放置されていた。発見当時は仏像自体も破れた部分が多く、光背の一部と台座の半分以上がなくなった状態であった。現在は、仏像と台座がほぼ完全な形に復元され、9世紀統一新羅時代の石仏の様式をよく表わしている。 仏身は比較的に上体が大きいが、膝の幅が広く、肩幅が広くて安定感がある。顔は丸く顎部分の量感が豊かなのが特徴である。頭は大きな螺髮で、低い肉髻がある。眉毛は弓状で、目は半分開いており白豪が見えている。鼻は大きいが、補修した状態なので本来の形ではない。口は小さく、首は離れていたものを付けた。服は両肩を包み込む通肩式大衣をまとい、中には内衣を着ている。衣のしわは、両腕から胴体に向かって斜線を描いて流れ、両方の橋の間で広いU字型を成している。腕と膝の上、仏像の裏側の衣のしわのどれも波打つように一定の間隔で表現されている。手印は降魔觸地印を結んでいる。 全体的に体に比べて顔が大きく量感が減っていく点、形式化された細部の表現、波打つような衣のしわなど9世紀頃の新羅仏像の特徴をよく示している。多くの部分が後に補修されたものなので原形を多少失ってはいるが、仏身と台座、光背がすべてあり、統一新羅時代の仏像の特徴を理解することができる重要な資料とされている。2008年7月10日にソウル特別市有形文化財第265号に指定された。

統一新羅/9世紀(推定)

文化/築造物/仏像

ソウル特別市中区奨忠洞2街

喜慶楼榜会図は、1567(明宗22)年に催された喜慶楼での榜会の場面を描いた契会図である。この絵は、1546(明宗1)年に増広試の同期生が光州近郊の楼亭「喜慶楼」で20年ぶりの再会を記念して制作したものと推定される。 画面は、上から標題、契会の場面、座目、そして跋文の順で構成されている。それぞれの構成部分は、赤い色の線で境界が区分されている。標題は篆書体で右から左に書かれ、座目には参加した人々の品階と官職・氏名・あざな・本貫などが書かれている。画面の左側には、喜慶楼と榜会図の画面が描かれており、右側には喜慶楼の塀ををはじめとする周囲の景観が描写されている。 また、宴会の場面を高い角度から見下ろす視点と遠近法を用いて表現しており、16世紀中・後半に流行した浙派画風がよく現れている。また、座目、跋文などがあり、16世紀の榜会を扱った作品はまれだという点で、その史料的価値が高い。 ただし、下の柱が後ろに行くほど小さくなるように描写する方法は、朝鮮後期になってはじめて現われるのが特徴である。したがって、この絵は、榜会があった1567年ではなく、それよりも後の17世紀以降に制作されたものと推測される。2008年7月10日にソウル特別市有形文化財第267号に指定された。

朝鮮/1546(推定)

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/肖像画、山水画、風俗画など

ソウル特別市中区奨忠洞2街

『奉寿堂進饌図』は8幅から構成された『 華城行幸図屛』の中の1幅だ。 『華城行幸図屛』とは、正祖が華城にある父の思悼世子の墓に8日間行幸した際の主要行事を描いた8幅の屏風だ。 『奉寿堂進饌図』は正祖の華城行幸の間における最も重要な行事だった恵慶宮洪氏の還暦を記念して催された宮中の宴の場面を描いたものだ。宴は華城行宮に到着して4日目の閏2月13日に奉寿堂で行われ、王室および恵慶宮洪氏の親戚姻戚82人が招待された。絵は、画面の上部に奉寿堂を描き、門を通って下部の左翼門を結ぶ行閣と塀で区分されている。その中には宴の光景が描かれている。 この『奉寿堂進饌図』は1970年代に一人の在日同胞によって東国大博物館に単幅で寄贈された。絵の粧䌙は、リウム博物館に所蔵され華城行幸図屏の中の一つである『還御行列図』と錦の紋様や表具の方式が同一で、大きさも類似している。筆法においては2点の間で若干の差があるが、これは記録画1点を描くのに普通3~4人の画員が動員されることから、この2点は同じ8幅屏風だったものが分かれた可能性が少なくない。画面構成や遠近法の使い方などにおいて、18世紀末から19世紀初めの宮中記録画様式がよく現れている。『奉寿堂進饌図』は2015年 9月2日に宝物第1430-2号として指定された。

朝鮮/1795

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/肖像画、山水画、風俗画など

ソウル特別市中区奨忠洞2街

安重根(アン・ジュングン)義士は1909年10月26日、満州のハルビン駅で伊藤博文を射殺した後に旅順監獄に収監された。安重根は収監されてから1910年3月26日に死刑になるまで獄中で約200点の筆字を残した。そのうち26点が宝物として指定されており、〈一日不読書口中生荊棘〉もまた宝物として指定された。 遺墨の内容の〈一日不読書口中生荊棘〉は広く知られている安重根義士の名言で、「一日でも本を読まないことがあると、口の中にとげが生える」という意味だ。1910年3月に書かれたもので、字の左側に「庚戌三月, 於旅順獄中, 大韓國人安重根書」と書き掌で掌印を押している。その後いくらも経たずに安重根義士の死刑が執行された。1972年8月16日に宝物第569-2号として指定された。

日本統治時代/1910

文化/絵画、書芸、書籍(博物館所蔵品を除く)/書道

ソウル特別市中区奨忠洞2街

奨忠壇キルは1900年(光武4)大韓帝国時期に国のために命を捧げた忠臣と烈士を追慕するために建てた祭壇である奨忠壇からその名前が由来した。 1955年ソウル特別市行政洞制の実施とともに奨忠第1・2洞の名称が決まり、奨忠洞から城東区金湖洞に越える奨忠峠が拡張された。しかし、道が険しくて人道だけが活用された。その後、数回の小規模な拡張工事を経た。1966年ソウル特別市告示第1093号によって奨忠路に街路名が制定された。この時の奨忠路は中区乙支路7街1番地(ソウル運動場)から奨忠洞タワーホテルを経て漢南洞山9番地(薬水洞峠)に至る区間で幅20~40m、長さ3,000mの4車線道路であった。 以後、1984年ソウル特別市公告第673号によって従来の奨忠路が細分化された。奨忠路は光熙洞五叉路を中心に一般国道第46号線の興仁門路と特別市道の奨忠壇キルに区間が分けられ、それぞれ街路名が変更された。この時、奨忠体育館から薬水洞ロータリーまでは東湖路に編入され、奨忠壇キルの終点は変更された。その結果、中区光熙洞319番地(光熙洞五叉路)からタワーホテルを経て龍山区漢南洞山9-2番地(薬水洞峠ロータリー)に至る今の奨忠壇キルが確定した。

現代/1966(街路名制定)

場所及び施設/観光及び休養、修練地域/文化の通り

ソウル特別市中区

貞洞は、現在は貞陵洞にある朝鮮時代太祖の継妃、神徳王后康氏の陵である 貞陵があった場所で、その名の由来となっている。 徳寿門をはじめとする朝鮮末期以降に建てられた歴史・文化施設が密集しており、1883年にアメリカ公使館の開設を筆頭に、西洋各国の公使館が建てられた。宣教師によって建てられた学校である培材学堂や梨花学堂、韓末の政治家と欧米の外交官の社交場として利用されたソンタグホテル、ロシア帝国の公館などがここにあった。大漢門から京郷新聞社に続く「徳寿門通り」には最高裁判所・貞洞メソジスト教会・柳寛順記念館・文化体育館などがあり、徳寿門の石垣に沿って歩くと、イギリス大使館・大韓聖公会ソウル教区聖堂・マダンセシル劇場などがある。 ソウル市中区は、毎年春、秋に貞洞夜行を開催し、貞洞一帯の歴史・文化施設を一時的に開放し、さまざまな公演や見どころを提供する。普段は一般市民には開放されていない西洋式の昔の建物や、博物館・聖堂・宮などを祭りの期間に観覧することができる。. 歴史の息遣いが残っている現場を直に感じることのできる貞洞夜行は、世界祝祭協議会(IFEA WORLD)が全世界の競争力のある祭りの中から優れた祭りを選抜するピナクル・アワード(Pinnacle Awards)で銀賞を受賞するなど、世界的にも脚光を浴びている。

現代/2015

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区貞洞

南山トンカツ通りが形成されたのは1977年、南山ケーブルカー入口側に「元祖南山トンカツ」がオープンしてからだ。メニューは、豚肉ロースを叩いて平たく伸ばし、デミグラスソースをたっぷりかけて食べる韓国式トンカツだった。タクシー運転手のための簡単な食事で、大きな皿にトンカツとソース、ご飯、キャベツ、たくあん、ゆでトウモロコシが一緒に乗って出てきた。そして、テンジャンクク(味噌汁)とカクトゥギ、辛い青唐辛子が別に出てくる新しい構成のトンカツだった。 このメニューは、タクシー運転手の口に合い、手頃な価格で人気を集めて噂になると、一般人も良く訪れるようになった。簡単なスープと大型トンカツがセットで出てくる南山のトンカツメニューは各種マスコミに頻繁に登場し名物となった。これに安くておいしい食べ物を探す人々が押し寄せると、周りに似たような構成のメニューを出す飲食店が増え、トンカツ通りを形成するようになった。レストランごとにトンカツのメニュー構成に少しずつ違いがあり、比較して食べる楽しみもある。 南山トンカツ通りの周辺には、南山噴水と室内植物園、南山階段、南山循環道路、南山ケーブルカーなど、食べ物のほかにも観光スポットが盛りだくさんだ。このため、南山トンカツ通りは、名物グルメと共に様々な観光が楽しめるスポットとなった。

現代/1977年以後

場所及び施設/宿泊、食事/土俗飲食店(地域特産飲食店)

ソウル特別市中区小波路

仁峴市場は、ソウル特別市中区仁峴洞2街に形成された伝統市場だ。仁峴市場は、1950年代末から60年代初めまで自然発生的に形成された市場で、50年以上の歴史がある。朝鮮時代、宣祖の第7子仁城君が住んでいた場所としても知られている。 映画の通りと印刷路地で有名な忠武路の裏路地にある仁峴市場は、現代的な都心の高層ビルの間にあり、現代と過去が共存する伝統市場だ。忠武路印刷路地は、仁峴洞と乙支路、筆洞などの3圏域にわたる印刷路地をすべて網羅する名前だ。その印刷路地の間にこじんまりと位置した路地市場が仁峴市場だ。幅2m、長さ202mの路地に110店舗が密集した仁峴市場は、明洞、南山コル韓屋村などの観光名所に隣接しており、一日の流動人口が20,000人にのぼるが、立ち遅れた環境と商人の老化で低迷を経験したこともあった。 仁峴市場は、1960年代後半に世運商店街が入って現在の姿に縮小されたが、隠れたグルメが多く、物価が安くて近くの印刷労働者や零細商人には身近な場所となった。それだけでなく、ここは日常の疲れを癒すために、都心の会社員が仕事の後によく立ち寄る場所としても有名で、「味の楽園」とも呼ばれる。最近では、在来市場の活性化と共に、手頃な価格のグルメを求める市民で、再度活気を取り戻している。

現代/1950年代後半

場所及び施設/ショッピング/市場(在来、薬令市場など)

ソウル特別市中区仁峴洞

李会栄胸像は、李会栄(1867~1932)の独立運動への情熱と犠牲を称えるために友堂記念館が明洞YWCAに寄付した李会栄6兄弟生家(YWCAの建物正門の向かい)に高さ220cm、幅100cmの青銅材質で製作・設置された。2014年2月14日には、李会栄胸像除幕式が行われた。 李会栄は、大韓帝国期と日帝強占期に活動した独立運動家で、本館は慶州、号は友堂で、朝鮮後期判書を務めた李裕承の四男で、1867年3月17日に生まれた。 李会栄は、1905年乙巳勒約が締結されると、アメリカ​​から帰国した安昌浩をはじめ、梁起鐸・李東寧・申采浩などと共に秘密結社新民会を組織し、中央委員として活躍した。続いて満州に独立運動の根拠地を設けることを協議し、間島の龍井村に瑞甸書塾を設立し、李相卨を責任者に置いて同胞の教育に力を入れるようにした。1910年、日帝によって国権を奪われると、李会栄は兄弟一家と共に全財産を整理して抗日運動に献納し、満州に渡って荒地を開墾し、独立運動基地の建設に邁進した。 以降、李会栄の独立闘争は、国内外で独立運動を展開した3・1運動前までの活動と、無政府主義思想を受け入れ、その理念と路線に従って日帝へのテロなどの武装運動を展開した中国での活動に分けられる。1911年、満州で橋民自治機関で独立運動団体の耕学社を組織し、1912年独立軍指導者の養成を目的に新興武官学校を設立した。新興武官学校出身者は、後に青山里戦闘の主役となる。そして1919年、大韓民国臨時政府が上海に樹立されたが、意見の相違で紛乱が絶えなかったため、上海より北京に滞在して独立活動を続けた。1931年韓・中・日のアナーキストと手を結び、独立運動団体の抗日救国連盟を結成して議長に就任し、黒色恐怖団を組織して活動した。 1931年、李会栄は中国国民党と交渉して資金と武器の支援を確約されたが、大連港で日本の警察に逮捕されて拷問を受け、1932年に殉国した。李会栄の墓は、現在国立ソウル顕忠院に埋葬されている。1962年、大韓民国政府は李会栄に建国勲章独立章を追叙し、2000年に中国政府は抗日革命烈士証書を授与した。

現代/2014

文化/築造物/銅像

ソウル特別市中区明洞路

貞洞展望台は、徳寿宮の美しい風景と、様々な様式の建築物が建ち並ぶ貞洞キルを一望できる展望スペースで、徳寿宮横のソウル市庁別館西小門庁舎13階に位置している。貞洞展望台は2013年4月、ソウル市庁が庁舎内に市民と共有できる空間を調査中、西小門庁舎13階の大会議室の一部と備品倉庫として使われていた空間を展望台に活用することを決定するにともない開放された。貞洞展望台は94.88㎡規模で、徳寿宮と貞洞、遠くは景福宮と北漢山まで一望できる展望スペースで、年中無休で運営されており、開放時間は午前9時から午後6時までだ。料金は無料だ。 貞洞展望台から見えるのは、ソウル市庁庁舎・ソウル広場・徳寿宮・貞洞劇場・貞洞教会・旧ロシア公使館・大韓聖公会聖堂・ソウル市議会の建物などだ。貞洞展望台にはカフェもあり、隅々にテーブルが置かれていて、カフェを利用しなくてもテーブルが利用できる。展望台の片隅には、韓国のブランド関連のお土産を展示販売している。また、壁面には貞洞キルの近代式建物を紹介する案内図が貼られている。ソウル市新庁舎から貞洞キル交差点の貞洞教会までの姿と、主な空間の説明を添えたパノラマ写真も展示されている。カフェの壁面には、ソウルの昔の姿を写した写真があり、貞洞の昔の姿を見ることができる。 ここは、ソウルの伝統と現代の姿が一目で見られ、多くの国内外の観光客がよく訪れる場所となった。

現代/2013

場所及び施設/展示、観覧施設/その他

ソウル特別市中区德壽宮キル

貞洞劇場は、韓国の近代式劇場円覚社を復元した複合公演会場で、ソウル特別市中区貞洞キル43に位置している。円覚社は、韓国公演芸術において近代的な芸術精神が始まる場所で、唱劇とパンソリ、新演劇などを上演し、開花期公演舞台の産室として定着した。円覚社の舞台には当代最高の名唱が上がり、最初の新演劇<銀世界>が上演された場所だ。貞洞劇場の設立が円覚社の芸術精神の実現となるのはこのためだ。オープン当時は国立中央劇場の分館だったが、1997年に財団法人として独立法人体制を整えた。 貞洞劇場は、伝統芸術、音楽、舞踊、演劇などあらゆるジャンルの舞台芸術が行えるように企画された。貞洞劇場で企画される公演には、定期公演と注文公演がある。定期公演は「貞洞劇場常設国楽公演」という名前の舞台で、韓国の宮廷音楽と伝統公演を舞踊・風物・器楽演奏・歌などの4つの分野に分類して鑑賞できるようにしたものだ。これに比べて注文公演は、定期公演とは異なり自由なプログラム構成で、申請者が希望する時間と場所でリクエストどおりにプログラムを製作して上演できるようにしたものだ。また、貞洞劇場は伝統芸術の大家を招聘した「名人展」をはじめ、注目の若手芸術家のための「アートフロンティア」を企画して上演することによって、芸術マニア層の注目を集めた。 それだけでなく、貞洞劇場は貞洞キルを訪れる会社員のための「正午の芸術舞台」を通じて、一般の観客が気軽に楽しめる舞台を設けてきた。特に、伝統ミュージカル<美笑>は、延べ65万人が観覧するなど大反響を呼んだ。<美笑>はサムルノリ、仮面劇、韓国舞踊、五鼓舞演奏、国楽など韓国の伝統公演芸術のすべての要素を網羅した公演で、外国人にも人気が高い。これにより、貞洞劇場は2010年から公演タイトルからとって「美笑」専用館とも呼ばれてる。貞洞劇場は、米国大使館官邸と貞洞教会の間にある敷地1,496㎡、地上2階、地下3階の鉄骨建物を使用している。大韓帝国期の地図を見ると、ここがパブリックパーク(Public Park)と記録されており、当時はテニスコートとして使用された。 貞洞劇場の客席数は計344席で、貞洞の様々な文化空間と都心の中の新しい文化観光名所になった。

現代/1995

場所及び施設/展示、観覧施設/公演場、小劇場

ソウル特別市中区貞洞キル

美笑専用館

鍛冶屋通りは、朝鮮時代に鍛冶屋が密集していてプルムジェと呼ばれた場所で、現在のソウル特別市中区茶山路39キル一帯を指す。光熙門から新堂駅方向に行くと出てくる漢陽工業高校三叉路の左右にある。 現在の退渓路の光熙門側下り坂からピョクサンビル付近は、19世紀末までは100以上の鍛冶屋が集まって赤く熱くした鉄を打つ音でうるさく、プルムジェ[冶峴]と呼ばれた場所だ。現在の「東大門デザインプラザ」の場所は、旧訓練都監所属の軍領地だったが、後に新式軍隊の別技軍が訓練場として使用した。当時、兵士が使用する武器を鍛冶屋が作り、鍛冶屋通りが形成されたのはこのためだった。1907年、丁未7条約によって大韓帝国の軍隊が強制的に解散させられると、ここの武器製作も減少した。 以降、鍛冶屋の減少武器需要を代替したのは、農機具や押し切りのような神物の製作だった。農機具は農民が農作業に必要で、押し切りなどはいわゆる屍口門の光熙門一帯に集まっていた新堂、つまりシャーマンが必要とした神物だったわけだ。 1960年代には、韓国戦争で廃墟になったソウルを復興するために、また1970年代にはセマウル運動が活発に展開され、建物の解体に使用するハンマーなどの建築設備の生産で、160以上に及ぶ鍛冶屋が盛んになった。そして、重工業の発達とともに鍛冶屋は衰えていき、今では5ヶ所程度が農機具などを作りながら鍛冶屋通りの命脈を維持している。

朝鮮/1593年以後

場所及び施設/観光及び休養、修練地域/文化の通り

ソウル特別市中区茶山路

プルムジェ

ニュー錦湖タワーは、ソウル特別市中区乙支路44キルの10階建ての建物で、モンゴルタワーとも呼ばれる。 ソウルには、それぞれの国から来た移民が彼らの生活必需品や食材を手に入れるために自ら作った市場が多くある。東大門の中央アジア村もそのひとつで、ロシアや中央アジアから来た行商人が集まって形成された移住民タウンだ。ロシアの言語と文化に精通しているモンゴル人は、光熙洞でモンゴルレストラン、美容院や配送業者などを運営してモンゴル人が韓国で生活するために必要な設備とサービスを提供し、モンゴルタウンを形成した。 ところが、大多数の移住民タウンが市街地の道路を中心に水平方向に拡張するのとは対照的に、モンゴルタウンは韓国人所有者の1つの建物に垂直に少数民族居住地を形成した点がユニークだ。オフィステル用に建設された10階建てのニュー錦湖タウンビルは、モンゴル人が運営する貿易商、旅行代理店、両替所、レストラン、美容室、通信会社などが入居し、モンゴル人に実在的にも象徴的にもモンゴルタウンの中心の役割をしている。そのため、モンゴルタワーは「ソウルに浮かぶモンゴル島」とも呼ばれるほど、建物の入口からモンゴル語の看板がいっぱいだ。そのため、主に韓国に滞在している5万人のモンゴル人とモンゴル人留学生が利用するモンゴルタワーは、モンゴル人の間ではモンゴルタウンと呼ばれている。 モンゴルタワーは、モンゴル人のコミュニティ空間だが、最近ではエキゾチックな文化や食べ物などを体験しに韓国人も訪れている。

現代/2001

場所及び施設/その他の付帯施設/その他

ソウル特別市中区乙支路

モンゴルタワー

屍口門市場は、光熙門の前にあった伝統市場で、いつから市場が形成されたか正確には分からない。しかし、光熙門に倭寇が頻繁に侵略したため、兵士たちの駐屯によって兵士村ができていたため、市場も自然に形成されたのではないかと推測するだけだ。光熙門は、都城漢陽の南東側にある城門で、城内の死体を城の外に運び出す出口だった。この門に数多くの喪輿が通過し、都城の中で死んだ遺体は光熙門外の共同墓地に埋葬された。光熙門前の市場が屍口門市場になったのは、このようないきさつのためだった。 都城では、人々の往来が頻繁な城門付近に空き地を設け、城門の両側に市場が形成されるのが一般的だった。ところが、記録によると都城の中に伝染病が流行して多くの死者が出た時、人々は死体を光熙門の外に運び出して捨てたという。その後、捨てられた死体の服を脱がせて市場で売買したりした。また、光熙門の外には数千基の共同墓地があり、火葬場が設置されて多くの人が行き来する場所だった。そのため、屍口門市場では、食糧や生活必需品のほか、供物用品を売る店や餅屋があったと伝えられる。現在も、屍口門餅屋という看板の餅屋が見られる。歳月が流れて1966年、屍口門市場と漢陽工業高校区間内の建物を撤去して道路を建設したため、市場の名残りは消えてしまった。

朝鮮/不詳

文化/遺跡地、史跡地/寺址、殿址、遺址、原址

ソウル特別市中区光熙洞

光熙門市場

光熙門聖地殉教顕揚館は、朝鮮時代のカトリック迫害当時、捕盜庁や義禁府監獄で絞首刑または獄死した信者の遺体が捨てられた場所を記念するための場所だ。光熙門は、都城の中の死体を城の外に出した場所で、遺体が出て行く門という意味で屍口門とも呼ばれた。そのため、光熙門から多くのカトリック殉教者の遺体が運び出されて埋められたため、カトリックの歴史的殉教地となった。 韓国のカトリックは、導入から100余年にわたり10回以上の大小の迫害が絶えなかった。中でも1839年(憲宗5)の己亥迫害の時の崔京煥、1846年(憲宗12)の丙午迫害の時に捕盜庁で絞首刑になった禹述任、金任伊、李干蘭、鄭鉄艶などと、1867年(高宗4)に捕盜庁で殉教した福者宋ベネディクト、福者宋ペテロ、福女李アンナの遺体が光熙門外城壁の下に埋葬された。また1866年(高宗3)、1868年(高宗5)などの迫害時にも都城の中で殉教した多くのカトリック信者の遺体もここに捨てられた。家族が遺体を引き取りに来なかった殉教者は、この近くに埋められたという。 現在、光熙門聖地の複数の殉教者聖人や無名殉教者を記念するための記念碑と「光熙門聖地殉教顕揚館」の建設を準備中だ。現在光熙門向かいの2階建ての建物に臨時の顕揚館が設けられており、木曜日から日曜日まで午後3時に殉教者の行跡を振り返るミサを行っている。

現代/2014年以後

文化/遺跡地、史跡地/宗教遺跡地

ソウル特別市中区退溪路

イギリスに近衛兵の交代式があるならば、韓国には「王宮守門将交代儀式」がある。イギリスで近衛兵が城の警備を担っていたように、韓国では禁軍と守門将が王宮の警備を担った。朝鮮時代には都城門開閉儀式・宮城侍衛儀式・行巡儀式などがあったが、現在の王宮守門将交代儀式はこの三つ儀式を一つにまとめて再現する。 「王宮守門将交代儀式」は、宮城門を警備する部隊と宮城の外郭を警備する部隊の間の交代で、外郭を警備する部隊が着くと、交代式が行われ、交代式の信号は、号令、旗、楽器を複合的に用い、大きく三つに分けられる段階は太鼓で合図する。 交代軍が到着し、守門軍の参下と交代軍の参下が暗号による身分確認の手順を経ることを軍号応対という。 最初の太鼓の信号である初厳は、太鼓を6回鳴らして知らせる。初厳が鳴ると守門軍の参下が交代軍の参下に鍵の入った箱を引き渡す。この時、 承政院の主書と掖庭署の司鑰は鍵の入った箱の引き渡しを監督する。 二番目の太鼓の信号は中厳で、太鼓を3回鳴らし、守門軍の守門将と交代軍の守門将が交代命令の真偽を確認する手順を経た後に巡将牌を引き渡す。 三回目の太鼓の信号は三厳で、太鼓が2度鳴ると守門軍と交代軍が向かい合った状態で整列し、軍礼を行って互いに任務交代する。 交代した部隊は、宮廷の外郭警備の任務を行う行列を実施する。 観覧客は「古都ソウルの定例歴史再現行事」のホームページ (www.royalguard.or.kr)で体験の予約をすることができ、行事の時間に伝統の服を着て太鼓をたたき、交代儀式の開始を知らせることができる。「王宮守門将 交代儀式」が終わると、守門将の服装をした出演者と記念撮影もできる。

現代/1996

文化/行事/その他

ソウル特別市中区貞洞

「南大門観光特区子供服大祭」は、南大門観光特区を訪問するショッピング客はもちろん、外国観光客にさまざまな見どころと食べ物などを提供し、最高のサービスで顧客を迎える商店街のイメージを示すためのイベントだ。 80年代は、制服の自律化が発表され、国内の衣料市場が活気を帯び始めた時期だ。韓国最大の衣料のメッカだった南大門は、最高の好況期を迎えたが、その中心にはブルデン子供服があった。ブルデン子供服と共に、クレヨン、ポーキー、ママー、ワン子供服など、南大門の子供服は韓国の子供服市場の歴史をうち立てた。 このように好況を博した南大門子供服は、90年代の後半から南大門一帯に大型ディスカウントストアやショッピングモールなどができたことで、不況に陥った。そこで南大門市場子供服連合会の商人やソウル市、中区庁の後援により2008年から「南大門観光特区子供服大祭」が開催されるようになった。この祭りは、毎年5月5日のこどもの日に開催される。 イベント期間中、さまざまな子供服を30~50%の割引価格で購入することができ、ナンタ公演やキャラクターバンドショー、カクテルショー、テコンドー師範団のさまざまな公演がくりひろげられる。また、こどもの日のの主人公である子供達が参加できる子供ダンスコンテストやLIMBOゲーム、フラフープゲームなどが開催される。

現代/2008

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区南倉洞

「市民と共にDDP東大門まつり」は、ソウル特別市の都心産業同伴成長のための東大門創造クラスターの育成とDDPの創造経済の活性化のためのまつりとして、2014年10月25日、東大門デザインプラザ(DDP)一帯で初めて開催された。このまつりは、市民、観光客や東大門地域の商人が一緒に参加して交流する地域共生のまつりで、参加対象や年齢の制限がなく、国内外の観光客が一つになって楽しむことができる開かれたまつりの場として脚光を浴びている。 2015年10月9日と10日の両日にわたって開催された「第2回市民と共にDDP東大門まつり」では、テヨン、GOT7、レッドベルベット、防弾少年団、シスター、CNBLUEなどの韓流スターが大挙参加したKBS生放送ミュージックバンクが前夜祭として催され、世界116カ国に生中継された。また、アメリカズ・ゴット・タレントに出演して実力を証明したポッピンダンスグループ「アニメクルー」の公演や、大韓民国空軍軍楽隊・ギャンブラークルー・ブラジルサンバカーニバル「ラ・パーカッション」などのパレードの公演も大きな反響を呼んだ。東大門の若さと遊びの文化を象徴するヒップホップミュージシャンの舞台、また、LEDレーザーパフォーマンスとDJで構成されたミュージックフェスタは、東大門の美しい秋の夜を楽しみ、文化を通して一つになる機会を提供する催しの場となった。また、東大門を代表するショッピングモールと卸売商店街が参加するファッションのオープンマーケットや、大韓民国空軍体験・アレッサンドロ・メンディーニ(Alessandro Mendini)のデザイン体験・シルクスクリーンなどの市民体験プログラム、社会的企業の参加が際立つ様々な付帯イベントが準備された。 「市民と共にDDP東大門まつり」が行われる東大門デザインプラザ(DDP)は、2014年に旧東大門運動場の敷地に建設された複合文化空間である。東大門の商業文化活動を推進し、デザイン産業を支援する複合文化空間の必要性に応じて建設され、イラク出身の世界的な建築家ザハ・ハディド(Zaha Hadid)の設計で2014年に開館した。地下鉄2号線東大門歴史文化公園駅1番出口から近い。

現代/2014

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市乙支路7街

2006年にノンバーバルパフォーマンス(Non-verbal Performance)という名称で始まった「公演観光フェスティバル」は、コインモ(KOINMO, Korea in Motion)という愛称で有名だ。2009年の公演文化フェルティバル(Korea Sparkling Festival)から2010年 「公演観光フェスティバル」へと名称が変更され、現在に至っている。 毎年8月から10月の間の約30日間、ソウル特別市中区一帯の該当の公演場で、言語のバリアを越えた華麗な体の動きとリズムで観客を熱狂させるノンバーバル公演やさまざまなテーマの演劇、ミュージカル、家族劇、国楽、クラシック、コンサートなどを経済的に観覧することができるチケットプロモーション(Ticket promotion)を提供する。 2015年には第10回を迎え、慶州ガラショーを開催し、慶州市民や観光客も楽しめるように領域を拡大した。フェスティバルの期間中に100回以上開かれる野外パフォーマンス(outdoor performance)を通じて多くの観覧客と観光客が歓喜と感動、笑いが調和するファンタスティックな舞台が楽しめる。 言語のバリアを越えてコミュニケーションできる音楽と身振りにより外国語を使う観光客から脚光を浴びている「公演観光フェスティバル」は、韓国を越え、世界に向かって飛躍する祭りとして定着しつつある。

現代/2006

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区

「広通橋の橋踏み行事」は2005年清渓川 と広通橋が復元され、市民のもとに戻ってきたことを祝うため、高麗時代から伝えられてきた正月満月の橋踏みを再現した無病長寿を祈願する祭りである。橋踏みは、正月満月に橋を踏めば1年間脚の病気にかからず、12の橋を踏めば12ヶ月の悪い気運を退けることができるといわれ、自分の年齢にあたる数で橋を往復した風習だ。 2008年から毎年正月に開催されている「広通橋の橋踏み行事」では、ソウル市民や国内外の観光客が円い満月を見ながら橋踏みを再現でき、チェギ蹴り、板跳び、ユンノリ、投壷ノリ、こま回しなど、韓国の民俗ノリも直接体験することができる。また、正月満月の月を見ながら願いごとをする風習に基づいた祈願文飛ばしや、厄払いのために家訓とお札を書いてくれる行事も行われる。 2015年には昔の方式どおりに御街行列、舞童ノリ、山台ノリを兼ねた階層別の橋踏みとキルノリぺ(農楽遊び)公演を再現して、市民伝統仮装行列、ティムティギ(跳び)、カンガンスウォルレ団、風物団などの順番で、8字の形態(広通橋~広橋~広通橋~毛廛橋~広通橋)を描きながら行進した。 「広通橋の橋踏み行事」は広通橋の橋踏み推進委員会とソウル特別市中区庁が主催しており、先祖達の民俗ノリを学ぶと同時に、思い出つくりができる行事として市民達に愛されている。

現代/2008

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区

明洞、南大門、北倉洞一帯は、外国人だけでなく国内の観光客もたくさん訪れる、大韓民国の代表的な商業、文化中心地である。ショッピングと文化、芸術とファッションの一番地として、大型ショッピングモールと商店街が密集している。韓国に訪れた観光客ならば必ず寄っていくランドマーク(land mark)で、外国人訪問率が最も高い地域でもある。 2000年、明洞、南大門、北倉洞地域が観光特区に指定され、その後「明洞・南大門・北倉観光特区祭り」はこの地域を含めた全ての場所で、毎年様々な形で市民と外国人観光客を迎えている。 1985年にはじめて開催された明洞祭りは、観光特区として指定される前から開かれていた祭りである。明洞祭りは春と秋の2度にわたり開かれ、華やかな開幕行進をはじめ、ミス明洞選抜大会、民俗ノリ、伝統婚礼式、国楽公演、ファッションショー、メイクアップショーなど、観覧客も参加できる多彩な行事が開催された。祭り期間中には様々な割引行事も行われ、低価格で品物を購入することができる。 南大門市場地域は、韓国最古最大の伝統市場観光とショッピング地域として国内外的に広く知られている場所で、明洞地域はソウルの最大中心地域として、伝統的に一番の中心街という固有のイメージを備えており、事業上の理由だけでも外国人がたくさん訪れる地域である。明洞地域は中心通りの周辺に形成されているショップを中心に、最先端ハイファッション、高級ショッピング、文化空間地域として成り立っている。1日の流動人口は平日150万人、週末200万人で、衣類、製靴などのアパレルショップをはじめ、様々なグルメ店や銀行、証券会社が所在しており、経済機能の密集地域でもある。北倉洞地域は、ロッテホテルを中心に高級宿泊施設と各種飲食店、サービスや娯楽施設などを提供する業者が所在している場所だ。 2012年、ソウルの明洞、南大門、北倉洞地域の観光特区は武橋、茶洞、清渓川の一部まで拡大された。全国の観光特区の中で面積が拡大されたのは明洞観光特区が初めてである。これにより、武橋洞、茶洞、乙支路1街、三角洞、水下洞、長橋洞の一部など23万9,295.2㎡に達する地域が明洞観光特区に新しく含まれ、全体面積は以前の63万3,514㎡から87万2,809.2㎡に拡大された。

現代/2000

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区明洞·南大門北倉洞

「茶洞・武橋洞食事文化秋大祭り」は去る1997年から毎年秋の食事文化特化通りとして有名な茶洞と武橋洞一帯で開催される行事である。様々な飲食店と出店、見どころとグルメ通りが立ち並ぶ茶洞と武橋洞は、たくさんの国内外観光客が絶えず訪れる地域で、去る2012年観光特区に指定された。 茶洞と武橋洞は韓国のサラリーマンもよく訪れる、多彩なグルメ通りとして有名だが、1960年代を代表する武橋洞のテナガダコ店の思い出と、茶洞の豚のバックリブの味と郷愁に浸ることのできる地域である。 祭り期間には該当地域の商人会と公機関が独居老人や敬老堂に米を寄贈して、模範青少年に奨学金を与えるナヌム行事と、人気歌手の祝賀公演や住民も観客も参加することができるのど自慢大会が開かれる。また、地域商人達が直接農産物直売市場を開き、良い品質の韓国の農産物を低価格で購入することができる行事も設けられている。

現代/1997

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区茶洞,武橋洞

「会賢洞イチョウの木祭り」は2012年以降、毎年10月に開催される会賢洞だけの文化祭りである。ソウル特別市中区小公路51ウリ銀行本店前には、指定保護樹で樹齢518歳(2015年基準)に至るイチョウの木がある。これは朝鮮時代の中宗(在位1506~1544)時期に領議政を担った東萊鄭氏の文翼公・鄭光弼(1462~1538)の家跡で、当時から現在まであらゆる風霜を耐えて生きてきたイチョウの木の所在地である。 伝説によると、鄭光弼の夢に神が現れて、「犀帶12個をイチョウの木に掛けることになるだろう」と伝えたという。犀帶とは従1品以上の官服の腰にだけ着用が許された帯で、サイの角や水牛の角でつくられ、王の玉帯の次に貴いものだった。その後、本当にこの明堂の家で12人の丞相が輩出されたと伝えられている。 この伝説を基に、神霊が宿る神聖な木に、村の平和と優れた人材輩出を祈願する祭りを行う「会賢洞イチョウの木祭り」が誕生した。 2012年第1回をはじめに現在まで続けられている「会賢洞イチョウの木祭り」は、毎年10月にイチョウの木が立っている場所で開かれる。祭り当日の午後に祭りを知らせるプンムル・ペキルノリ(農楽遊び)公演がはじまり、民謡ハンマダン、扇の舞、モドゥム太鼓ナンタなどのプレイベントが繰り広げられる。つづけられる記念式と共に、毎年定める標語に従って様々な行事が行われる。 記念式後には、地域住民の無病長寿と平穏無事を祈るイチョウの木神木祭を捧げている。公式行事後には、住民ののど自慢と様々な公演が続けられる。伝説が残るイチョウの木を眺めながら、伝統儀式と現代文化を同時に鑑賞することができる「会賢洞イチョウの木祭り」は、国内外の観光客の新鮮な見どころとして愛されている。

現代/2012

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区会賢洞1街

「忠武公・李舜臣誕生記念祭り」は忠武公・李舜臣(1545~1598)の誕生日である1545年4月28日を記念するために制定された祭りで、李舜臣将軍が生まれたソウル特別市中区仁峴洞周辺で、誕生日前後に開かれている。李舜臣将軍は朝鮮時代の将帥で、壬辰倭乱で三道水軍統制使を担い、水軍を率いて倭軍を撃退することに大きく貢献した。 ソウル中区庁とソウル中区文化院は、2008年から忠武公・李舜臣の誕生記念祭りを開催して、地域文化祭りに昇華、発展させるため、多彩な行事を披露している。忠武公の高い忠義を末永く輝かせ、後代に自主自立、正義、愛国、愛民、創造の精神を植え付けるための忠武公詩書画展、弓道現場体験学習、亀甲船(コプクソン)浮かせなどの行事が行われている。李舜臣将軍の影幀を先頭に、亀甲船、軍人、兵器、仮装行列などの記念行進も行われる。行進は将軍の諡号から取った忠武アートホールから退溪路を経て、忠武公生家跡の標石がある 明宝劇場の前まで続けられる。 その他にも、ソウル市中区は2005年忠武公関連専門学者と一般市民を中心に、「忠武公・李舜臣記念事業会」を構成して各種行事を計画、新しく開かれた清渓川と連携したソウルの観光名所を築いている。

現代/2008

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区興仁洞

奨忠洞豚足店通りで開催される「奨忠洞豚足祭り」は、この地域の全ての豚足専門店が参加して、美味しくて栄養価が高い豚足を大衆に伝え、世界化するきっかけとすることを目的にはじめられた。祭り期間の間、奨忠洞豚足店通り一帯を歩き回る地神踏み、プンムル・ペキルノリ(農楽遊び)、チェギ蹴り、矢投げ入れなどの民俗遊びも同時に行われる。 奨忠洞豚足村は6・25戦争直後に形成され、50年の歴史を誇っている。昔、食べ物が不足していた時代に、奨忠体育館で競技を観たたくさんの人々が、安くて美味しい豚足店に列をなしたことから、ここ一帯は豚足村密集地域として発展していった。 中区ではこの地域固有の食事文化を受け継ぎ発展させ、新世代と旧世代が交流できる場所を提供、観光客を誘致することにより地域経済の活性化に寄与するため、2000年に「奨忠洞豚足店通り」という名で特化通りに指定した。 「伝統的食べ物遺産である奨忠豚足を世界へ」というキャッチフレーズを掲げ、奨忠洞豚足祭り推進委員会を構成、毎年豚足店通り周辺の不法付着物を除去して店周辺を水掃除するなど、祭りの雰囲気を鼓舞させるため大々的な環境整備をした後、「奨忠洞豚足祭り」を行っている。

現代/2000

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区奨忠洞1街

「奨忠壇追慕祭」は乙未事変で日本人を撃退して殉国した宮内府大臣の李耕稙(1841~1895)、軍部大臣の洪啓薫(?~1895)等9人の先烈を追慕するための祭礼である。 高宗は1900年9月に南山麓の南小営が駐屯していた場所に奨忠壇を備え、毎年春と秋に奨忠壇祭を捧げた。 しかし、奨忠壇は1905年11月18日、日本帝国主義が強要した乙巳勒約が結ばれた後、1908年8月に日帝によって廃社された。1988年からソウル市中区庁は、脈が途絶えた奨忠壇祭を「奨忠壇追慕祭」という名で再開、毎年10月8日に追慕祭を執り行っている。10月8日は乙未事変が起こった日で、1895年8月20日を陽暦に還元した日である。 「奨忠壇追慕祭」を捧げる奨忠壇公園には、高宗の親筆が刻まれた奨忠壇碑が残されている。追慕祭は成均館の考証を経て再現され、追慕祭享の後に追慕詩朗誦、追慕曲やパンソリ演奏など、多彩な追慕公演も行われる。 殉国先烈の犠牲精神を称える「奨忠壇追慕祭」は、現在生きている国内観覧客にとって先祖の憂国の衷情と犠牲精神、歴史の悲劇を胸に刻む時間となり、外国人観覧客に対しては韓国歴史と伝統を伝える意味深い時間となっている。

現代/1988

文化/行事/その他

ソウル特別市中区奨忠洞2街

奨忠壇祭

「木覓山天祭」は太祖・李成桂(1335~1408)が漢陽に都を定め、国師堂を建てて国の平安と無事泰平を祈ったことに由来している。木覓山は今の南山の昔の名である。 当時は国家的祭礼としてはじめられ、次第に全国民の祭りに拡大して執り行われた。しかし、日帝強占期の1925年に民族文化抹殺政策により、国師堂の撤去とともに木覓山という名も南山に変えられ、「木覓山天祭」は歴史の中に消えていった。それから1994年に再び復活して、600年の歴史を受け継いでいる。 現在、仁王山にある国師堂は、韓国の歴史を守ってきた巫俗信仰の象徴的建物で、日帝により強制的に南山から仁王山へ移された悲痛な歴史を備えている。そのため、南山の元の位置に復元させるため、「木覓山天祭」で国師堂復元のための祭祀を捧げている。「木覓山天祭」は三六大礼の礼法により敬俳する民族礼法を実践することにより、韓国文化遺産を身近に感じることができる行事なっている。 祭祀で捧げる食べ物は皆で食べると良いことが起きるという伝統に従い、祭りに参加した皆で食べ、各種祝賀公演を楽しむことができる。「木覓山天祭」は国家と民族の跳躍を誓う意味深い祭りなった。

現代/1994

文化/行事/その他

ソウル特別市中区芸場洞

木覓山大天祭

「統一祈願南山烽火式」は、1992年ソウルの中心である南山で、統一意志と和合を固めるためにはじめられた。烽火は国の危険や緊急の便りを知らせるために焚くのろしで、主に山の峰で焚かれた。南山には1~5峰の5台の烽燧台が備えられており、全国合計686箇所の烽燧網から情報を受ける中央烽燧所の役割を担っていた。現在の南山烽燧台は第3烽燧だった場所である。 「統一祈願南山烽火式」は、1992年に第1回が行われ、2015年に第24回を迎えた。1992年から2001年までは新年を迎える意味で毎年1月1日朝に開かれ、2002年からは南と北が共に共感できる光復節以前にこの時期が変更された。2015年統一祈願南山烽火式は、光復70周年を迎え、和合と希望を繋ぎ統一へと向かう烽火というタイトルで執り行われた。烽火式に先立ち、南山八角亭付近では太鼓踊り、大型太極旗アドバルーン飛ばしなど、様々な行事が行われた。この烽火式は単純な記念式ではなく、たくさんの市民が交流して分かち合い、統一を祈願する華やかな祭りとして発展している。

現代/1992

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区芸場洞

2009年「南山100万人ワーキング大会」という名称で始まったこの行事は、2015年から「南山100万人の散策」へと名称が変更された。春を迎えた市民がさらにゆったりと南山の情緒を満喫しながら歩けるようにしようという趣旨から「散策」という言葉を入れた。毎年春に開催されるこの行事は、家族、カップル、子供連れ、外国人など、誰でも参加することができる。また、学校、会社、同好会、親睦会など、団体参加も可能となっている。 散策に参加した市民は、南山の生態系と歴史をゆっくりと見ながら味わうことで、忙しい都市生活の中で見過ごしていた南山の新たな面貌を発見することができる。そのように、この行事は単なる健康増進のためのワーキング大会ではなく、文化と歴史、南山の生態系を理解する「人文学的散策」を追究する。 散策コースは南山の北側の循環路を一回りする長いコース(7.5km)と、お年寄りや子供のためのコース(3.7km)に分けて運営される。視覚障害者でも困難なく歩くことができるように、散策路は弾性舗装が施されており、車両の通行はなく、小川に沿った林の中を歩く歩きやすいコースとなっている。一度この行事に参加した市民ならば、その後は誰でも頻繫に南山を訪れて楽しんでもらおうというのがこの行事の究極的な目的だ。 また、市民が散策路を歩きながら写真を撮ることができるようにフォトゾーンも作られており、想い出の場面を残すことができるようになっている。2時間ほど歩いて疲れたからだと心を休ませてくれる祝賀公演も開かれる。この行事が開かれる漢陽都城は現在、ユネスコ文化遺産への登録を前にしている。

現代/2009

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区

韓国の中心はソウルで、ソウルの中心は南山だ。「南山国際文化祭」は「南山を世界に、世界を南山に」というテーマに合わせて世界の中に韓国文化を知らせる一方、世界の文化を韓国に照会する文化交流の場として2006年から毎年開催されている。 祭りは、韓屋マウル、国立劇場文化広場、南山公園など、中区の南山一帯で開かれる。内容は回を重ねるごとにさらに充実してきている。韓流の持続のために、民俗公演、伝統剣舞、K-pop公演、韓服を現代化したファッションショーなど韓国の伝統文化芸術から現代の最先端の文化芸術にいたるまで、ジャンルと分野を越えた文化芸術祭だ。 また、市民にとって普段は接する機会のない世界各国の民俗パレード、民俗公演も行われ、名実共の国際文化の饗宴がくりひろげられる。これは、韓流が単に韓国文化を一方的に他の国に伝えることではなく、世界各国の文化と芸術を受け入れることにより、グローバル時代の韓国文化を世界化・多様化することに意義があるということを示している。 現在、「南山国際文化祭り」は韓国の文化芸術を世界に知らしめると同時に、世界のさまざまな文化芸術を韓国に知らせる世界的な祭りの場となっている。

現代/2006

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区

「南山ゴル伝統祭り」は1999年から毎年秋に南山ゴルの韓屋マウルで開かれる。この祭りでは、背負い子リレー・大型ユンノリ・投壷・チェギチャギ・綱撚り・団体縄跳びなど、6つの民俗遊戯が民俗体育競技として行われ、中区に属する各洞が町内の名誉をかけて一本勝負をくりひろげる。伝統競技で競うことにより、町内の人の団結と思いやりを確認し、さらには現代社会で徐々に薄れてつつある共同体意識を勝負や成績を越えて強化するという伝統遊戯の長所が盛り込まれた祭りだ。 祭りは、式前行事と開会式、そして第1部と第2部に分けて進められる。式前行事では伝統ストリートパフォーマンス・フュージョン国楽など、伝統と現代が調和する民俗公演がくりひろげられ、民俗体育競技に参加する各洞の選手団が入場する。引続く開会式では中区文化芸術体育賞の授賞式があり、祭りの開催を宣言する開会の辞と祝辞が述べられる。 第1部では「南山ゴル伝統祭り」のハイライトである民俗体育競技が繰り広げられる間、舞台では打楽・踊り・サムルノリ・民謡などの祝賀公演が開かれ、市民に祭りらしい盛りだくさんの見ものを提供する。続く第2部では、各洞での予選を経て本選に進出した市民が「南山ゴル歌謡祭」で技量を発揮し、歌の実力を競う。 一方、セマウル婦女会や各洞が運営するうまいもの市も開設され、昔の酒幕の情緒を生かして、祭りで欠かせない豊富な食べ物も提供する。祭り広場では投壷・チェギチャギなどの民俗遊戯を楽しむ場が設けられ、祭りに参加するすべての人々が楽しめるようになっている。

現代/1999

文化/行事/地域の祭り

ソウル特別市中区筆洞2街

金寿煥(1922~2009)枢機卿は1922年に大邱で出生、1941年ソウル東星商業学校(現在の東星高等学校)を卒長した後、同年に東京の上智大学文学部哲学課に入学した。その後、1947年にソウル誠信大学神学部に編入、1951年に卒業してから司祭の位に叙階され、大邱大教区安東カトリック教会主任神父となった。1964年にはドイツへ留学して、ミュンスター大学(Westfälische Wilhelms-Universität Münster)大学院で神学社会学を研究、1974年西江大学で名誉文学博士学位をもらった。 ドイツ留学から帰ってきた彼は、週刊カトリック時報(現在のカトリック新聞)社長に就任して、カトリック言論の発展に寄与した。1966年、馬山教区長に任命され、主教の位に叙階され、1968年に第12代ソウル大教区長に任命され大主教となった。そして、1969年に教皇パウロ6世(Paul VI)により、韓国初の枢機卿となった。当時、47歳で最年少の枢機卿だった。 金寿煥枢機卿は貧しく奉仕する教会、韓国の歴史現実に同参する教会像を目標として、韓国主教会議議長、アジアカトリック教主教会議準備委員長、教皇庁世界主教会議の韓国代表を担った。1998年、ソウル大教区長を引退した後にも社会的指導者として貧しい人々のために努め、2009年に肺炎の合併症により87才の歳で善終した。彼の葬儀は明洞聖堂で葬礼ミサとして執り行われた。

日帝強占期~現代/1922~2009

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金大健(1821~1846)神父は、1821年忠清南道唐津市牛江面で生まれた。彼の曽祖父はカトリック教の信者で、10年間の獄中生活の末に殉教、父もまたカトリック教信者として殉教した。彼は7歳の頃に京畿道龍仁郡内四面へ引越しそこで成長、1836年にフランス人神父モーバン(P.Maubant)から洗礼を受け、予備神学生として選抜され、ソウルへ上京した。朝鮮時代の通訳官吏だった劉進吉から中国語を学び、マカオへ渡ってローマカトリック教会の宣教団体であるパリ外邦伝教会所属のカレリ(Calleri)神父から神学と西洋学問、フランス語、中国語、ラテン語などを学んだ。その後、金大健神父は1844年12月にフェレオル(Ferréol)主教から副助祭(司祭の前段階)の叙階を受け、1845年に朝鮮に戻ってきた。ソウルに潜入した金大健は宣教活動をして、同年4月にフェレオル主教を入国させるため上海へ渡った。上海に到着した彼は、金家港神学校で司祭の位を叙階され、韓国人初のカトリック教神父となった。その後、朝鮮へ戻り殉教するまでソウルと京畿道地域を回り、カトリック教信者達に聖書を与え、外国宣教師達の入国路を開拓した。 1846年5月、金大健神父は黄海道康翎郡の島、巡威島で逮捕され酷い拷問を受けた。同年9月、反逆罪で死刑を宣告され、翌日セナムト(死刑執行場)で26才の歳で殉教した。当時、朝鮮政府は彼の死体を埋めて葬礼を執り行うことができぬようにしたが、生き残ったカトリック教信者達が死体を秘密裏に移して、京畿道安城市陽城面美山里に葬った。 金大健神父は殉教後、1857年ローマ教皇庁により尊者として宣布され、1925年に再び教皇庁で列福され、福者の位にあげられた。1984年、韓国を訪れた教皇ヨハネ・パウロ2世(Pope John Paul II, Karol Wojtyla)により列聖され、聖人の位にあげられた。1984年、韓国宣教200周年を記念して製作された絵「金大健神父の肖像」は、韓国カトリック教会の公人聖画第1号に指定され、ソウルの明洞聖堂に所蔵されている。

朝鮮/1821~1846

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

エミール・マルテル(Emil Martel、1874~1949)はフランス人の税関吏であるアルフォンス・マルテル(Alphonse Martel)と、日本人のルイス・コンドウ(Louise 近藤)の長男として1874年に出生した。彼は中国の上海と天津のフランス商事で勤務していた父と共に天津で中学校を通い、その後、母国であるフランスに帰ってサン・エティエンヌ鉱山学校(l'Ecole de Mine de St. Etienne)を卒業した。それから、中国で鉱山記者として勤務して、1894年に朝鮮へ渡り、1896年フランス語学校である法語学校を設立した。初期の法語学校は、エミール・マルテルの自宅で全校生徒14人からはじまり、持続的管理によって6学級100人余りの学生が通う外国語学校へと発展した。 1905年、明洞聖堂で大韓帝国愛国歌の作曲者として有名なフランツ・エッケルト(Franz Eckert)の娘アメリア(Amelia)と結婚、1911年に学校が解散されるまで法語学校の校長であり教師として様々な教育分野で活動した。 1911年、法語学校が解散された後、エミール・マルテルは故国であるフランスへ帰り、第1次世界大戦が起こるとフランスの軍人として戦争に参加した。戦争が終わった後、1920年に再び韓国へ渡り、英文版週刊新聞のソウルプレス(The Seoul Press)の翻訳家と京城帝国学校のフランス語講師として活動、1934年に『外人の観たる朝鮮外交秘話』というタイトルの回顧録を出版した。この本は、エミール・マルテルが法語学校を建てた頃の話をはじめ、当時の社会で起こった様々な歴史、文化的事件と実存人物に関する話が盛り込まれ、近代史の重要な資料として評価されている。 1943年、エミール・マルテルは日本の外国人弾圧によって追放された後、中国に留まり、1947年再び韓国へ帰ってきた。1949年、彼は西大門の自宅で死去、楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。

朝鮮~現代/1874~1949

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

バンカー(D. A. Bunker、1853~1932)は1853年8月にアメリカで出生、1883年にオハイオ州オーバリン大学を卒業して、ユニオン神学校で神学を専攻した。 1882年(高宗19年)朝米修好通商条約が採決され、英語教育の重要性が持ち上がると、閔泳翊が近代式教育機関である育英公院の設立を推進させた。1886年(高宗23年)、育英公院の運営のためにアメリカへ3人の教師を要請、当時ニューヨークのユニオン神学校に修学中だったバンカーはギルモア(G. W. Gilmore)とハルバート(H. B. Hulbert)等と共に朝鮮へ渡ってきた。 バンカーは育英公院に勤務して英語を教えた。その後、政府の財政支援問題により、ギルモアとハルバートが教師職を辞任して、1894年(高宗31年)育英公院が門を閉めるとアペンゼラーが建てた中区貞洞の培材学堂に移っていった。バンカーはそこで討論中心の公開授業方式を導入して、物理学、化学、数学、政治学など、新しい教科目を採択した。1906年(高宗43年)には培材学堂の3代校長に就任した。 1898年(高宗35年)、独立協会に対する誣告によって独立協会が解散させられる事件が起こった。この時、数十人の愛国志士達が漢城監獄に収監され、バンカーは宣教師達と力を合わせて収監者達の処遇改善を要求した。また、宣教活動の許可を得て、囚人達を慰労してキリスト教書籍を配り、獄中で李承晩、李商在、南宮檍等12人に先例を与えた。 その後、バンカーはYMCA運動、国権回復運動、愛国運動などに積極的に参加した。1905年(高宗9年)には韓国福音主義宣教団体の連合公議会を組織して、教派を超越した教会連合を志向する運動を展開した。1926年、老齢により宣教師職を引退して、カリフォルニアのサンディエゴで1932年に死去、遺言に従い楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。

朝鮮~日帝強占期/1853~1932

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

キャンベル(Josephine Eaton Peel Campbell、1853~1920)は1853年アメリカのテキサスで生まれた。1874年、テキサスの開拓教会牧師だったジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell)と結婚したが家族を皆失い、生涯奉仕して生きることを決心、南メソジスト海外宣教師派遣に志願した。 キャンベルは朝鮮に派遣された最初の女性宣教師で、1897年(高宗34年)漢城府中区南松峴の南メソジスト宣教部に定着した。宣教事業と同時に診療も兼ねて、尚洞病院と済衆院とは異なる地域を開拓して医療に務めた。この時、白沙・李恒福の家跡である弼雲台周辺に留まった。 1898年(高宗2年)診療と宣教をする中、教育の必要性を感じ、カロライナ学堂を創設した。尹致昊にハングルを学び、幼い少女達を教育したが、次第に学生達の数が増えると1903年に培花学堂に名を変えて初代校長として就任した。 1901年、伝道活動のためにルイス・ウォーカー(Lousie Walker)等が宣教後援として送ってきた献金で、培花学堂内のルイス・ウォーカー記念礼拝堂を建てた。教育事業と宣教事業を並行して、信者数が急速に増え礼拝堂の拡張が必要になると、鍾路区に宗橋教会を設立した。 1918年、安息の年を迎えアメリカへ渡り、無理に帰って来ようとする中で病を患い、韓国へ帰ってきて1920年に病死、楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。碑文には、「私は朝鮮で献身したので、死ぬならば朝鮮で死ぬべきだ」というキャンベルが生前残した言葉が記録されている。

朝鮮~日帝強占期/1853~1920

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

ハルバート(Homer B.Hulbert、1863~1949)は1863年にアメリカのバーモント(Vermont)州ニューヘイブン(New Haven)で生まれ、ニューハンプシャー(New Hampshire)州にあるダートマス大学(Dartmouth College)を卒長、ユニオン神学校で修学した。 1882年(高宗19年)、朝米修好通商条約(朝鮮と米国間で採決された国交と通商を目的とした条約)が採決され、英語教育の重要性が持ち上がると、閔泳翊は育英公院の設立を推進させた。そして、1886年(高宗23年)育英公院運営のためにアメリカへ3人の教師を要請、この時にハルバートはギルモア(G. W. Gilmore)とバンカー(D. A. Bunker)等と共に朝鮮へ渡ってきた。 ハルバートは育英公院に勤務しながら英語を教え、朝鮮政府が設立した最初の西洋式病院である済衆院内の学堂でも授業を行った。彼は自費でハングルを学び、知識をハングルで記し、『士民必知』を発行するに至った。『士民必知』は宇宙と地球、大陸と各国に関する詳細な説明を載せた本で、朝鮮人が国際交流のために学ぶべき必須情報が記されていた。彼はこの本を育英公院の教科書として使用した。 1891(高宗28年)ハルバートは育英公院の財政上の理由により教師職を辞任してアメリカへ帰っていった。しかし、2年後にアメリカのメソジスト教会宣教師の資格で再び朝鮮に入国した。その後、彼はメソジスト教出版部で働きながら培材学堂で学生達を教えた。 ハルバートは朝鮮に滞在しながら日帝の侵奪行為を目撃して、朝鮮の自主独立を支持して助けた。1895年(高宗32年)乙未事変(日本が明成皇后を殺害した事件)後、高宗を護衛して高宗の最側近として外交の窓口的役割を申し出た。1905年(高宗9年)日帝が強圧的に大韓帝国の外交権を奪う乙巳締結すると、乙巳勒約は無効であることを知らせるために高宗から密書を受けてアメリカ大統領に伝達した。1906年(高宗10年)には高宗に日帝の弾圧行為をハーグ(Hague)に伝えることを建議、ハーグで韓国代表団の訴え文を会議時報に載せた。この事件によりハルバートは大韓帝国から追放された。 その後も彼は各種会議と講座などを通して、日本の侵奪に対して糾弾し、大韓帝国の独立を唱えた。第2次世界大戦が終結すると、大韓民国が樹立した後の1949年、42年ぶりに韓国の地を訪れたが、旅の疲れにより1週間で病死した。 韓国の地に埋められたいという彼の意志に従い、楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。死後、外国人初の建国功労勲章太極章が追叙され、2014年にはハングル保全と普及に献身した功労により大韓民国政府から金冠文化勲章が追叙された。 著書としては、『韓国史(The History of Korea)』2冊、『大東紀年』5冊、『大韓帝国滅亡史(The Passing of Korea)』などがある。

朝鮮~現代/1863~1949+N29

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

袁世凱(1859~1916)は、1859年(哲宗10年)に河南省項城で生まれた。科挙に2度落第して、呉長慶の下で仕事を担った。 1882年(高宗19年)、朝鮮で新式軍隊と旧式軍隊間の差別問題によって、旧式軍隊が壬午軍乱を起こした。すると、袁世凱は壬午軍乱をきっかけに 呉長慶と共に朝鮮に赴任して興宣大院君を壬午軍乱の主導者と目して、清国へ押送した。その後、統理朝鮮通商交渉事宜となり、朝鮮に駐在し続けた。 清軍が朝鮮に駐屯すると、親清の保守勢力と争っていた開化派の立地が揺らいだ。続けられる圧迫により、1884年(高宗21年)金玉均を忠臣とした急進開化派が日本と手を繋ぎ、親清保守政策に対抗して政変を起こし、政権を掌握した。この時、袁世凱はソウルに駐屯していた1500人の軍人を率いて日本との戦争も辞さずに開化派を攻撃、高宗を救出した。この事件によって、清と日本は朝鮮から両国の軍隊を撤収させる天津条約を結ぶこととなった。 しかし、袁世凱は撤収せずにその後も朝鮮駐在総理交渉通商大臣に就任、朝鮮の内政に干渉した。1894年(高宗31年)東学農民運動が起こると、彼は清軍を派遣させ、これをきっかけに日本軍も天津条約を口実に朝鮮に上陸した。これは結局、日清戦争に帰結した。日清戦争の敗北により、清国の執権者だった李鴻章が失脚、袁世凱がその位置に代わり、兵権を掌握した。 袁世凱は西太后の寵愛を受けて要職を歴任した。西太后が死去した後、政界から退いたが、1911年、辛亥革命によって再び国権を掌握、孫文と手を結び宣統帝の溥儀を退位させた。その後、1913年に中華民国の初代大総統となり、1916年6月に死去した。 袁世凱は朝鮮に10年余り留まり、現在の中区忠武路一帯を買い取り、中国人専用通りを造成しようとした。しかし、日清戦争で勝利した日本は清国の勢力を退け日本勢力を拡張させ、忠武路一帯を本町通りと呼んだ。

朝鮮~日帝強占期/1859~1916

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

アリス・レベッカ・アペンゼラー(Alice Rebecca Appenzeller、1885~1950)は、韓国メソジスト教会初の宣教師であるヘンリー・ゲアハルト・アペンゼラー(Henry Gerhart Appenzeller)とエラ・ドッジ(Ella Dodge)夫婦の長女である。ヘンリー・ゲアハルト・アペンゼラー(Henry Gerhart Appenzeller)が結婚して2ヶ月後に宣教を申請したため、レベッカ・アペンゼラー(Rebecca Appenzeller)は母の腹中で太平洋を横断した。1885年に韓国で生まれ幼児洗礼を受け、幼稚園課程を経た後に幼い年でアメリカへ渡り教育を受けた。 アリス・レベッカ・アペンゼラーは、1915年にメソジスト教会宣教師として韓国へ渡り、韓国語と日本語を勉強した後に中区貞洞の梨花学堂教師に赴任して英語と歴史を教えた。1921年10月には学長に就任して、梨花学堂大学課を理科女子専門学校に昇格させ、初代校長に就任した。専門学校の新しい校舎を建てるためにアメリカへ渡り、45万ドルを募金して、5万坪敷地の新しい校舎である新村の梨花東山の竣工に大きく寄与した。 1932年にはキリスト教朝鮮メソジスト教会牧師となった。アリス・レベッカ・アペンゼラーは、校長と牧師を兼ねて社会に奉仕し、人材の養成に生涯努めた。その後、1939年に新任した弟子の金活蘭に校長の座を渡した。 1950年、65歳で死去した。韓国の地に埋められることを願っていたため、楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。アペンゼラーの墓碑名は、「Not to Be ministered Unto But to Minister(私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た)」で、彼女の人生における信念を伺うことができる。

朝鮮~現代/1885~1950

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

アペンゼラー2世(Henry Dodge Appenzeller、1889~1953)は朝鮮時代のメソジスト教宣教師であるヘンリー・ゲアハルト・アペンゼラー(Henry Gerhart Appenzeller)の長男で、1889年にソウル特別市貞洞で生まれた。1890年に本国へ帰国してプリンストン大学(Princeton University)、ドリュー神学校(Drew Theological Seminary)、フランクリン&マーシャルカレッジ(Franklin and Marshall College)を卒業した。1917年、韓国のメソジスト教宣教師に任命され韓国へ戻り、仁川地方の宣教事業に従事、1920年に父ヘンリー・ゲアハルト・アペンゼラーが設立した培材学堂(現在の培材中学校、培材高等学校、培材大学)の第4代校長に就任した。1920年、培材学堂の学生達が同盟休学をして独立万歳運動を繰り広げると、日帝はアペンゼラー2世に学生達を処罰するよう圧力をかけたが、彼は学生達を保護した。結局、日帝によって強制追放され、本国へ帰りハワイのホノルル第一メソジスト教会の牧師として奉職した。 その後、1950年に6・25戦争が起こると再び韓国へ渡り、キリスト教世界救済会韓国責任者として務めた。1952年、培材中学、培材高等学校の財団理事長に就任して活動する中、1953年に過労による健康悪化のため本国へ帰還した。その年、65歳の年で死去したアペンゼラー2世の遺言は、「私の骨を私の故国であり愛である韓国の地に埋めてくれ」というものだった。遺言に従い、彼の遺骨は韓国へ帰ってきて、1954年に貞洞教会で葬儀が行われた後、麻浦区合井洞の楊花津外国人宣敎師墓園に葬られた。

朝鮮~現代/1889~1953

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

アペンゼラー(Henry Gerhart Appenzeller、1858~1902)は、朝鮮時代の高宗時期にキリスト教を伝えた宣教師である。1858年、アメリカのペンシルベニア州(Commonwealth of Pennsylvania)ソンダートン(Saunderton)で生まれ、1879年メソジスト教会に入教した後、ドリュー神学校(Drew Theological Seminary)、フランクリン&マーシャルカレッジ(Franklin and Marshall College)を卒業した。その後、1885年にアメリカのメソジスト教会宣教委員会で朝鮮の宣教師として任命され、1885年に妻と共に仁川に入国した。 アペンゼラーは神学問に志を持った朝鮮の青年を集め教育事業をはじめ、高宗皇帝が名前と扁額を授けた朝鮮初の西洋式学校の培材学堂(現在の培材中学校、培材高等学校、培材大学)を設立した。 その後、培材学堂で神学問教育、英語教育と医療宣教をはじめ、1885年10月に韓国プロテスタント最初の聖餐式を行い、貞洞第一教会を創立した。1887年、朝鮮に聖書翻訳部が立てられると、聖書の韓国語翻訳事業に参加して、『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』『コリントの信徒への手紙』の翻訳を終え、1895年月刊雑誌『韓国彙報(The Korean Repository)』を編集した。 1902年、木浦で開かれた聖書翻訳者会議に参加するため、仁川で船に乗っていく際に、群山の沖で衝突事故に遭い、アペンゼラーは一緒にいた朝鮮人女学生を救おうとして溺死した。その後、彼の死体は探し出せず、現在はソウル特別市麻浦区合井洞の楊花津外国人宣敎師墓園に彼の仮墓が置かれている。

朝鮮~大韓帝国/1858~1902

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

ウィリアム B. スクラントン(William B. Scranton, 1856~1922年)は、母親のマリー・スクラントン(Mary Flecher Benton Scranton)と共に1885年に韓国に入国し、近代的医療と民衆宣教に力を注いだアメリカメソジスト教会所属の宣教師だ。彼の韓国に対する愛情は格別で、施蘭敦という韓国名も持っていた。彼が韓国に来て開院した最初の民間病院である貞洞病院が1886年に施設を拡張した際に、高宗はその名をとって施病院(Universal Relief Hospital)と名付けた。 スクラントンは韓国に来た最初の年の1885年に住まいとして定めた家の離れ(現在の貞洞第一教会周辺)に貞洞病院を開院した。それまでの数か月間は、最初の病院である済衆院(広恵院)で奉仕していた。貞洞病院は済衆院に次ぐ二番目の病院であり、最初の民間病院だ。1887年には東大門付近に韓国で最初の女性専門病院である保救女館を設置した。 その後、患者があふれて施設が足りなくなったスクラントンは、貞洞暴飲を1894年に南大門の中の上洞にあったメソジスト教会所属の上洞病院に移した。そのようにして拡張・統合されて開院した上洞病院は、その後低所得層を対象とした民間医療に力を注ぎ、伝染病に対処するなど、近代医療の恵沢が公益的な性格を帯び、韓国社会に広がるようにするのに大きな役割を果たした。 スクラントンが主に看た患者は、伝染病にかかって捨てられた貧民や孤児だった。また、その宣教病院は婦女子や児童の治療を専門とするようになったが、この時に輩出した女医の助けにより梨花女子大学校付属病院と医科大学に発展することになった。 スクラントンは上洞病院を建て、そこを基盤として上洞教会を設立し、民衆宣教にも努め、自宅も病院の近所に移した。その後、上洞教会は「韓国民族運動」のゆりかごとなり、多くの民族運動化と独立運動化を輩出した。 スクラントンは宣教師職を辞任した後にもアメリカに帰らず、医師として韓国で行ってきた医療活動を続けていった。1922年に日本の神戸で享年66歳で死去するまで、かれの韓国への韓国愛情、特に民間医療と民衆宣教への情熱は絶えることがなかった。

朝鮮~日本統治時代/1856~1922

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

アメリカメソジスト教会の宣教師スクラントン(Mary Flecher Benton Scranton, 1832~1909年)女史は、1885年に一人息子のウィリアム・スクラントン(William B. Scranton)夫妻と共に仁川から韓国に入った。その後、ソウルの貞洞に定着したスクラントンは、自宅で女性を対象に学堂を始めた。この時に訪ねてきた学生達は、捨てられた子供達と妾達だった。学生の数が増え、高宗は梨の花のように美しく花咲かせ、豊かに実ってほしいという意味の「梨花学堂」という校名を下賜した。草創期の梨花学堂では、ハングルと英語を基礎に宗教科目を教えた。 梨花学堂を通じて、女史は韓国の開化期の女性教育を担うことにより、女性の社会的地位を高める社会活動の意味を植え付けた。家父長制度に閉ざされていた当時の女性は、女史の近代教育に力を得て社会と民族に対して堂々と自分の名を刻ませた。梨花学堂の学生は、3•1運動、6•10万歳運動などに積極的に参与するなど、民族意識も高かった。スクラントン女史と 梨花学堂は、これにより韓国女性の社会的地位の向上の出発点となった。 1891年、スクラントン女史は梨花学堂を退き「宣教婦人」を組織して女性宣教に力を注いだ。当時の社会は、いくら宣教師だといっても男性が女性に近づいて容易に声を掛けることは容易ではなく、女性宣教師の数がまだ少なかったので、女性信者を宣教婦人という名で組織して、スクラントン女史の本来の任務である宣教に力を注いだというわけだ。 その後スクラントン女史は1909年にソウル上洞の自宅で他界するまで、女性伝道に力を注いだ一方で、韓国の女性の意識向上と社会活動の範囲を広げることにまい進した。先駆的な功労が認められ、女史は宗教と宗派を超えて「大夫人」と呼ばれるようになった。

朝鮮~大韓帝国/1832~1909

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

洪良浩(ホン・ヤンホ, 1724~1802年)は1747(英祖23)年に進士となり、1752(英祖28)年、庭試文科に丙科で及第した後に持平・修撰・校理を務め、1774(英祖50)年に登俊試に丙科で及第した。1782(正祖6)年に冬至副使となり、清に行って来た。その後、大司憲となり、後に大提学・判中枢府事を兼任した。 洪良浩は清の優れた文明を受け入れて学ぶべきだと主張した北学派の一人で、商業を重視し、対外貿易を強調した。また、手押し車とレンガの使用などを主張し、実生活における道具の使用を推奨した。 洪良浩は学問と文章に長け、『英祖実録』『国朝寶鑑』『羹墻録』『同文彙考』などの編纂にも参与した。英祖は洪良浩の博学さを称え、疑問が生じると必ず洪良浩の意見を聞いたという。 洪良浩はソウルの南山の麓にある豊山洪氏の邸宅である四宜堂で暮らしていた。四宜堂は豊山洪氏が7代にわたり150年間居住した邸宅だ。合わせて100間もある正堂を中心に、西には守約堂、北には北下堂、東側の裏には後堂などの付属建物があり、奇岩怪石を用いて人工の山まで作られた大邸宅だった。 洪良浩の孫にあたる 洪敬謨は、このような四宜堂の規模を文章として残しているが、それが『四宜堂志』である。『四宜堂志』は当時の士大夫の住居文化の実際の生活像が描かれており、歴史的資料として高く評価されている。 中国に使臣として行った再に、戴衢亨、紀曉嵐などの学者と交遊し、帰国後は考証学の発展に大きく寄与した。洪良浩は文章にも長けていたが、特に、晋体と唐体に長けていた。諡号は文献で、著書に『耳溪集』がある。 編書として『萬物原始』『六書経緯』『群書發排』『格物解』『七情辨』『牧民大方』『鄕約折中』『海東名将傳』『高麗大事記』『北塞記略』などがある。

朝鮮/1724~1802

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

許穆(ホ・モク, 1595~1682年)はソウル倉洞(現在の中区南倉洞)で生まれ住み、鄭逑・張顕光の門人である。光海君の仁穆大妃廃母論では儒教学者の身分で反対し、その後、官職に就かず学問を練磨した。1626(仁祖4)年1月14日に仁祖の生みの母の啓運宮具氏が死去し、仁祖は3年間喪服を着ようとしたが、許穆は服喪問題について1年を主張した。1628(仁祖6)年に仁祖が再び父親の定遠大院君を王として追王しようとした。その際にも許穆は仁祖の 定遠大院君の国王追崇論に反対し、仁祖の王命により科挙に志願できないという罰を受けた。 その後、孝宗の時代に学問とその行いにより推薦されて1657年に持平、翌年に掌令となった。1660(顕宗1)年、孝宗が逝去すると慈懿大妃の服喪問題で第一次礼訟論爭が起こった。当時の執権層であった西人宋時烈らは、孝宗が次男であることを理由に朞年說を採択した。許穆らの南人勢力は孝宗が次男ではあるが、王だった点を挙げて3年説を主張したが、顕宗が朞年說を採択した。これに後押しされた宋時烈が許穆らの南人勢力を、王統を否定したと弾劾し、南人は粛清され、許穆もまた三陟府使として左遷された。 1674(粛宗1)年に孝宗妃の仁宣王后が他界し第二次礼訟論爭が起こった。王室の礼法が記された『国朝五礼儀』には朞年說となっていたが、西人らは過去の礼法を挙げて次子婦として大功說を主張した。許穆はこれに反対して朞年說を主張つぃたが、顕宗は朞年說を採択し、許穆をはじめとする南人を支持することになった。 1675(粛宗1)年、許穆は科挙制度の弊害を指摘し、学問と行いによって人材を採用するように建議し、また、庶子とその子孫だとしても才能と識見のある者は重用すべきだという庶孼許通論を主張した。また、北伐論について北伐は実現不可能なことであるとして反対した。これに対して北伐論を強く主張していた尹鑴と疎遠となった。 1678(粛宗4)年に高齢を理由に右議政を辞して判中枢府事となったが、この時に長鬐に流刑中だった宋時烈に関する処罰の問題で宋時烈の死刑を主張したが、領議政許積がこれに反対し、同じ南人同士で意見が分かれた。その後、南人は穏健論を主張していた勢力の濁南と許穆を領袖とする清南に分かれることになった。1679(粛宗5)年、許穆は再び濁南の許穆を弾劾したが、尹鑴が許穆を弁護し、逆に自ら罷免されることになった。その後、許穆は故郷で著述と後進の養成に専念した。 許穆は性理学に理解が深く、独特な図解法を開設した『心学図』と『堯舜禹伝授心法図』を書いて教育した。理気論において氣は理から出て、理は気で行するがゆえ、分離することはできないと主張した。篆書に長け、東方の第一人者という賛辞を受け、絵画と文章にも優れた才能を持っていた。 著書に『経說』『経礼類纂』『眉叟記言』『東事』『邦国王朝礼』などがあり、諡号は文正である。

朝鮮/1595~1682

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

南山の麓のマルンネ付近(現在の中区仁峴洞1街)で生まれた 許筠(ホ・ギュン, 1569~1618年)は、5歳の頃から字を学び始めたほど英明だった。12歳で父を亡くし、さらに勉学にまい進した。柳成龍・李達の門人として学問と詩を学んだ。許筠は奇妙なことを好み、物事にとらわれることを嫌う奇癖があり、儒教だけでなく仏教と道教にまで関心と造詣が深かった。 儒教思想にとらわれなかったがゆえに民本思想と身分階級の打破による平等な人材の登用、そして朋党排斥などの思想的背景を持っていた。それによって庶子の差別が不当であることと官僚を糾弾する文章を幾編も残し、鄭道伝・金宗直を辛辣に批判し、士林派からありとあらゆる人身攻撃を受けることになった。政治的にも仏教を信じているという理由で何度も罷免され流刑の身となった。 1589(宣祖22)年に生員試に合格し、1594(宣祖27)年に庭試文科に及第し、検閱・侍講院設書などの官職に命じられたが、1607(宣祖40)年には春から秋まで毎月3度ずつ27回も文臣月課で首席になるほど優れた才能の所有者であった。 しかし、並外れた才能とは裏腹に、官職の道は浮沈が多かった。黄海道都使に命じられた際にソウルの芸妓を連れてきたという理由で弾劾され罷免となった。その後も仏教を信じているという理由で幾度か罷免され、1610(光海君 2)年には殿試の試官として甥と婿を不正合格させたという理由で罷免され流刑に処された。 復職して帰ってきた年の1613(光海君 5)年に普段から親交があった朴應犀・徐羊甲・沈友英などが金悌男を推戴して謀反を図ったという癸丑獄事の事件が発生した。これに巻き添えとなることを恐れた許筠は、身辺の安全のために李爾瞻など大北派の核心らと政治的に密着した。それにより仁穆大妃の廃母論が起こった際にも果敢に先頭に立って仁穆大妃の処罰を主張した。しかし、李爾瞻との密着は長く続かず、1617(光海君 9)年に河仁俊などと共に仁穆大妃を推戴して反乱を試みたという罪で処刑された。 許筠は稀で並外れ文才の持ち主で、朝鮮中期の思想にも異彩を放つ人物だ。許筠の社会批判小説『ホン・ギルドン伝』に見られるように、既存の固定観念にとらわれることのない自由な魂を持っており、当時の現実に対する大胆な改革意識を有していた。 著書に『ホン・ギルドン伝』『南宮先生伝』『蛟山詩話』『惺所覆瓿藁』『惺叟詩話』『鶴山樵談』『屠門大爵』『旱年讖記』『閑情録』などがある。

朝鮮/1569~1618

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

韓致奫(ハン・チユン, 1765~1814年)は、1789(正祖13)年に進士試に及第したが、大科を断念して生涯を学問にのみ専念した。1799(正祖23)年に 進賀使の書狀官である族兄韓致應に随行して北京に留まり、清朝の文物を観察した。帰ってきた後に考証的な立場から自国の歴史を著述し、『海東繹史』を編纂したが、原篇を終えただけで完成できないままに世を去った。その死後に甥の韓鎭書がこれを完成させた。 『海東繹史』は紀伝体の形式で、外国の資料による客観的な記述を通じて通史を叙述するという特徴がある。考証のための資料として、中国の資料523種と日本の資料22種を利用し、自国の資料数十種を挙げて外国の資料と対比した。これはわが国と中国の既存の歴史編纂を補完し、体系的な国の歴史を確立しようとする努力の一環であった。韓致奫のこのような作業は客観性を追及するあまり、むしろ中国の資料の無条件の利用など、外国資料に過度に依存した点が残念な部分であるが、批判精神や考証的な歴史認識に立脚して韓国史の研究に新たな方法を提示したという点は大きく認められた。 学問に対する新たな試みは、後代に多くの影響を及ぼし、韓致奫が享年50歳で死去した後にもその学徳を称揚する人物が多くいた。後に秋史金正喜は韓致奫について「見掛けはとても貧寒でひ弱で、着ている服さえ重そうに見えるが、内なる人は天のように高い心を持っている」と評した。

朝鮮/1765~1814

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

韓浚謙(ハン・ジュンギョム, 1557~1627年)は1579(宣祖12)年に進士試に合格し、1586(宣祖19)年に文科に及第して検閱となった。宣祖が出題した試題で首席となり宣祖から寵愛を受けて賜暇読書をした。1589(宣祖21)年に 衿川縣監として務めていた際に鄭汝立の反乱が起こり、鄭汝立の甥の李震吉を推薦したことで巻き添えにり、数か月間投獄された後に解放され原州に移り住んだ。 1592(宣祖25)年に復職し、壬申倭乱の中で明の麻貴を助けて食糧・馬草の収集と貯蔵を担当した。倭乱が終わった後、右承旨となり辺境の消息を早く伝える擺撥の設置を建議した。その後、慶尚道観察使として赴任した際に、文弘道の誣告により罷免となった。翌年、兵曹参判として任用され、李徳馨の推薦により四道都元帥の位に就いた。その後、さまざまな要職を務めた。 1609(光海君 1)年に宣祖が逝去する前に永昌大君の補佐を頼んだ遺教七臣の一人だった韓浚謙は、1613(光海君 5)年に永昌大君を擁立して逆謀したという理由で癸丑獄事の巻き添えになり流刑となった。しかし、流刑地で女真族の侵入に備える適任者として選ばれ、中枢府知使兼五道都元帥となって国境守備に努めた。 1623(仁祖1)年に仁祖反正により綾陽君が王位に就くと、綾陽君の妻だった韓浚謙の娘は仁烈王后となった。それにより韓浚謙も西平府院君に奉じられた。 1627(仁祖5)年の丁卯胡乱を経て病勢が悪化し死去した。諡号は文翼だ。器局の大きい人物として礼学と国家の故事に詳しく、高い職責にあったにもかかわらず清廉で、党色を帯びていたが人望は厚かった。著書に『柳川遺稿』がある。

朝鮮/1557~1627

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

韓明澮(ハン・ミョンフェ, 1415~1487年)はソウル南山付近(現在の芸場洞)で7か月で生まれ、四肢がしっかりしないまま生まれたとされている。早くに両親を亡くし、不遇な中に暮らし、30歳を過ぎても良民にとどまっていた。 1452(文宗2)年、蔭仕として地方に赴き敬徳宮直という閑職に就いていたが、友人の権擥の照会で首陽大君に出会ったことから韓明澮の道は変わった。韓明澮は首陽大君からその知略を認められ、「我が 張子房」と呼ばれるほど信任を得た。 その後韓明澮は、首陽大君の癸酉靖難を陣頭指揮した。その時の功労により靖難功臣一等に奉じられ司僕寺少尹の位に就いた。1455(世祖1)年に世祖が即位した際に佐翼功臣一等として右承旨になった。その後、端宗復位運動をしていた成三問、朴彭年などが広延楼で旗を揚げようとしていたがこれを先に知って防いだ。 韓明澮は世祖の執権初期から辺境の築城と兵力の養成を建議した。その後、兵曹判書として在職中には自ら出生して野人を討伐し、築城するなど、国防活動に大きく寄与した。その結果、1462年には上党府院君に奉じられ、右議政の位に就いた。その後昇進を続け、1466年に領議政となった。翌年、李施愛の乱が起こり、李施愛に謀られて辞職したが、間もなく復職し、世祖が逝去した後に院相として政務を処決した。 睿宗の即位後、南怡の謀逆事件の処理での功労により翊戴功臣一等に奉じられた。睿宗が逝去して成宗が即位したが、成宗即位を支持した功労により佐理功臣一等の功臣号を受け、院相として政務を務めた。 韓明澮は富と名声を築いた後に漢江のほとりに狎鴎亭を建て、学者たちを集めて詩宴を開いた。韓明澮の亭は中国の使臣にまで知られるほどその風光で有名だった。しかし、狎鴎亭で明の使臣を私的に接待したことで弾劾されたこともあった。 領議政の位に就き、功臣号を4度も受け、睿宗・成宗の妃の父親でもあった韓明澮は、辺境を防衛し、要衝を築いて築城するなどの軍事的業績を立て、五家作統法・面里制などを作って行政的にも寄与した。しかし、能力を自らの利達に用い、富の蓄積のために官職を売買するなど、手段を選ばない面は批判された。また、癸酉靖難を主導して政治的な利得のために成宗を推戴するなどの謀に長けた奸臣として知られてもいる。

朝鮮/1415~1487

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

韓圭卨(ハン・ギュソル, 1848~1930年)は早くから武科に及第し、さまざまな武官を歴任した。1885(高宗22)に右捕盜大将を務めていた際に甲申政変に巻き添えになり兪吉濬を保護する目的で自宅に軟禁した。そして兪吉濬を助けて『西遊見聞』を執筆できるようにした。その後、『西遊見聞』は甲午改革の思想的背景となり、啓蒙思想の形成に影響を与えた。 1890(高宗27)年に日本の商人が鐘路一帯に店舗の開設を要求したが、鐘路の商人が立ち上がって1次、2次にわたり閉門撤市して示威する事態が起こった。この時、韓圭卨は高宗の密命を受けて背後で組織的に商民を煽動し、日本の商人の鐘路への進出を防いだという記録が清に残っている。韓圭卨はその後も高宗の絶対的な信任を得て議政府賛成などを歴任した。 1905(高宗9)年、韓圭卨は参政大臣として内閣を組織した。1905年は乙巳条約が成立した年で、日本は条約を通じて韓国における優越権を確保した。また、これをきっかけに伊藤博文を派遣していわゆる「日韓新協約」という美名の下で保護条約を強制的に締結しようとした。伊藤博文は数十人の憲兵を動員して閣僚に個別に条約の賛成か反対かを聞いた。その時、韓圭卨は無条件に不可能だとし、日本の憲兵によって監禁されて罷免された。 1910年、朝鮮が日本に強制占領された後に日本政府は、韓圭卨に男爵の称号を与えたが、韓圭卨はこれを拒んで隠居した。1920年 、李商在などと共に朝鮮教育会を創立し、これを「民立大学期成会」として発展せしめた。「民立大学期成会」は 朝鮮に新式教育を広く教えるために民立大学を設立しようとしたが、日本の妨害により民立大学の設立は失敗に終わった。「民立大学期成会」は継続的に活動し、植民地解放後には国立釜山大学校の設立に寄与した。

朝鮮~日本統治時代/1848~1930

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

崔萬理(チェ・マンリ, ?~1445年)は1414(太祖14)年に生員となり、1419(世宗1)年に増広文科に及第し、弘文館に起用された。1427(世宗9)年に校理として文科重試に及第した。その後、古制度の研究に没頭し、制度に関する問題点を指摘して是正した。 崔萬理は集賢殿の副提学になるほど世宗に能力を認められていた。しかし、副提学に在職中に妥協を知らない性格により世宗と衝突することがたびたびあった。世宗は仏教に友好的であった半面、崔萬理は仏教の排斥を主張し、儒教思想を厳格に適用しようとした。世宗が宮殿の中に仏堂を建てると、6度にわたってその不当性を具して上疏した。 1444(世宗26)年、世宗が訓民正音を発布したが、崔萬理は訓民正音の創製に反対する学者と共に6条目の理由を挙げて連名上疏をした。ハングルを「鄙諺無益」、すなわち卑属で学問に役に立たない字と主張するほど上疏文は強硬で、憤慨した世宗は崔萬理を義禁府に投獄した。翌日釈放されたが、集賢殿の学者を代表して都落ちし、翌年に死去した。 真っ直ぐな性格で過ち一つすら見逃すことなく必ず諫言しすることで当時名声が高く、清白吏として録選された。諡号は恭恵だ。 著書に『資治通鑑訓議』『 貞観政要註』がある。

朝鮮/?~1445

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

趙末生(チョ・マルセン, 1370~1447年)は1401(太祖1)年に増広文科に首席合格し、監察・正言・献納を歴任した後の1407(太祖7)年、文科重試に及第し、典農寺副正となった。その後、兵曹判書まで昇進を重ねた。太宗の寵愛を受けて常に側近で補佐し、世宗が即位した際に太宗から重用してもよい人物として推薦された。 1426(世宗8)年に 金道錬が書類を操作して善良な良民約1千人を奴婢にして高位官僚に賄賂として捧げるという事件が発生した。当時趙末生は奴婢36人を得て大明律によって 絞刑に処せられるところだったが、世宗が反対し、職牒を奪われ流刑となることで済み、2年後に解放された。 1433(世宗15)年、世宗がその兵法と軍事的知識を高く買い、咸吉道都観察使に任命する。朝廷の官吏と儒学者らの強い反対があったが、北方の女真族からの防御のためには趙末生ほどの人物はないとして王がその志を曲げなかった。女真族の防御で高い功労をたてた後は、朝廷において無理に趙末生を弾劾するということはなかった。しかし息子の趙瑾・趙瓚が官職に就く際に朝廷で父の罪を理由に任命に同意しないということがあった。 その後、高齢と病気で辞職を申し出たが、世宗は趙末生を重用し、辞職を許さなかった。1439(世宗21)年には几杖を下賜され、耆老所(朝鮮時代に功労のある高齢の高位文臣出身者を礼遇する意味で設置した官署)に入り、1446(世宗28)年には領中枢院事となった。仁厚で気概があると評価され、太宗・世宗の2代にわたって重用されたが、賄賂の授受事件が一生の間障害となり、政丞の位には上れなかった。

朝鮮/1370~1447

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

趙萬永(チョ・マニョン, 1776~1846年)は1813(純祖 13)年に増広文科に及第し、検閱となった。1815(純祖 15)年には弘文録になり、持平・正言・兼文学を務めた。全羅道暗行御史として赴き、村をうまく治めていない首領を律して各種の悪弊を是正した。 趙萬永は文友と交わることを好み、南山の北側に老人亭を建て、友人と付き合い、玉水洞の漢江沿いの東湖に雙虎亭を建てて漢江の風景を楽しんだが、後に趙萬永の娘で孝明世子と婚姻した趙大妃がここで生まれた。 1819(純祖 19)年に副司直として務めていた際にその娘が世子嬪として選ばれ、豐恩府院君として王室と姻戚となった。その後、成均館大司成・禁衛大将・礼曹判書などの要職を経て、孝明世子が代理聴政をする中で吏曹判書と御営大将)を兼任した。 この頃、純祖は安東金氏の勢道政治に嫌気を感じていた。これを打開するために孝明世子の代理聴政をきっかけに世子と外戚である豊壤趙氏 が大挙選ばれた。趙萬永は弟の趙寅永などと国政の中心機関である備辺司を掌握して兵権を握り、豊壤趙氏勢道の基盤を固めた。 孝明世子が死去した数年後、孝明世子の息子である憲宗が8歳と年齢で即位し、趙萬永の娘は大王大妃となり垂簾聴政を行うことになった。しかし、趙萬永は1836(憲宗 2)年に南膺中の謀反事件と1844(憲宗 10)年の閔晉鏞の謀反事件を平定して憲宗の王権の強化に力を注いだ。 1839(憲宗 5)年には天主教を邪学と規定して己亥迫害を起こした。名分は天主教に加担あるいは幇助した者を治めるというものだったが、実際には安東金氏の勢力を退けようという目的だった。事件によって天主教に寛大だった安東金氏の勢力は打撃を受け、趙萬永は豊壤趙氏の勢道を確立すりょうになった。 1845(憲宗 11)年に長男の趙秉亀が死去したが、趙萬永は息子の死を悲しむあまり病気になり、ついに回復せずに息子の死の翌年に死去した。死後に領議政に追贈され、諡号は忠敬である。著書に『東援人物考』がある。

朝鮮/1776~1846

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

鄭太和(チョン・テファ, 1602~1673年)は1628(仁祖6)年に別試文科に丙科で及第した。 1636(仁祖14)年に丙子胡乱が勃発した際に、元帥府の従事官に任命され、都元帥金自貞の指揮下で清に立ち向かった。兎山で都元帥が逃げてしまうという急迫した状況で、鄭太和は足早に対処して黄海道から敗残兵を集めて抗戦するという戦果を挙げた。 1637(仁祖15)年には人質となった昭顕世子に仕えて瀋陽に行ったが翌年に貴国し、その年の6月に兎山での功労が評価され、湖嶺按察使として赴任した。その時、明との密約が清で明らかになり、急いで鳳凰城に赴いて清の脅迫を防いだ。また、1644(仁祖22)年昭顕世子が死去した際に鳳林大君が世子となることに反対し、昭顕世子の息子が継承すべきであると主張した。 それにもかかわらず孝宗(鳳林大君)が即位した後に右議政・左議政・領議政を務めた。20年間に5度も領議政を務め、孝宗と顕宗を補佐し、1671(顕宗12)年に70歳で耆老所(朝鮮時代に高齢の高位文臣出身者を礼遇する意味で設置された官署)に入った。1673(顕宗14)年に享年72歳で死去した。顕宗は鄭太和の死を悼んで3年間廩祿と祭需を下賜するように特命を下した。その後、顕宗の廟庭に祭られた。諡号は翼憲から忠翼に変えられた。著書に『陽坡遺稿』がある。 鄭太和は常に国益の先頭に立って国事を自分のことのように行わなければならないと主張した。大同法を拡大施行するようにし、賑恤庁を常設して飢饉と病気から民を救済するようにした。また、凶年になると官吏の月給を削減して朝廷に対する民の信頼を回復せしめた。 礼訟論爭の際には、老論と南人の見解に偏らないように折衷して国政を運営した。特に、尤庵宋時烈の北伐論に対して現実性がないと考えたが、誠実に応対して宋時烈を登用した王の意志を尊重し、宋時烈に従う士林を抱擁した。鄭太和は丙子胡乱で混乱した政局を卓越した問題解決能力をもって運営し、国を安定させるのに大きな役割を果たした。

朝鮮/1602~1673

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

鄭麟趾(チョン・インジ, 1396~1478年)は鄭興仁の息子で、権遇の門下で修学し、1411(太祖11)年に生員試に合格した。その後1414年に式年文科に首席で及第し、礼賓寺主簿として官職生活を開始した。 世宗の寵愛を受けて礼曹と吏曹の正郎を経て集賢殿学士として登用され、1425(世宗7)年に集賢殿直殿になった。1427年に文科重試で首席、再び直提学に命じられた後に昇進を重ね、左参賛にまでなった。 天文・暦算などに長け、世宗時代の中心人物として浮上した。1432(世宗14)年に元の授時暦に関する解説書として『七政算内篇』を編纂し、大統暦を改訂した。1445(世宗27)年に右参賛として朝鮮と中国の政治の鑑となるような資料を集めて『治平要覧』を編纂した。 翌年には集賢殿大提学として訓民正音の創製に参与し、訓民正音の序文を撰進した。その後 1447(世宗29)年に初のハングル文献・楽章の『龍飛御天歌』を刊行した。これ以外にも簡儀・圭表・自撃漏などの事業にも参与し、朝鮮最高の科学者としての役割をも果たした。 1451(文宗1)年、金宗瑞と共に『高麗史』を改撰し、翌年に再びこれを要約して追加の内容を含めて『高麗史節要』を編纂した。また、同年に『世宗実録』編纂事業にも参与するなど、歴史書の編纂にも大きな功労を立てた 1452年に端宗が即位し、兵曹判書となって兵権を管掌して端宗を補佐した。しかし、皇甫仁・金宗瑞などに排斥されて閑職の判中枢府事になり下った。このような処遇に不満を抱き、1453(端宗 1)年に 首陽大君が主導する癸酉靖難に参与した。癸酉靖難の成功により功労が認められて左議政に昇進し、靖乱功臣一等として河東府院君に奉じられた。 1468(睿宗1)年、南怡の獄事を治めた功労により再び翊戴功臣三等となった。1470(成宗 1)年には元老大臣として政事を総括し、1471(成宗 2)年には成宗の即位に及ぼした功労で再び佐理功臣二等として採録された。 鄭麟趾は朝鮮前期を代する学者であり文人である。しかし、後に致富に熱中して多くの財産を蓄積し、田園を広く設置するために近隣の人家まで侵犯するなどして批判されたこともあった。諡号は文成で、文集として『学易齋集』がある。

朝鮮/1396~1478

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

鄭汝昌(チョン・ヨチャン, 1450~1504年)は贈漢城府左尹鄭六乙の息子で、1450年に慶尚南道咸陽で生まれ、現在のソウル特別市中区会賢洞1街にあたる地域に住んでいた。 1467(世祖13)年に父親の鄭六乙が李施愛の乱で兵馬虞候として戦いに出て戦死したのだが、鄭汝昌は自ら父親の亡骸を捜して葬儀を行った。これを嘉した世祖が義州判官の職を命じたが最後まで遠慮した。 その後、朝鮮前期の新進士林の巨頭金宗直の門下に入り、金宏弼等と共に性理学を研究した。22歳の頃から成均館に入学し、成均館の儒学者となった。何度も官職に推薦されたが、学問の研究にのみ志を置いて遠慮した。1483(成宗 14)年に司馬試に合格し、成均館上舍の同列から鄭汝昌を理学として推薦した。 鄭汝昌は1486(成宗 17)年に母親が死去したが、3年間礼を尽くして侍墓の生活を送った。その後、智異山晋陽の岳陽蟾津渡り場に家を建てて学問にまい進したが、1490(成宗 21)年に尹就によって孝行と学識があることで推薦されて 昭格署参奉となった。その年の別試文科に丙科で及第し、芸文館検閱を経て世子侍講院設書となり、後に燕山君となる東宮に学問を教えた。 1498(燕山君4)年に戊午士禍が起こり、金宗直が弾劾されたが、鄭汝昌もまた金宗直の門人として巻き添えになった。鄭汝昌は金馹孫が『成宗実録』に書いた先王を誹謗する内容の文に対して知らせなかったという罪で咸鏡道鍾城に流刑にされた。1504(燕山君10)年に流刑の地で死去し、死後、剖棺斬屍(死後に生前の罪が明らかになった場合に墓を壊して棺をあけ屍の首を斬る刑罰)された。中宗の時代に右議政に追贈され、宣祖の時代に文献公という諡号が下賜された。 著書に『庸学註疏』『主客問答設』『 進修雜著』などがあったが、戊午士禍の際にすべて焼失し、現在は鄭逑の『文献公実記』にその遺集が伝えられている。

朝鮮/1450~1504

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李荇(イ・ヘン, 1478~1534年)は1495(燕山君1)年に増広文科に丙科で及第し、『成宗実録』の編纂に参与し、明に使臣として行くなど、官吏としての能力を認められた。また、学問的にも高い資質を持つ人に与えられた 賜暇読書をするほど学問と文学にも一見識があった。その後、司諫院・司憲府・弘文館などの官職で広く能力を発揮した。 李荇が生存していた時期は、新進の学者が禍に遭う士禍が頻繫にあり、政局が不安だった。しかし、李荇は自分に不利な状況にぶつかるであろうことを知りながらも、言うべきことは言う人物だった。1504(燕山君10)年、弘文館に在職中だった李荇は、燕山君の生みの親の廃妃尹氏の復位に反対し、甲子士禍の巻き添えとなり流刑となった。この士禍により親しい友人であった朴誾も世を去った。 1506(中宗1)年、中宗反正により再び官職に復帰した李荇は昇進を重ね1517(中宗12)年には大司憲となった。しかし、趙光祖などの新進士類により排斥されて辞職した後の1519(中宗14)年、己卯士禍により趙光祖が失脚したことで再び官職に就き、昇進を重ねて左議政に任命された。この時、李荇は政丞の身分で南山の麓の青鶴洞(現在の中区芸場洞一帯)に家を建てて居住し、後学を指導した。しかし、金安老が政局を壟断(利益や権力を独占すること)していることを批判し、金安老の一派の反撃により流刑となって平安道咸従で死去した。 李荇は文章と字、絵にも優れた才能を示し、書籍の刊行にも寄与した。1530(中宗25)年に『 新增東国輿地勝覧』の責任を担って完遂したのはもちろん、個人的に親しい友人であった 朴誾の詩文集を編集し、『挹翠軒遺稿』を編集し、個人文集として『容齋集』を残した。特に李荇は、特に詩に長け、それが認められて朴誾と共に海東江西詩派として評価されている。諡号は文定だったが、後に文献に変わった。

朝鮮/1478~1534

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李至男(イ・ジナム, 1529~1577年)は崇礼門の外のジャンパウィゴル(現在の中区巡和洞203)で生まれ、そこに住んでいた。幼い頃に学んだ『小学』の孝に関する内容を生涯にわたって実践した。 淳昌郡守として左遷された父親について行ったが、淳昌で金麟厚(キム・インフ)に出会い弟子となった。金麟厚は孝行と忠節などを重視し、李至男はそのような学問的影響をそのまま受け継いで実践することに努めた。 父親が都落ちした地で死去した後、3年間にわたって侍墓する間、李至男の慟哭の声が絶えなかったというほど、その孝行は国中に知られた。そのような名声により1577(宣祖10)年に学と徳のある学者として推薦されて 昭格署参奉に命ぜられた。しかし、同年、病気の母親を看護していて健康が悪化し、死去した。 李至男は李基稷・李基卨の二人の息子と結婚していない娘がいたが、息子娘らもこの上ない孝行心を持っていた。長男の基稷と娘も、父親の死を悲しむあまり享年23歳と18歳で死去し、孝行者として知られた。李至男の母親の安氏と李至男の夫人は、節婦で、息子の基稷と基卨、そして娘がすべて李至男と共に表彰され、一つの家に6つの紅門が立てられ、これに感化された仁宗は『孝子三世』という額を下賜した。紅門とは、忠臣・孝行者・烈女などが住んでいた村の入口や家の前に、その行いを広く知らせ奨励するために国で立てた赤い門のことをいう。 その後、基卨の息子の李惇五と惇五の妻の金氏、そして基卨の次男の李惇敍が丙子胡乱の際に江華で皆節義を守って死んだことから、旌閭され、李至男の家門には8つの紅門が立てられることになった。

朝鮮/1529~1577

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李浚慶(イ・ジュンギョン, 1499~1572年)は漢城府東部蓮花坊(現在の中区蓮池洞一帯)で生まれ、チャンセムゴル(現在の 中区双林洞・墨井洞一帯)で居住していた。若い頃からソンビ(学者)の間でも名望が高く、剛直かつ清廉で、当時の人々は兄の李潤慶と共に『二鳳』と呼んだ。 李延慶(イ・ヨンギョン)の門下で性理学を学び、29歳で成均館に入った。 1531(中宗26)年に式年文科に乙科で及第し、承文院に入ったが翌年、弘文館正字になった。己卯士禍で禍に遇った人々の無罪を主張したことで、逆に権臣金安老の一派の策略により罷免された。1537(中宗32)年に戸曹佐朗として復職し、要職を務めた。1555(明宗 10)年には乙卯倭乱を鎮圧した功労により兵曹判書を兼任し、昇進を重ねて1565年に領議政になった。 李浚慶は朋党(朝鮮中期以降、特定の学問的・政治的立場を共有する両班が集まって構成した政治集団で、ここにはその集団の間の政治的争いのことをいう)がもたらされた時期に各 朋党の均衡のために努めた。己卯士禍で禍に遇った趙光祖の官爵を追贈し、乙巳士禍の際の被害者を流刑から放免し、官爵を回復させた。このように李浚慶は、士禍によって被害を受けた学者を先頭に立って救い、多くの人々がその功績を称えた。しかし、一方で新進士類などの改革論議を抑制しようという保守的な立場を堅持し、批判も受けた。 1571(宣祖4)年に領議政を辞任した翌年に死去した。彼は死を前にして王に上疏文を捧げ、学問を疎かにしないことと、威儀をもって臣下に接見すること、君子と小人を分別して登用すること、今後朋党が起こることが予想されるので、これを打破することなどを進言した。死を前にしてまで朋党による政局の壟斷(利益や権力を独占すること)を最も心配していたわけだ。 1590(宣祖23)年、光国原従功臣)一等に追録され、1602(宣祖35)年には清白吏に指定された。諡号は忠正で、著書に『東皐遺稿』『朝鮮風俗』などがある。

朝鮮/1499~1572

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李廷馣(イ・ジョナム, 1541~1600)は漢城府西部盤石坊翰林洞(現在の中区中林洞)に住んでいた。1558(明宗 13)年に司馬試に合格して進士となり、1561(明宗 16)年に式年文科に丙科で及第して正字となった。その後、検閱・成均館典籍・工曹・礼曹・兵曹の佐郞などを歴任し、 全羅道都使・咸鏡道都使・京畿道都使を経て兵曹正郞に転任した。 1571(宣祖4)年に礼曹正郞・持平として春秋館の職責を兼任し、『明宗実録』の編纂に参与した。翌年、成均館司芸に除授された。楊洲に牧使として赴任し、郷校と道峰書院を改修し、大同法を実施して煩わしい賦役をなくすなどの治績を積んだ。 1592(宣祖25)年、壬申倭乱が起こると国事をだめにした責任を感じて自尽して首をつったが、命を助けてくれた人がいて死ぬことができず、後になって王に扈従した。この頃、開城留守として務めていた弟の李廷馨と共に開城を守備していたが、開城が反落し、黃海道招討使として義兵を募って活躍した。延安城を守備していた際に倭将の黒田長政が率いる倭軍約6,000人を大破し、その功労で黄海道観察使兼巡察使となった。 1596(宣祖29)年には忠清道観察使として李夢鶴の乱を平定するのに功労を立て、1597(宣祖30)年丁酉再乱が起こると海西招討使として首陽山城を守った。乱が終わった後に辞職し、京畿道豊徳に引退して詩文を作って歳月を送った。 1604(宣祖37)年に延安城の守備で功労を立て、宣武功臣二等として月川府院君に奉じられ、左議政に追贈された。諡号は忠穆だ。著書に『喪礼抄』『読易抄』『倭変録』『西征日録』などがある。

朝鮮/1541~1600

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李元翼(イ・ウォンイク, 1547~1643年)は京畿道衿川縣(現在の京畿道光明市)生まれで、1564(明宗 19)年に司馬試に合格し、1569(宣祖2)年に別試文科に丙科で及第した。翌年、承文院副正字となり、それに次いで正字・著作兼奉常寺直腸を歴任し、1573(宣祖6)年には成均館典籍になった。その年、聖節使権徳與の質正官として明に行って来た後に戸曹・礼曹・刑曹の 佐朗を経て翌年には黃海道都事に除授されて様々な官職を広く歴任した。 1592(宣祖25)年に壬申倭乱が起こり、吏曹判書として平安道都巡察使の職務で王が避難する道程を先導する一方、 金命元(キム・ミョンウォン)を助けて軍の紀綱を確立した。平壤が陥落すると、定州に行って軍卒を募集し、観察使件巡察誌使となって倭兵の討伐に戦功を立てた。1593年には明の将帥李如松と力を合わせて平壤を奪還し、その功労により崇政大夫として奉じられた。 1595(宣祖28)年に明の将帥丁應泰が楊鎬を中小謀略した事件が発生し、領議政の柳成龍の代わりに陳秦弁誣使として明に赴いた。李元翼はこの時の功労で領議政に除授されたが、柳成龍が李爾瞻などの攻撃を受けて辞職することになると、これを弁護する上疏を出して自身も辞職した。 1600(宣祖33)年に左議政を経て四道都体察使に任命され、嶺南と西北地方を巡撫した。 1604(宣祖37)年に扈聖功臣 二等として完平府院君に奉じられた。 1608(光海君 1)年に領議政に重任され、このときに民生の安定のために大同法を京畿道で実施した。光海君が臨海君・永昌大君を処刑しようとするのを極力反対して流刑となり、1623(仁祖1)年に仁祖反正によって領議政に除授された後にはむしろ光海君の事々を命がけで反対した。 翌年、李适の乱が起こると、仁祖を忠清道公州まで随行し、1627年に丁卯胡乱が起こった後には世子を全羅道全州まで随行した。 末年に官職から退いた後は学問の研究と後学の養成に余生を送ったが、門人としては許穆・尹鑴などがいる。庶民的な性格で、文章に長け、梧里政丞として多くの逸話が伝えられている。清白吏として定められ仁祖の宗廟に祭られた。著書に『梧里集』『続梧里集』『梧里日記』がある。

朝鮮/1547~1643

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李安訥(イ・アンヌル, 1571~1637年)は漢城府モクチョルコル(現在の中区墨井洞)に住んでいた。1588(宣祖21)年に18歳で進士試に一等で合格したが、同僚に陥れられて科挙を放棄し、権韠・尹根寿・李好閔などと共に東岳詩壇をつくって南山の麓で詩を詠んで風流を楽しんだ。 29歳になった年の1599(宣祖32)年に再び科挙を受けて文科に及第し、承文院に補任された。その後、病気により辞職した期間を除いてはさまざまな言官職を歴任し、左副承旨・江華府使を歴任した。 1623(仁祖1)年の仁祖反正で礼曹参判となったが、中傷謀略を受けて辞職した。李适の乱が平定された後に、李适を傍観したという理由で咸鏡道北辺に流刑となったが1627(仁祖5)年に丁卯胡乱が起こり赦免された。 1636(仁祖14)年に再び丙子胡乱が起こると、病気の体で王に随行し、南漢山城まで行ったが、還都後に病気が悪化して死去した。王の車駕に随行した功労で崇祿大夫・議政府左賛成 兼弘文館大提学・芸文館大提学に追贈された。諡号は文恵だ。 著書に『東岳集』26巻が伝わるが、ここには4,379首という膨大な量の詩が残されている。特に、唐詩に長け、李太白に比ゆされており、字も名筆として知られている。特に作品の中に民の生活の様子を事実的に表現し、当時の状況を理解するのに良い資料となっている。

朝鮮/1571~1637

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李山海(イ・サンヘ)は1539(中宗34)年にソウル皇華坊(現在の中区貞洞)で生まれた。叔父の之菡に学問を学んだ。7歳で文章を書くほど聡明で神童と呼ばれ、1549(明宗 4)年に科場に出て一等となったこともある。 1558(明宗 13)年に司馬試に合格し、1560年謁聖試で首席、翌年の式年文科に丙科で及第した。明宗の命を受けて景福宮大額を書き、その後昇進を重ねた。賜暇読書を終えた後の1570(宣祖3)年、同副承旨に昇進し、5年間 大司成・礼曹参議などを順に歴任した。 1575(宣祖8)年、父が他界したことで辞職したが、喪が明けた後に兵曹参判などを広く務め、翌年に吏曹判書に転任したが、母親が他界し辞職した。喪が明けた後の1583(宣祖16)年に右賛成に起用されたが、1588(宣祖21)年に右議政に徐授を賜った。この頃、東人が北人と南人に分裂し、北人の領袖となって政権を掌握した。 1589(宣祖22)年に左議政を経て間もなく領議政に昇進した。同じ年に鄭汝立の謀反事件の己丑獄死が起こり、これに巻き添えとなる危機に処したが、宣祖の加護により免れ、 宗系弁誣の功労により光国功臣三等となったと同時に鵝城府院君に奉じられた。 1591(宣祖24)年に鄭澈を弾劾して流刑にし、これと同時に同じ西人だった尹斗寿・尹根寿なども退けて東人が執権を確固たるものにした。翌年、壬申倭乱が起こると王に都城を離れることを勧め、この時王に随行した。しかし、壬申倭乱が終わった後、国王に都城を離れさせたという官僚らの追及により弾劾され、3年間江原道平海に流刑となった。 1595(宣祖28)年に解放され領敦寧府事として復職した。1599(宣祖32)年に再び北人の領袖となり、領議政に就いたが、1602(宣祖34)年に職位から退いた。その後、領中枢府事と耆老所で大臣となった。宣祖が逝去すると元老大臣となり、国政を担ったが間もなくソウルで死去した。

朝鮮/1539~1609

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李景夏(イ・ギョンハ, 1811~1891年)は、1863(哲宗14)年、高宗が即位して興宣大院君が執権すると、訓錬大将兼左捕盗大将を務めた後に禁衛大将と刑曹判書を歴任した。大院君が天主教を弾圧した際に、捕盗大将として多くの天守教徒を死に追いやった。当時、李景夏が住んでいた駱洞(現在の中区明洞2街)の自宅で罪人を尋問したことから、人々は李景夏を「駱洞閻羅」と呼んだと伝えられている。 1866(高宗3)年に天主教神父の身辺保護を理由に、フランスが起こした丙寅洋擾の際に巡撫使として抜擢され、都城の守備を担った。1882(高宗19)年に武衛大将として在職中に壬午軍乱が起こり、鎮圧に失敗した責任を問われ、全羅道古今島に流刑となった。 1884(高宗21)年、興宣大院君の信任により解放されて再び左捕盗大将となった。その年の12月に甲申政変が起こり、趙大妃・閔妃と共に後に純宗となる世子を自分の息子である範晋の家に避難させたこともあった。1891(高宗28)年、享年81歳をもって死去するまで主に軍事・警察の要職を務めて治安を担当した。諡号は襄肅である。

朝鮮/1811~1891

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

李敬輿(イ・ギョンヨ)は現在の中区南山洞3街の映画振興公社付近に住んでいたと推定される。 1601(宣祖34)年、司馬試を経て進士となり、1609(光海君 1)年に増広文科乙科に及第した。1611(光海君 3)年、検閲となったが、政治に失望して外職の縣監を申し出、その後、官職を捨てて都落ちした。 1623(仁祖1)年、仁祖反正により再び起用され、副修撰・副教理を務めた。翌年、 李适(イ・グァル)の乱が起こり、王を忠清道公州まで扈従した。引き続き体察使李元翼(イ・ウォンイク)の従事官となり、兼文学となって世子を侍講した。 1630(仁祖8)年には副提学・清州牧使・左承旨・全羅道観察使を歴任した。1636(仁祖14)年、丙子胡乱が起こり、王を南漢山城に扈従し、翌年、慶尚道観察使・吏曹參判・刑曹判書などを歴任した。吏曹參判として大司成を兼任しながらソンビと呼ばれた学者養成の方策を王に上進した。 1642(仁祖20)年、李烓(イ・ゲ)が李敬輿を排清親明派だとして清の年号を使用しなかったという事実を密告した。これにより清に捕らえられて行ったが、朝廷で罰金を払って帰国した。1644(仁祖22)年に謝恩使として清に行ったが、過去のことで再び抑留されていたが、世子に従って帰ってきたことにより再び抑留されていたが、世子に従って戻ってきた後に領議政となった。 1645(仁祖23)年に昭顕世子が死去したが、仁祖は世孫がいたにもかかわらず昭顕世子の弟の鳳林大君, 孝宗)を世子に定めた。李敬輿はこれに対して反対の意志を強く主張した。 1646(仁祖24)年には愍懷嬪姜氏の賜死を反対したことで都落ちしたが、孝宗が即位した際に特赦により再び宰相の身分に戻った。 1657(孝宗8)年に持病により自宅で死去した。諡号は文貞で、著書に『白江集』がある。

朝鮮/1585~1657

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

尹煌(ユン・ファン)は1572(宣祖5)年に漢陽の邸宅で生まれ、南山の麓(現在の中区筆洞2街)で暮らした。1597(宣祖30)年に謁聖文科乙科に及第し、承文院副正字に任命された。その後、刑曹佐郞・兵曹佐郞・礼曹佐郞などさまざまな官職を歴任したが、1615(光海君 7)年に軍資監正に転職した。 1616(光海君 8)年に姻戚の海州牧使崔沂(チェ・ギ)が濫刑罪で投獄されたが、彼に会いに行ったことから弾劾され、罷免された。その後、忠清道尼山に隠居していたが、1623(仁祖1)年の仁祖反正で再び登用され、大司諫・修撰・同副承旨・吏曹参議などを歴任した。 1627(仁祖5)年の丁卯胡乱と1636年の丙子胡乱の際には司諫として斥和を協力に主張し、斥和臣として行くことを申し出たが許諾されなかった。還都後に上疏文の中に不遜な一節があるとして永同に流刑にされたが、許されて1638(仁祖16)年に尼山に帰ってきたが、翌年に病死した。 後に尹煌は、人となりが剛直で節義があると評価された。死後に領議政に追贈され、諡号は文正である。著書に『八松封事』がある。

朝鮮/1572~1639

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

尹宣挙(ユン・ソンゴ)は1610(光海君 2)年に全羅道靈光で生まれ、現在の中区忠武路4街に住んだ。1633(仁祖11)年、生員・進士試に合格して成均館に入学した。 1636(仁祖14)年、清の使臣が入国した際に、明に対する義理を守るために使臣の首を斬るように上疏した。 同年12月に丙子胡乱が起こり、江華道に避難した。そこで尹宣挙は殉節しようと決心したが、夫人だけが自決し、本人は平民の服装で脱出した。戦乱の後、生涯にわたって数十回も呼ばれたが、戦争中に節義を捨てて生き残ったことに対する贖罪として生涯官職には就かなかった。 1642年に忠清道尼山で金集の門人となった。宋時烈(ソン・シヨル)・尹鑴(ユン・ヒュ)・尹善道(ユン・ソンド)などとの親交を深め、礼学を研究し始めた。慈懿大妃の服喪の問題で南人の尹鑴と西人の宋時烈の間に対立が生じた。葛藤が続いていたが、朱子経伝註解の変改問題に対する対立において尹鑴の立場もある程度受容する方向に弁護をし、宋時烈との関係が疎遠となった。 1669(顕宗10)年に宋時烈に南人との党争を止めて彼らを登用することを提案した「己酉擬書」を書いた。しかし、これを送ることができずに死去し、息子の尹拯(ユン・ジュン)が代わりに宋時烈に伝達したが、受け容れられなかった。このことで尹拯と宋時烈との関係まで悪化し、後に西人이が老論と少論に分党するきっかけとなった。 1710(粛宗36)年、領議政に追贈され、1711(粛宗37)年に文敬という諡号を受けた。著書に『魯西遺稿』『家礼源流』『癸甲録』などがある。

朝鮮/1610~1669

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

沈象奎(シム・サンギュ, 1766~1838年)は朝鮮後期の文臣で、漢城府松峴(現在の中区北倉洞)で暮らしていた。1781(正祖5)年、15歳で進士となり、成均館で学業を磨き、1789(正祖13)年に謁聖文科に丙科で及第し、奎章閣の待教・直閣を歴任し、翌年に『弘齋全書』の編纂に参与した。1791(正祖15)年政争に巻き添えになり江原道高城に流刑になったが、間もなく放免となり奎章閣で『五倫行実』などの編纂事業に力を注いだ。 その後、1798(正祖22)年、承旨をしばらく務め、閣臣として長い間在職して正祖を補佐し、文物を整理した。正祖の時代に奎章閣の抄啓文臣に選任され、王の寵愛を受けて象奎という名と穉教という字を下賜された。正祖の死後に『遷陵碑文』を作った。 1800(正祖24)年、純祖が即位し、吏曹参議に起用されたが、貞純王后金氏が幼い王に代わって垂簾聴政したことで辟派が権力を得たことで時派であった沈象奎は弾劾されて咸鏡道洪源に流刑になったが、その後また起用され、大司諫・吏曹参判を歴任し、1804(純祖 4)年、実録庁 編修堂上官となり『正祖実録』の編纂に参与した。 1809 (純祖 9)年、都承旨となり正卿となった。1811(純祖 11)年、兵曹判書を務めていた時に洪景来(ホン・ギョンレ)などが主導した平安道農民抗争が起こったが、これを鎮圧した。  1825(純祖 25)年に右議政となり、代理聴政することになった世子を補佐して『庶政節目』を 撰進した。この時、豊徳府の廃止を主張したことで大司諫任存常(イム・ジョンサン)から弾劾され、江原道利川に流刑になったが、間もなく放免となる京畿道長湍の故郷に都落ちした。1832(純祖 32)年に再び起用されて左議政となり、1834(純祖 34)年に領議政となったが、純祖が逝去した後は元老大臣として王の世子の師匠と護衛隊長を兼任した。 文章に長け、優れた筆法をもって当時の第一人者とされるほど詩文にも造詣が深かった。著書に 『斗室存稿』『斗室尺牘』があり、特に沈象奎が編纂した『萬機要覧』は君主が政務を行うのに必要な資料や税金・経済・戦術に関する部分が記録されており、とても重要な資料として評価されている。諡号は文肅である。

朝鮮/1766~1838

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

沈鋼(シム・ガン)は1514(中宗9)年に漢城府会賢坊分戶曹、現在の中区会賢洞で生まれた。20歳にならないうちに経書をすべて暗誦するなど、幼い頃から明晰だった。 1543(中宗38)年に進士試に合格し、翌年に娘を大君だった明宗に嫁入りさせ、王室と婚姻を結んだ。1545(明宗 1)年、明宗が即位した後に領敦寧府事兼青陵府院君に奉じられた。1548(明宗 3)年には五衛都摠府都摠管となった。1558(明宗 13)年に父親が他界したことから辞職し、喪の期間が終わった後に領敦寧府事と都摠管を兼任した。1563年には新進士大夫として権臣の李梁(イ・ヤン)によって禍に遭いそうになったが、朴淳(パク・スン)などを救って李梁を退け、高く称揚された。生涯にわたって王を補佐して善政を施すようにし、王に過ちがないように朝廷を安定させる役割を果たした。 1564(明宗 19)年に病に伏し、1567(明宗 22)年に死去した。病床にあっても父親の忌日には自ら祭祀を奉るなど、孝行心に長けていた。諡号は翼孝で、思慮深く、慈愛に満ち、人々を愛するという意味がある。

朝鮮/1514~1567

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

成俔(ソン・ヒョン, 1439~1504年)は、1439(世宗21)年漢城府 萬里峴(現在の中区中林洞)で生まれ、生涯ソウルで暮らした。1459(世祖5)年に進士に合格し、1462(世祖8)年に式年文科に及第し、芸文館に入って 弘文館正字を兼ねた。これに満足することなく1466(世祖12)年に拔英試にも及第し、博士として登用された。1468(睿宗1)年には兄の成任(ソン・イム)について明に行く途中で詠んだ詩を集めて『観光録』としてまとめたが、その優れた文章力に中国人も感嘆したとされている。 1475(成宗 6)年に韓明澮(ハン・ミョンフェ)に従って二度目の明行きを果たしたが、翌年に 文科重試に丙科で及第した後に大司諫になった。1485(成宗 16)年、僉知中枢府事として千秋使となり明に行って来た後に同副承旨などを務めた。 1488(成宗 19)年に明の使臣董越と王敞を迎え、接待の宴で互いに詩を交換したが、中国の詩人は 成俔の優れた詩才に感服したとされ、その後、朝鮮に行く者があれば必ず成俔の安否を尋ねたとされている。 1490(成宗 24)年、掌楽院の提調として高麗の歌詞から〈雙花店〉・〈履霜曲〉・〈北殿〉などの内容を改作した。1493(成宗 24)年礼曹判書と掌楽院提調を兼職しながら王命に従って柳子光(ユ・ジャグァン)・申末平(シン・マルピョン)などと共に儀軌と楽譜を整理し、『楽学軌範』を編纂した。これはこの国の音楽史上もっとも膨大かつ貴重な業績であった。 1497(燕山君3)年、漢陽府判尹となり、その後工曹判書とし大提学を兼任し、次いで左賛成に至ったが1504(燕山君10)年に死去した。死後、数か月も経たずに甲子士禍が起こり、剖棺斬屍(死後に生前の罪が明らかになった場合に墓を壊して棺を開けて死体の首を斬る刑罰)されたが、中宗の時代に汚名が晴らされた。諡号は文戴である。 著書に『楽学軌範』『慵齋叢話』『浮休子談論』『奏議稗說』『錦囊行跡』などがある。この中でも『慵齋叢話』は高麗の頃から朝鮮に至るまでの風俗と説話などの内容で、歴史的な資料として高く評価されている。

朝鮮/1439~1504

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朴彭年(1417~1456)は、朝鮮前期の文臣で、死六臣の一人だ。字は仁叟、号は酔琴軒、諡号は忠正だ。1434年(世宗16)、謁聖文科(朝鮮時代に王が成均館の文廟に参拝した後に行った文系)に乙科で合格、1438年(世宗20)に賜暇読書(人材育成のために、若い文臣に休暇を与え学問に専念させた制度)をしたほど、世宗に寵愛された。成三問と共に集賢殿に抜擢され、ハングル編纂に参加した。集賢殿でも経学・文章・文字・詩などすべての面において優れ、集大成という称号を得た。 朴彭年は、文宗から幼い端宗の世話を任され、1453年(端宗1)右承旨を経て翌年刑曹参判になった。1455年(世祖1)王により忠清道観察使に命じられ、翌年再び刑曹参判になった。1456年(世祖2)、成三問・河緯地・李塏・柳誠源・兪応孚・金礩などと端宗復位運動を推進したが、金礩が密告して処刑された。1691年(粛宗17)に官爵を回復し、1758年(英祖34)吏曹判書に贈職された。 朴彭年は気性が落ち着いて口数が少なく、小学の礼節通り一日中きちんと座ったまま衣冠を脱がないため尊敬され、著述は伝わってない。端宗復位事件後、普段の彼の才能を高く買っていた世祖が密かに何度も懐柔したが、朴彭年はこれをすべて拒絶したという。父の朴仲林と弟の大年、息子の憲・珣・奮もすべて処刑された。現在の中区筆洞2街に、朴彭年が住んでいた家址が残っている。

朝鮮/1417~1456

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朴趾源(パク・ジウォン, 1737~1805)年は朝鮮後期の文臣であり実学者で、『熱河日記』『燕巌集』『許生伝』などを残した優れた文章家である。漢城府盤松坊冶洞で生まれ、本貫は潘南、字は美仲、号は燕巌である。朴趾源は名門家で生まれ、若い頃からとても優れた文学的才能を現し、努力もまたすばらしかった。しかし、科挙の試験では志を果たすことができず、ひたすら学問と著述に専念した。 1768(英祖44)年に現在の仁寺洞附近にあたる白塔の近所に引越し、朴齊家(パク・ジェガ)・李書九(イ・ソグ)、柳得恭(ユ・ドゥッコン)などと交遊した。1780(正祖4)年には使行団に随行して北京と熱河一帯を旅行した後に、その見聞を整理した『熱河日記』を著述した。 朴趾源の思想的な幅はとても広く多様であった。文物が眩いほどに発展していた清に学ぼうという趣旨の「北学」を主唱し、天文学に造詣が深かった。朴趾源はまた、西学として知られていた天主教にも深い関心を持っていた。朴趾源はこのような思想を広く受け容れて、性理学として硬直した朝鮮の固陋な思想を廃して現実問題の改革を図ろうとした。 朴趾源が残した小説はとても斬新で、文化的な成就に優れた作品だと評価されている。その中でも、友人と共に明け方に清渓河の一帯と鐘閣附近を歩いたことを素材として書いた『醉踏雲従橋記』は特に有名だ。この作品の中で朴趾源は、澄んで静かなソウル都心の風景が美しく描写され、自分と友人の自負心、そして世の中に対して感じる疎外感をそれとなく表わしている。著書に『熱河日記』『燕巌集』などがある。1910(純宗4)年に左賛成として追贈され、文度公の諡号が与えられた。

朝鮮/1737~1805

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朴誾(パク・ウン, 1479~1504)年は朝鮮中期の文臣であり詩人で、漢城府の南部長興洞で生まれた朴誾は幼い頃から秀麗な容貌に英明さを持ち合わせ、周りの期待を一身に受けていた。李荇(イ・ヘン)によると、朴誾は4歳で字を読み、8歳の時には文章の深い意味まで把握し、15歳の時には文章を自由自在に書いたとされている。芸文館大提学だった申用漑(シン・ヨンゲ)が朴誾の優れた才能を見て婿とした。 1495(燕山君1)年に進士試に合格し、18歳の1496(燕山君2)年に式年文科に丙科で及第した。学問に対する秀でた才能が認められ、大科に合格した年に賜暇読書者に選ばれたこともあった。その後、 弘文館に在職しながら剛直な言路を開き、燕山君とその臣下に憎まれるようになった。 燕山君は朴誾の強い諌めに説得された部分もあったが、1501(燕山君7)年に柳子光(ユ・ジャグァン)を弾劾して結局のところ官職を罷免された。その後朴誾は、酒を飲み詩を作ることで不安な心を慰め、歳月を送った。この時に書いた詩は高い芸術性ががあることで有名だった。朴誾が詩で暮らしている間、家庭を担っていた妻の申氏が25歳という若さで死去し、朴誾は絶望の極みに立った。翌年1504(燕山君10)年、甲子士禍の巻き添えになり東萊に流刑となり、その後、義禁府に遣られて死刑となった。 朴誾は親しい友人の李荇と共に精巧な宋詩風の詩を目指した「海東江西詩派」の代表的な人物である。 朴誾の死後、李荇がその詩を集めて『挹翠軒遺稿』を編纂した。

朝鮮/1479~1504

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朴承宗(パク・スンジョン, 1562~1623年)は朝鮮中期の文臣で、光海君の時代に領議政を勤めた人物である。朴承宗は1586(宣祖19)年に別試文科に丙科で及第した後に、奉教・副提学・兵曹判書・左議政・領議政などの主要な官職を広く務めた。また、息子の朴子興(パク・ジャフン)の娘が光海君の世子嬪に選ばれ、密陽府院君として奉され、不足のない権勢を教授していた。しかし、家勢の繁栄という私的な慾を追い求めることなく、 大義に立脚して光海君の仁穆大妃の廃位を積極的に反対した。 1612(光海君4)年、光海君が仁穆大妃を排除するために大妃が住んでいた慶運宮に人を乱入させる事件が発生すると、朴承宗は死を覚悟で仁穆大妃を保護した。その後も仁穆大妃を守ろうという朴承宗の努力が続いたが、1617(光海君9)年に 仁穆大妃の廃母論が本格的に台頭したことから、廃母反対を先頭に立って主張した。1623(仁祖1)年、仁祖反正により光海君が放逐されると、息子の朴子興と共に首をつって自害した。光海君と姻戚関係にあったとい理由から、仁祖反正が成功した後に官位を褫奪され、財産が没収されたが、後に汚名を晴らした。 ソウル特別市中区筆洞に「挹白堂址」と書かれた標石があるが、そこが朴承宗の家址である。挹白堂は朴承宗の二番目の息子である朴自凝(パク・ジャウン)が付けた堂号で、挹白の白は仁穆大妃の居所であった西宮を意味する。すなわち、朴承宗が仁穆大妃を守ろうとした心を息子が受け継いで「挹白」という堂号に表現したというわけだ。朴自凝は仁祖反正以後に流刑に処せられたが、後にこの堂号が根拠となって身の証しを立てた。

朝鮮/1562~1623

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

南在(ナム・ジェ, 11351~1419年)は朝鮮の開国功臣で、李成桂の威化島回軍を補佐し、朝鮮が開国された後に大司憲と右議政、左議政を務めた人物である。本貫は宜寧で、初名は謙、字は敬之、号は亀亭である。南在は李穡(イ・セク)を師と仰ぎ、一緒に修学していた鄭夢周(チョン・モンジュ)、鄭道伝(チョン・ドジョン)などと親しかった。1371(恭愍王20)年に進士試に及第して官職を命じられた。李成桂が 威化島回軍により政権を握ると、弟の南誾(ナム・ウン)と共に李成桂の側に立ち、政局を図った。 朝鮮の建国を目前に、功労が認められ褒賞を受けることになると地方に身を隠した。すると李成桂は全国を探して在という名を賜り、再会した喜びを表わした。朝鮮の開国後、開国功臣一等として録勲され、判中枢院事、 参賛門下府事を務めた。鄭道伝の急進的な改革に抵抗を感じて距離を置いたことで、王子の乱では禍を逃れた。1403(太祖3)年に慶尚道観察使、1404(太祖4)年に賛成事、1408(太祖8)年に大司憲を歴任した後に 1414(太祖14)年に右議政と左議政を経て1416(太祖16)年に領議政に任命されたが辞任した。1419(太祖19)に死去すると国が葬地を定め、世宗が弔問に訪れた。 南在は闊達な品性で、度量が大きく、形式にとらわれることがなかった。しかし、心構えは慎重で、礼儀に反することはなかった。文章は美しく深みがあったと評価され、 算術に精通し、南算と呼ばれていた南在の自宅は現在の奨忠洞一帯の漢城府の明哲坊に位置し、宅地に 翠微堂を建てたとされているが、現在は残っていない。

 

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

南宮檍(ナムグン・オク, 1863~1939年)は、旧韓末と日本統治期に活動した独立運動化であり教育者・言論人で、独立協会を創立し、『皇城新聞』を創刊した。1883(高宗20)年に外国語の通訳官の養成を目的に設立された通弁学校に入学し、1884(高宗21)年に最優等で卒業した。その後、内部主事と漆谷郡守を務めた。 1894(高宗31)年の甲午更張の直後、南宮檍は内部土木局長に任命され、ソウルの鐘路・貞洞・六曹・南大門一帯の道路を整備し、パゴダ公園を造成するなど、現在のソウル都心の姿の基礎を築いた。 1896(高宗33)年に明成大后が殺害され、身辺に危険を感じた高宗がロシアの公館に身を寄せた俄館播遷が起こった際に官職を辞任し、独立協会を創立して『皇城新聞』を創刊し、民族思想を高めるために努力した。その後、大韓協会を創立し、機関紙として『大韓協会月報』と『大韓民報』を発行し、愛国啓蒙運動を展開するなど、救国活動に注力した。 一方、南宮檍は1907年に襄陽郡守として在職していた際に、東軒の裏山に峴山学校をつくり、教育雑誌の『教育月報』を発行した。1910年には培花学堂で教師として在職し、1912年には尚洞青年学院の院長を務めた。1919年には療養のために江原道洪川に居住地を移し、牟谷学校を設立した。その頃、日本帝国が朝鮮の民族精神を抹殺する目的で日章旗と桜を普及して奨励していたが、南宮檍はこれに対抗して牟谷学校にムクゲの苗畑を作り、ムクゲの普及運動を全国にわたり展開した。この時に南宮檍が作った歌〈ムクゲの園〉が民間で広く流行した。 南宮檍は1933年、キリスト教系の独立運動秘密結社である十字党を組織して活動したが、日本の警察に摘発されて投獄された。そして1939年、釈放された4年後に拷問の後遺症により死去した。1962年、南宮檍に大統領表彰が追叙され、1977年に建国勲章国民章が授与された。

朝鮮, 日本統治時代/1863~1939

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金集(キム・ジプ, 1574~1656)は朝鮮中期の学者であり文臣で、 本貫は光山、字は士剛、号は慎独齋である。諡号は文敬。金集は沙溪金長生の息子で、漢陽の貞陵洞で生まれ、官吏として立身するよりも学問に力を注ぎ、朝鮮時代の礼学の体系を完備し、畿湖学派の形成に大きな役割を果たした。 1574(宣祖7)年に生まれた金集は、1581(宣祖14)年に宋翼弼(ソン・イクピル)の門下で、1585(宣祖18)年には成渾(ソン・ホン)の門下で就学した。1591(宣祖24)年に進士試に合格した後の1610(光海君2)年に献陵参奉に除授されたが、政治的な理念の差があり辞職して帰郷した。 1623(仁祖1)年仁祖反正により扶餘縣監となった。その後、臨陂縣令・司憲府持平などを歴任した。1645(仁祖23)年に功西派が執権するようになり退任したが、1649(仁祖27)年に礼曹参判と大司憲を経て쳐 吏曹判書となった。 1650(孝宗1)年に金堉(キム・ユク)の大同法に反対して葛藤した。 その後、礼学の研究に集中し、1656(孝宗7)年に持病により死去した。同年、文敬の諡号が下され、1883(高宗20)年に領議政として追贈された。著書に『慎独齋文集』『疑礼問解續』などがある。中区徳寿宮ギルソウル市立美術館に至る坂道に『金長生、金集先生生家跡』の標石がある。

朝鮮/1574~1656

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金宗瑞(キム・ジョンソ, 1383~1453年))は朝鮮前期の政治家で、文武にわたって活躍し、女真族を退けて6鎮を開拓した人物である。金宗瑞は都摠制を務めた金錘(キム・チュ)の息子で、1383(高麗 禑王9)年に楊広道公州で生まれた。本貫は順天、字は国卿、号は節齋、諡号は忠翼である。 金宗瑞は1405(太祖5)年に文科に及第し、1415年に尚書院直長を務め、1419(世宗1)年に司諫院右正言に登用された。その後、賑濟敬差官、吏曹正郎などを務めた。1433(世宗15)年、咸吉道都観察使となり、女真属の辺境への侵入を撃退し、女真族に対する防備策として備辺策を設けて建議した。咸吉道に8年間留まる間に6鎭を開拓し、南方の民が移住するようにして北方の境界を豆満江以南と確定するにあたって大きな功労を立てた。1449(世宗31)年、権踶(クォン・ジェ)などが讐校した『高麗史』が公正でないとして王命により改竄することになったが、春秋館知事としてその総責任を担った。 1451(文宗1)年に『高麗事』を撰進(文を書いて王に捧げること)、翌年1452(文宗2)年『世宗実録』 の総裁官を経て『高麗史節要』を撰進した。これを通じて歴史に対する金宗瑞の識見が人並みはすれているということがわかる。また、高麗事の執筆陣はすべて集賢殿の出身であったが、集賢殿の出身ではない金宗瑞が彼らを指揮したことを見ると、歴史に対する金宗瑞の識見が広く深かったものと考えることができる。 金宗瑞は文宗が逝去する前に左議政になり、文宗の命を受けて領議政の皇甫仁(ファン・ボイン)などと共に幼い端宗を補佐した。1453(端宗 1)年に首陽大君によって二人の息子と共に殺害されたが、大逆謀叛罪の罪を問われ癸酉靖難の最初の犠牲者となった。1742(英祖22)年に復官となり、忠翼の諡号を与えられた。 著書に『制勝方略』がある。ソウル特別市中区忠正路1街75に金宗瑞が暮らしていた家跡がある。

朝鮮/1383~1453

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金長生(キム・ジャンセン, 1548~1631年)は朝鮮中期の学者であり文臣で、学問に力を注ぎ、礼学の体系を確立し畿湖学派を形成した人物である。本貫は光山で、字は希元、号は沙溪だ。大司憲金継輝の息子で、中区貞洞付近で生まれた。 金集(キム・ジプ)はその息子である。 宋翼弼(ソン・イクピル)と李珥(イ・イ)の門下で、科挙よりも学問の精進に力を注いだ。1578(宣祖11)年、31歳で遺逸に推薦されて参陵参奉となり、その後1613(光海君5)年まで安城郡守・益山郡守・鉄原府使などを務めた。1613(光海君5)年、癸丑獄事に巻き込まれたが無罪として解放され、その後忠清道連山に都落ちして礼学の研究に没頭した。その後、1623(仁祖1)年の仁祖反正で西人が政権を握ると、75歳という年齢で再び官職に就いたが、病気で間もなく都落ちした。その後、同知中枢府使などに命ぜられ、1627(仁祖5)年の丁卯胡乱の際に両湖号召使となり義兵を募集した。翌年、刑曹参判となったが、病気により辞職した。 金長生は礼学を研究し、息子の金集にこれを継承して朝鮮礼学の権威として礼学派の主流を形成した。その門下に息子の金集をはじめ、宋時烈(ソン・シヨル)、宋浚吉(ソン・ジュンギル)、李惟泰(イ・ユテ)などがおり、西人を中心とする畿湖学派を成し、朝鮮の儒学界において嶺南学派と双璧を築いた。金長生自身は多くの要職に就いたわけではなかったが、仁祖反政の後に西人の領袖の資格で当時の政局に大きな影響力を行使した。1631(仁祖9)年、自宅で83歳をもって死去した。1657(孝宗8)年には領議政に追贈され、文元という諡号を受けた。 著書に『喪礼備要』『家礼輯覧』『(典礼問答』『(近思録釈疑』『経書辨疑』『沙溪全書』『沙溪有故』などがある。中区徳寿宮ギルソウル市立美術館に至る坂道に『金長生先生生家跡』という標石がある。

朝鮮/1548~1631

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金堉(キム・ユク, 1580~1658年)は朝鮮中期の改革家であり政治家で、壬申倭乱と丙子胡乱により国の礎石が揺らぎ、国民が塗炭の苦しみに陥っていた国難の時期を、現実の改革により打開しようとした人物だ。本は清風、字は伯厚、号は潜谷、諡号は 文貞だ。 金堉は1605(宣祖38)年に司馬試に合格して進士となったが、 癸丑獄事の後に官職を断念し、潜谷に都落ちして農業に就いた。 金堉は不遇な幼少期を送った。その家勢は、高祖父の金湜(キム・シク)が1519(中宗14)年に己卯士禍の巻き添えになり1568(宣祖1)年まで科挙の試験を受ける資格を剥奪された。祖父の金棐(キム・ビ)と父の金興宇(キム・フンウ)の時代に至り家勢の復興のために努力したが、1592(宣祖25)年に壬辰倭乱が起こって避難することになり、その途中で金興宇が他界し、15歳で家長となった。 1623(仁祖1)年、仁祖反正により西人が執権を握ることになり、遺逸に推薦されて朝廷に進出し、義禁府都事となり、1624(仁祖2)年に增広文科に首席で合格し正言に任命された。1627(仁祖5)年の丁卯胡乱の後、平安道安辺都護府使として任命され、清の侵略に備え、二度の胡乱を経て1638(仁祖16)年に忠清道観察使として赴任した。忠清道観察使として務めていた際に大同法の施行を建議した。翌年に同副承旨・大司成・副提学などを経て1643(仁祖21)年には漢城府 右尹・都承旨となり昭顕世子が瀋陽に人質として取られた際に輔養官として随行、帰国後は右副賓客となった。 1649(仁祖27)年、仁祖の逝去と共に官職を辞そうとしたが、孝宗はその意を斥け、特進して右議政となった。 金堉は大同法を忠清道に拡大施行するためにこれを建議したが、金集を中心とする山党勢力の激しい反対にぶつかって失敗した。進香使として清に行って来た後の1651(孝宗2)年に十銭通寶の鋳造を建議して初の高額銅錢を流通し、同年ついに忠清道地域で大同法の実施に成功した。1658(孝宗9)年、漢城府会賢坊の自宅で他界した。その死後、息子の金左明(キム・ジャミョン)によって全羅道・慶尚道・黄海道に順に大同法が実施された。 金堉は大同法以外にも時憲歴の制定を建議氏、手車と潅漑への水車の使用を提案するなど、朝鮮時代最高の改革者の中の一人であった。その経済学は実学の先駆者である柳馨遠(ユ・ヒョンウォン)に大きな影響を与えた。著書に『潜谷筆談』『類苑叢寶』『松都誌』 『八賢伝』『海東名臣録』などがある。

朝鮮/1580~1658

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

朝鮮中期の政治家である 金錫胄(キム・ソクチュ, 1634~1684年)は、西人の山党と南人の勢力を放逐して執権した後に、吏曹判書と右議政を務めた人物だ。領議政だった金堉(キム・ユク)の孫であり兵曹判書金佐明(キム・ジャミョン)の息子として、現在の中区会賢洞にあたる南山北側の麓の会洞で生まれた。本貫は清風、字は斯百、号は息庵。 金錫胄は裕福な家庭に生まれ、子供の頃から祖父である金堉の門下で学問を学んだ。1662(顕宗3)年に増広文科に首席で合格し、成均館典籍・ 吏曹佐郞・正言・校理などを務めた。党の色合いとしては西人で、祖父金堉が中心となっていた漢党に属していたが、当時主流だった山党との葛藤により要職に重用されることはなかった。 1674(顕宗15)年に仁宣大妃が他界した際に、慈懿大妃の喪に服するの期間の問題から2次礼訟論爭が起こった。 金錫胄は南人の許積(ホ・ジョク)などと共に山党を放逐し、守禦使、承政院都承旨などに特進した。1680(粛宗6)年の庚申換局で許積などの南人を除し、その残りの勢力を没落させるために、許堅(ホ・ギョン)が謀反をたくらんでいることを告発して彼らを追放した。その功労により保社功臣一等となり、清城府院君の称号を与えられた。1682(粛宗8)年に右議政として扈衛大将を兼職した。 その後も南人を排斥するために金益勳(キム・イクフン)と共に金煥(キム・ファン)をして陰険な手法で許璽(ホ・セ)などの南人が謀反を企てていると告発させるなど、あらゆる手段を講じて南人の放逐を主導していた。金錫胄の度を越す闘争心は、西人少壮派の弾劾を引き起こし、西人が老論と少論に分かれるきっかけとなった。1683(粛宗9)年に謝恩使として清に行って来た翌年の1684(粛宗10)年、病気で引退した後に他界した。 1689(粛宗15)年の己巳換局で西人が放逐され南人が政権を握ると、功臣の号を追奪されたが、後に復職、諡号は文忠。著書として『息庵集』、『海東辞賦』がある。

朝鮮/1634~1684

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金尚憲(1570~1652)は朝鮮中期の文臣かつ学者で、漢陽で生まれ、3歳の時に叔父の金大孝に出系(養子に入って代を継ぐこと)した。尹根寿を師とし、小学を励んで勉強した。1590年(宣祖23)庭試文科に丙科で合格し、副修撰、礼曹佐郞、弘文館修撰などをあまねく歴任した。光海君の時、仁穆大妃の廃母に反対し都落ちしたが、仁祖反正以後再び官職に進出した。剛直な性格でどんなことでもよどみなく批判し、複数の高官との葛藤をもたらし出仕と辞退を何度も繰り返した。 金尚憲は、1636年(仁祖14)に丙子胡乱が起きると仁祖を護従(保護して付いて行くこと)し、清に服従せずに戦争を続けなければならないという主戦論を主張した。金尚憲は、清の圧力に仁祖がついに降伏すると、飲食を全廃して自殺を企てたが失敗した。以来、清が推進することに批判と反対の立場を固守し続けたが、清の要求で圧送され、4年間の人質生活を送った。人質の時期には、清の懐柔と圧力にもゆるぎない節義と気概で妥協を拒否して意志を曲げず、清の人々も金尚憲のゆるぎない節義と気概に感心したという。 1645年(仁祖23)昭顕世子と共に帰国した後、官職を諦めて石室に都落ちして隠居した。孝宗が即位し、清にされた恥辱を返するという北伐論が台頭すると、大学者の金尚憲は北伐の象徴的人物として尊敬された。孝宗は金尚憲を非常に大切に思い、何度も官職を命じ、金尚憲は何度も断ったが、孝宗がこれを許さなかった。1652年(孝宗3年)領敦寧府事在職中に死亡し、次の年議政府領議政が贈職された。 金尚憲は、兄の金尚容(1561~1637)と同様にソウルの壮洞(現在の鍾路区から西村を言う地域)が世居地だったことから、壮洞金氏とも呼ばれている。

朝鮮/1570~1652

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金尚容(1561~1637)は、朝鮮中期の文人であり政治家で、1590年(宣祖23)に贈広文科(国の慶事がある時に行われた科挙)に丙科で合格した後、壬辰倭乱の時には湖南と嶺南地方を行き来して国乱の収拾に貢献した人物だ。倭乱が終わった後は明に使節として派遣され、外交的手腕を発揮した。1617年(光海君9)、仁穆大妃の廃位に関する議論が浮上すると官職を捨てて都落ちし、学問研究と後学の養成に力を注いだ。 1623年(仁祖1)に仁祖が王位に就くと、王に呼ばれて再び官職生活を始めた。1630年(仁祖8)には耆老社に入り、2年後には右議政に任命されたが、年老いたという理由で辞退を申し出た。1636年(仁祖14)、丙子胡乱が起こると金尚容は世子嬪と王世子の長男など王族を護従(保護して付いて行くこと)して江華島に渡った。しかし、江華島も陥落し、一説には火薬に火をつけ自爆して殉死したと言われている。 金尚容は、文に非常に優れているうえ忠実な名臣として評判が高かった。文字にも一見識あり、王羲之の書体を上手に書いたと言う。死後に大匡補国崇録大夫議政府領議政に追贈され、仁川の忠烈祠・楊州の石室書院などに祀られた。 金尚容は、ソウルの壮洞(現在の鍾路区から西村を言う地域)が世居地だったことから、壮洞金氏とも呼ばれている。

朝鮮/1561~1637

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

金範禹(?~1786)は朝鮮時代初のカトリック殉教者で、洗礼名はトーマスだ。金範禹は漢陽の訳官の家柄出身で、出生年度は正確ではない。1774年(英祖39)訳科増広試に合格して漢学偶語別主簿を務めた。清を近くで接することができたため、早くからカトリック教理が書かれた西学書に触れた。1784年(正祖8)李承薫が清に使臣として行き、北京で洗礼を受けて正式にカトリック信者になり帰ってきた。帰国した李承薫は、李蘗の家で韓国初の洗礼式を挙行し、金範禹もこの時李蘗・丁若鏞・丁若銓などと共にカトリック信者となった。 金範禹は洗礼を受けた後、明洞の自宅で定期的にカトリック集会を開いた。金範禹は、カトリック信者のために信仰活動の場を提供する一方で、カテキズムを備えて希望者が読めるように手配した。それだけでなく、自分の2人の弟を含む人々をカトリックに入信させるなど、初期のカトリック教会のリーダー的役割を果たした。1785年(正祖9)の春に、金範禹の家で行っていたカトリック集会が刑曹に発覚され、彼と関係者が刑曹に連行される事件が起こる。これが、乙巳秋曹事件だ。 一緒に連行された他の信者は訓戒放免されたが、場所を提供していた金範禹は刑曹に捕まり、背教を強要された。しかし、最後まで信仰を曲げることがなかったため、拷問の末忠清北道丹陽に流刑され、拷問の後遺症で1786年(正祖10)に流刑地で死亡した。金範禹の死亡後も、多くのカトリック信者が金範禹が住んでいた明洞を中心に活躍し、金範禹の家址に建設された明洞聖堂は、韓国初の本堂で韓国カトリック教会のシンボルとなっている。 

朝鮮/?~1786

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

権擥(1416~1465)は、朝鮮前期の文臣かつ学者で、不遇な子供時代を過ごし、韓明澮と一緒に本を読んで文を書き、普段から親しい交友関係があった。幼い頃から読書が好きで学問が広かったが、35歳になっても科挙に合格できず、1450年(文宗1)式年文科に主席で合格し、官職生活を始めた。翌年集賢殿の教理となり、首陽大君が指揮していた«歴代兵要»の編纂に参加し、首陽大君と親交を結ぶようになった。 文宗が崩御し、幼い端宗が王位に就くと、首陽大君は端宗を補佐していた金宗瑞と政権を置いて対立することになった。すると、首陽大君の参謀だった韓明澮は、権擥に首陽大君と共に歩むことを勧めた。韓明澮の誘いを受けた権擥は、以降首陽大君の側に立って政権獲得を図った。1453年(端宗1)、権擥は首陽大君の癸酉靖難を助け、端宗と金宗瑞を追放して権力を掌握するのに貢献し、その功績で靖難功臣1等として表彰された。以降、世祖の寵愛を受けて右議政と左議政などの官職をあまねく務め、順調な官職生活を過ごした。 権擥は文章に長け武芸にも優れたが、権力をたてに頻繁に横暴をほしいままにしたので、世間の評判は良くなかった。端宗の廃位後、端宗の後宮だった淑儀権氏が近い親族だったにもかかわらず、淑儀権氏の富を奪取して非難を買った。彼が残した詩文集には、«小閑堂集»がある。現在の中区芸場洞2番地付近に、権擥の家があったと伝えられている。

朝鮮/1416~1465

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

姜世晃(1713~1791)は、幼い頃から文章と字に優れた才能を見せた。8歳で詩を作り、13~14歳には書いた文字をもらって屏風を作る人がいるほどだった。それにもかかわらず、科挙には興味がなくて応募せず、文字と絵、学問を研磨して若い頃を過ごした。 1744年(英祖20)、かなり貧しく妻の実家がある京畿道安山に移住して暮らしながらも、以後30年間着実に書画と学問に没頭した。そんな中、1773年(英祖49)、英祖は代々国と王に仕えた家だと表彰し、当時61歳だった姜世晃を英陵参奉として官職に進出させた。以後、姜世晃は1776年(英祖52)耆老科と1778年(正祖2)文科庭試に主席合格し、着実に順調な仕官の道を歩んだ。 姜世晃は歴代書法について深く理解するために努力し、これをもとに一生をかけて数多くの書道修練を積んだ。特に、彼は中国の王羲之の文字を根幹とし、趙孟頫の書法を研磨して楷書・行書・草書で一家を成した。 中でも、姜世晃が著しく活動していた分野は当然ながら絵だった。彼は、創作と理論を兼ね備えた士大夫書画家として、男女文人画が朝鮮後期の主導的な画風に定着するために大きく貢献した。男女文人画とは、学問と教養を備えた文人が水墨と色合いで内面の世界を表現することに注力していた画風をいう。しかし、姜世晃の書画の感覚はここにとどまらず、空間意識の拡大、立体感の浮き彫り、対角線構図による空間感の効率的な表現などで西洋画風の収容にも開放的だった。 そして、中国の山水を想像して描く観念山水画ではなく、朝鮮の山水を直接​​見て描く真景山水を発展させた。彼は、76歳という高齢の体をおして金剛山を直接遊覧しながら紀行文と実景写生を残す情熱を見せた。 姜世晃は、子供の頃から都城の中で過ごし、貧困のために都城の外に出て、30年過ごしながらもいつも都城の中を懐かしみ山水画を描いていたが、61歳になってようやく初めて官職を務め再び都城に戻ることができた。現在の筆洞端の谷の青鶴洞は、美しい景色のひとつに挙げられる。姜世晃はここに紅葉楼を作り、周囲の景観を画幅に込めて過ごしたが、現在この建物は残っていない。

朝鮮/1713~1791

文化/人物/その他

ソウル特別市中区

ソウル特別市中区筆洞(ピルドン)は、朝鮮時代、漢城府5府の一つである南部の部庁があった場所で、最初の頃は部洞(ブドン)、または「ブッコル」と呼ばれていた。この「プッ」という発音は「筆」を意味することから、「筆洞(ピルドン)」と表記されるようになったとされている。また、筆洞という名称の由来として、別の興味深い話が伝えられている。 昔、筆洞に一人のソンビ(高徳な学者)が住んでいた。そのソンビは誠実で行いが良く、幼い頃から神童と呼ばれ、人々はそのソンビに大きな望みをかけ、町から偉大な人物が輩出されることを期待していた。ところが、そのソンビの家はとても貧しくて筆を買うこともままならず、木の枝を削り動物の毛を使って筆にしていた。 科挙の試験が近づくき、ソンビは真心を込めて削った木と動物の毛で筆を作り、科挙の試験を受けに行く準備を整えた。村の人々は盛大な宴を催してソンビをもてなし、必ず科挙に及第してくれと異口同音に懇願した。ソンビは村の人々の期待を一身に受けて科挙の試験場に赴いて試験に臨んだが、突然筆が折れるという不運に見舞われ、不合格となった。ソンビは大きく失望し、村の人々に合わせる顔がないと自らの命を絶った。その知らせを聞いた村の人々はとても心を痛め、丈夫な筆を作るようになった。 その筆が次第に噂となり、近くの町に住むソンビをはじめ、あちこちから筆を買いに人々が訪れるようになり、その町は筆洞と呼ばれるようになったとされている。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区筆洞

崇礼門は朝鮮時代の都城を囲んでいた城郭の正門である。朝鮮開国初期の1398年、太祖は首都である漢陽を防御するため城壁を築き、城郭に4つの大きな門を備えた。 都城の四大門の名前を付けた人物は、朝鮮開国の主役である鄭道伝だと伝えられている。彼は儒教の五徳である仁義礼智信を防衛に合うよう割り当て、東側は興仁門(現在の東大門)、西側は敦義門、南側は崇礼門、北側は弘智門とした。各門には扁額が設置されたが、宮廷扁額のほとんどが横書きなのと異なり、崇礼門の扁額は縦書きでつくられた。これは伝統思想でる風水と関連している。 朝鮮が漢陽を都に定めた後に最も大きな問題として指摘されたのが、火気が多すぎることだった。当時、ソウルの火気は冠岳山のためだと考えられた。冠岳山は山が火花が燃え上がる形状といわれ、昔から火山や火形山と呼ばれ、風水家達はこの気運によりソウルの火気が強いと主張した。実際に、景福宮ではよく火災が発生して、太祖は景福宮が冠岳山と向かい合うことを避けるため、宮廷の方向を若干ずらした。そして、大きな門を正南方向に立て、冠岳山の火気に正面から向かい合わせた。これが正に崇礼門であり、この門の扁額は縦書きで書き、縦に立てられた。 本来、崇礼門は仁義礼智の中の礼を尊ぶ門という意味だが、五行で礼は火に該当する。これに高めるという意味の「崇」を合わせて、垂直に扁額を立て、火花が燃え上がるような形状につくられた。荘重ながらも上品な書体を誇る崇礼門の扁額は、太祖の長男である譲寧大君が書いたものといわれている。 その後、崇礼門は数度にわたり修理を経たが、壬辰倭乱など幾度の変乱の中でも保存された。 しかし、2008年2月に火災が発生して、2階の楼閣の90%、1階楼閣の10%程が消失された。その後、崇礼門は約5年3ヶ月間にわたる大々的補修作業を通して復旧され、2013年5月に復旧記念式が行われた。日帝時代に削られた左右の城郭を復旧するなど、朝鮮時代当時の形により似せてつくられた。 四大門の中の南側にある門であることから南大門とも呼ばれている崇礼門は、1962年12月20日に国宝第1号に指定され、文化財庁崇礼門管理所が管理している。

朝鮮/1398年以後

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区南大門路4街

南山はソウル中区と龍山区の境界線にある山で、高さ265.2m、ほとんどが花崗岩で構成されている。本来の名は木覓山だったが、漢陽が朝鮮の都に定められた時にこの山が都城の南に位置するため、南山と呼ばれるようになった。また、この山は終南山、仁慶山、引慶山、列慶山、マメ、蚕頭山とも呼ばれていた。 蚕頭山は漢字でカイコの「蚕」「頭」に山と書き、南山の形が大きなカイコが横たわった姿に似ていることからカイコ頭山という意味の名が付けられたという。 このような理由から、昔の先祖達は蚕頭山、即ち南山の精気を育むためには、カイコの頭の周囲にカイコが食べる桑の葉がたくさんなければならないと信じ、風水地理思想に従って、南山が目の前に見える川の向かい側の沙坪里に桑の木をたくさん植えた。現在、松坡区の蚕室がその場所で、蚕室とは「カイコを育てる部屋」という意味である。朝鮮時代には養蚕(カイコを飼育して繭を生産する仕事)を奨励するため、王室や官府が特定地域にカイコを飼う場所を設置して蚕室と称した。松坡区蚕室の地名はこれに由来している。ソウルの東側に位置するため、東蚕室や蚕室里などとも呼ばれ、設置年代は正確には知られていないが、世宗時期だと推定されている。 この場所が特別な理由は、養蚕のために設置された桑の木畑ではなく、南山の風水説によってつくられた場所であるからだ。王室では南山の地徳を得るために、必ずこの蚕室の桑の葉で王室内のカイコを育てていた。 松坡区一体に造成された大規模の桑の木畑は、朝鮮時代末期から日帝強占期初期まで、桑の木の苗木を栽培して蚕種を普及し、蚕業講習所も備えられたが、壬辰倭乱を経ながら有名無実となった。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区芸場洞

国師堂はソウルを守護する神堂で、元々今の南山八角亭付近にあったが、日本が南山に神宮を建てながら、神宮より高い所に祠堂があってはならないと、仁王山の麓の禅岩の下に移転させた。祠堂の中に多くの神が祀られているが、その中に無学大師があり国師堂と呼んだという話と共にもう一つの興味深い説話が伝えられている。 咸鏡道永興のある村に老婆が住んでいたが、膝元に娘がいた。太祖李成桂がまだ幼い頃その家を通り過ぎたが、老婆がこっそり言うには、将来王になる方だから常に気をつけて、何か疑わしい事があれば訪ねて来るようにお願いした。そんな中、ある日の事太祖が老婆の家の近くを通るが、雨がひどく降りその家で一晩泊まる事になった。老婆は折しも静かに話す事があると太祖を歓迎した。夕方になって太祖はオンドル部屋の焚口に近い所に横になり、老婆の娘は焚口から一番遠い所に横たわった。夜が深まると老婆は太祖に将来の事と王になるなら都を漢陽に定めること等多くの事を話したが、突然娘が口出しをした。老婆が娘を叱っては、太祖に娘を殴る様に言った。よって太祖は秘密が漏れたら大変だと思って娘を強く殴った。すると老婆の娘は手足を震わせて死んでしまった。 慌てた太祖が人を殺したので群主に自分を告発し罪を受ける様にしなさいと言ったが、老婆は平然とした顔で、この事は自分の過ちであり運命だから娘を埋めなければならないと言った。裏山に登って娘の死体を埋めた老婆は、その時になって初めて太祖の袖をつかんで泣きながら、太祖が大事を成すのに迷惑になるかと恐れて、娘が死ぬかもしれない事を知りながらも殴れと言ったというのだった。これからは真っ直ぐにこの道を行って大業を成し遂げる事を念入りに頼んだ。 以後、太祖は老婆を捜す為に咸鏡道全域で噂を頼りに捜したが、永久に捜す事が出来なかった。後に朝鮮を立て漢陽に都を定めた太祖は、南山の中腹に家を建て母と娘の肖像を描いて掲げ国師堂と称して、春と秋に巫女を頼み彼らの霊魂を慰めたと言う。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

南山はソウル中区と龍山区の境界線にある山で、高さ265.2m、ほとんどが花崗岩で構成されている。この山の本来の名は木覓山だった。現在の南山という名は、朝鮮王朝が建国して漢陽を都に定めた後、都城の南側にある山だったため付けられた名だといわれている。 朝鮮第1代王の太祖・李成桂は、新しい王朝を開きながら民心を革新して新しい政治を繰り広げるためには、都の遷都が不可欠だと考えた。はじめに候補地として上がったのは鶏龍山だったが、土地が豊沃でなく交通が不便で金剛が遠く民が苦労するという内容の遷都反対の上疏が上がった。 第二候補地は漢陽だった。太祖の王師(王の師匠の役割を担った僧侶)だった無学大師(1327~1405)は、「仁王山を主山(都の後ろの山)として、白岳と南山を左右の青龍と白虎にすると良い」と伝えた。すると、太祖の策士だった鄭道伝は、「昔から帝王は皆、正南方に向くのが法であり、東向きは聞いたことがない」と反対した。鄭道伝の建議に従い、再び選んだ場所は北岳山の麓、景福宮の位置である。 これに対して無学は、「新羅の名大師が漢陽を首都に定めた時、鄭氏の姓の人が反対したら、5代を超えることなく王位簒奪の問題が起き、200年後には国が全て蹂躙される動乱が起こるだろうと言った」と訴えた。 結局、太祖は1394年(太祖3年)8月に反対論を退けて漢陽に遷都を命じた。その年の10月に開京(開城のまたの名で高麗の王がいた都市)を出発して漢陽入りして、新しい首都の名を漢城府に改めた。1395年(太祖4年)には都城築造都監という官庁を設置して基礎測量を実施、1396年から城郭を築き1年余りで完成させた。その後、木覓山は北岳山の麓の宮廷から眺めると南側にそびえ立つ山となるため、自然に南山と呼ばれるようになったと伝えられている。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区芸場洞

尚政丞村(サンジョンスンゴル)は現在の南昌洞・北倉洞・南大門路3街・太平路2街にまたがる村で、朝鮮時代中期、領議政を務めた松帳尚震(サン・ジン1493〜1564年)の家があり、尚洞又は尚政丞村とした。 尚震は幼い頃から義気が強く不義を我慢できない性格だったが、文章を読む事には関心を持たず、馬に乗る事と弓を射る事だけに熱中した。15歳が過ぎて同じ年頃の者から冷やかされて勉強を始めたが、5か月程で文字の意味を全て教しえられて、10ヶ月後には文章の道筋を理解するのに何の問題もなかったと言う。1519(中宗14)年に別試文科に合格した尚震は史官に選ばれ校閲を務める事になったが、この時に残した有名な逸話がある。ある日、田舎に帰る尚震は村老が牛2頭で畑に行くのを見て、「どちらの牛がより良いですか」と尋ねた。すると村老はしばらくの間答えなかったが、後で静かに耳元で囁くのだった。 「若い牛がより良いですよ。動物の心も人と同じなのにどうしてその場ですぐに良い悪いと言う事が出来るでしょうか。自分に対して劣ると言えば牛が不快じゃないですか。」ここに尚震は村老の言葉から大きく悟った事があり、生涯他の人の短所を言ったり比較したりしなかったと言う。 尚震は1548(明宗3)年に右議政に上がった後、左議政と領議政をあまねく務めたが、彼の清廉潔白と広い度量の為に厚い信頼を受けた。人々は尚震の業績と人柄を置いて世宗時、黃喜の次に指摘する程だった。1564(明宗19)年尚震が世を去ると、明宗は尚震の死を哀悼する詩を作り、後日尚震の墓に業績を称える神道碑を建てた。 尚震が住んでいた村は朝鮮末まで尚政丞村、又は尚洞と呼ばれたと推定され、英祖もここを通る時は体を曲げて敬意を表したという話が伝わって来た。

朝鮮/1493年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

尚洞(サンドン)の由来

薬酒は元もと中国で薬として使われる薬用酒を意味したが、韓国では発酵が終わった状態で、ざるの中で発酵する澄んだお酒だけをすくって、酒粕を取除いたものを遍く指す言葉だ。12〜18%程度のアルコール含有量を持つ薬酒は甘く柔らかく、酸度が強くて両班たちが楽しむお酒だった。 薬酒の本来の意味は、薬性を備え薬効があると認証する酒や薬剤を入れて造成する酒を意味するが、今は一般的にお酒を高めて呼んだり、貴重なお酒を指す時に使う。 薬酒と言う名称の由来に関連していくつかの説が言い伝えられている。まず、朝鮮時代に禁酒令を避ける為の手段として、両班層が清く醸す清酒を薬となるお酒としたことから薬酒が由来するという説がある。また、そのお酒を飲む彼らが行儀がよく気品のある人物なので、薬酒と称したと言う主張もある。しかし、薬酒の由来と関連して最も遍く広がっているものは、朝鮮時代中期の官僚であり学者の徐省の母固城李氏が生計の為に薬山春と言う清酒を醸して売った事から薬酒が由来したという主張だ。固城李氏が醸したお酒は、その味が一品なので首都の話題になる程だったが、丁度彼ら母子が住んでいた所が藥峴(ヤクヒョン)で、また徐省の号が藥峰(ヤクボン)でもある事から、人々が薬酒と呼ぶ始めたと言う事だ。 薬酒は大韓帝国末から日本統治時代初期まで、主にソウル付近の中流以上の階級で消費した。薬酒はうるち米と麹で漬け込んだ母酒と、その上に蒸したもち米につけ酒して作るが、各家庭ごとに高麗人参や他の薬剤を入れて酒を醸す彼らだけの特別な秘法が存在した。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

永美橋は今の黄鶴洞162番地に該当する場所にあった橋で、清渓川7街と8街の中間、黃鶴洞から崇仁洞の崇神小学校と東廟に出る十字路に置かれていた木の橋だ。この橋は朝鮮時代初期に作られたと推定され、最初は旺尋坪大橋と呼んだ。 1458(世祖4)年端宗が廃位された後、江原道寧越に島流しになって行く時、定順王后宋妃がこの橋までついて来て見送ったと言われている。端宗と別れた宋妃は、崇仁洞の庵に滞在しながら毎日東望峰に登って寧越を眺めながら端宗の平安を祈った。この別れの後、二人が永遠に会う事が出来ず、その後この橋を永離別橋(ヨンイビョルギョ)・永遠に渡る橋(ヨンヨンゴンノンタリ)・永離別橋(ヨンイビョルダリ)等と呼んだと言う。後にこの橋の名前になった永尾橋は永離別橋が変音された事に由来したという説があり、永尾洞から降りて来る小川の端に置かれた橋として付けられた名前とも言う。また昌信洞にあった永尾寺(ヨンミサ)の僧侶達が橋を架けたので永尾橋(ヨンミギョ)、あるいは永尾橋(ヨンミダリ)と呼んだという話もある。 以後、成宗時橋を補修しながら成宗が直接永度橋と言う御筆を下したという記録がある。永度橋はソウル東大門を経て往十里やクァンナルに出て行く為に必ず経由しなければなら所だったので、朝鮮時代末までソウル郊外の主要交通路の役割をした。しかし、興宣大院君がこの橋の石で景福宮を改築する時、石材として使用しながら無くなった。代わりに同じ場所に木の橋を置いたが、洪水の度に押し流されたと言う。それで人々が小川に疎らに飛び石を置いて渡って通ったが、これにより一時はティオムダリと呼ばれる事もあった。後にコンクリートで作った橋が架けられたりもしたが、1950年代末の清渓川覆蓋工事で無くなった。今は永美橋があった場所だけ確認することが出来るだけで、橋の構造や形態などは知る事が出来ない。今仮説された橋は、2005年清渓川復元事業の一環として置かれたものだ。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区黄鶴洞

ポティ峠は中区新堂洞と薬水洞が相接する付近から龍山区漢南洞に越える場所にあった峠と、漢南洞から中区奨忠壇に越える道の峠を共に称する名前だ。ポティ峠と言う名前の「ポティ」は、朝鮮時巡邏を回って宮を見回りしていた巡邏軍が「ポンド!」と叫んで泥棒を追っていた事に由来したもので、「ポンド」が「ボンチ(番峙)」に変音してポタ又はポティになったと言う。 ポティ峠は道が狭く通る人が少なく昔から泥棒が多かった。その為険悪で気立てが良くない人には、「夜中にポティ峠に行って座る奴」という冗談を言ったと言う。また漢字では付くのプ(扶)、いつものオ(於)、峠のチ(峙)の文字を書いて「扶於峙(プオチ)」と表記したりもしたが、これは泥棒が過激なので、一人では超えて通る事が出来ないから大勢でしっかり付き添って一緒に行きなさいとの意味だったと言う。 一方、ポティ峠には漢城府の鎮三の三角山と関連した話も語り伝わって来る。三角山の仁寿峰(インスボン)が子供を背負っていく形状なので、餅で子供をあやす事が出来る様に西方には毋岳と餠市峴を置いて、南方には出て行けば罰を与えるという意味で伐兒嶺、つまり現在のポティ峠を置いて子供が出ないように防いだと言う事だ。後にこの伐兒嶺が変わってポティ峠という名前が付く様になったと言う。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

紅門洞(ホンムンドン)はソウル特別市中区三角洞にあった村の一つで、朝鮮中宗時代に紅門がありこの村を紅門洞と呼んだところから村の名前が由来した。紅門洞は紅門善村とも呼ばれたが、朝鮮時代の商人金處善と関連した興味深い話が伝えられている。 この村に立っていた紅門は稀に見る中人の為のもので、朝鮮中宗時、金處善という商人が養父母に親孝行したことを称える為に建てたものだ。 金處善は家柄の良い両班の金宏弼(キム・グアンピル)の家門の人だったが、両親を早くに亡くし乳母の懐の中で育った。しかし、乳母もまた彼が15歳になった時に突然亡くなり金處善は茶洞にある六矣廛の商人の家の使いになった。天涯の孤児になった彼は20歳になるべく結婚出来ずにいたが、人並み外れて聡明ながらも勤勉で気品が溢れ多くの人々が彼を心に留めていた。 折よく主人の安氏にも年頃の娘がいたが、身分が低く両班出身の金處善との婚事は考える事も出来ず、同じ中人の中で誠実な人を婿養子にして家業を続けようと言う思いを持っていた。この頃は燕山君が王位にあった時期で内外に国が騒然としていた時だった。安氏は金處善が金宏弼の家門の出身であることを知って、彼の身分を考えて婿にしようとした。金處善も自分の身分を知りながらも両班の道に従わず、六矣廛の商人の安氏の婿になった。彼は優れた手腕で事業を導き六矣廛で最も秀でる商人になった。 金處善は自身を育ててくれた乳母に対する有り難さで乳母の祭祀を手厚く挙げて、金處善が亡くなった後にも彼の妻が乳母の祭祀を真心で仕えたと言う。後日、中宗が王位に上がった後、金處善夫婦が育ててくれた母に対する美しい心を持ったとし、家の前に紅門を建ててあげた。その後からこの町を紅門善村 又は紅門洞と呼んだと言う。 紅門洞は1914年、日本の行政区域の改編により大廣橋洞・写字庁洞 ・小廣橋洞等の一部と統合され日本式地名の三角町に属する様になり、1943年6月に区制の実施で京城府中区三角町の一部となった。1946年に町を洞に改編する三角町は三角洞になった。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区三角洞

報恩緞村は中区南大門路1街と乙支路1街にまたがる村でコウンダム村とも呼ばれた地域だ。朝鮮宣祖時、今の乙支路1街一帯に住んでいた訳官洪純彦(ホン・スンオン )と関連した逸話で名前が始まったと伝えられている。 洪純彦が壬辰倭乱が起こる数年前に、使臣に随行して明に行った時の事だった。洪純彦が通州の遊郭をぶらついていると伝染病で両親を失い葬儀を行うお金がなくて、体を売るようになった浙江省出身の女性に出会った。洪純彦は気の毒な事情を聞いて、自分が持っていたお金を全て出して女性を助けてあげた。女性は自分を助けてくれた代価として一緒に寝ることを願ったが、洪純彦は頑なに拒絶した。これにより女性が洪純彦の名前を知りたがったので、彼は自分が朝鮮から来た訳官某と教えてあげた。そんな事があってから数年が過ぎ、女性は礼部侍郞石城石星(ソソン)の後妻となった。石星は女性から過去の話を聞き洪純彦の義に感動して、朝鮮の使臣が来るたびに洪純彦が来たか尋ねたりした。歳月が流れ1584(宣祖17)年、 洪純彦が明の大明会典に朝鮮王室の系譜が誤って記録されて、これを是正する任務を引き受け北京を訪れる事になった。名門家の招待を受けて行った席で、嘗てない手厚いもてなしを受けた洪純彦に丁寧なお辞儀をする女性がいて、よく見ると彼女は以前、自分が遊郭で助けてあげたまさにその女性だった。 結局洪純彦は石星の助けを借りて困難な任務を果たすことができた。これにより宣祖は1590(宣祖23)年洪純彦を光国功臣二等に採録して唐陵君に勲奉した。また、女性は洪純彦に受けた恵みに感謝し、絹の服地を手ずから織り金銀財宝と共に贈り物としてあげた。洪純彦はこれを遠慮したが女性の懇請に仕方なく絹だけを貰って来た。これにより石星の働き手が鴨緑江までついてきて絹を積んであげて行ったが、絹には「報恩緞」という文字が刺繍されていた。この話が伝わって洪純彦の家があった村を報恩緞村と呼んだと言うが、後に発音が似ているコウンダム村と誤って伝わり呼ばれるようになったと言う。 一方、今のロッテホテル前の道路周辺には、ここがかつてのコウンダム村だった事を知らせる標識石が設置されている。

朝鮮/1584年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区乙支路1街

コウンダム村の由来

南倉洞という洞名は1610(光海君2)年に設置された宣恵庁の倉庫があった場所の南側にある村という事に由来した。宣恵庁は大同米と布錢の出納を掌ってていた機関だ。 南倉 は東側には会賢洞1街、西側と南側には南大門路5街、北側には南大門路3・4街と隣接している。南倉洞は朝鮮時代初期には、漢城府南部養生坊に属していた。1751(英祖27)年から南部養生坊倉洞契の一部だったが、1894(高宗31)年甲午改革で行政区域が改編された時、倉洞と尚洞に分かれた。国権被脱後、1910年10月漢城府が京畿道京城府に改称され、京畿道に管轄が変わった。続いて1914年に行政区域統廃合により倉洞と尚洞の一部が統合されて日本式地名の南米倉町になった。1943年6月に行政改編で区制が実施されるに従い新設された中区南米倉町になった。終戦となって1946年に至って町を洞に変える時中区南倉洞になった。 南倉洞には宣恵庁、許穆(ホ・モク)の家、雙檜亭などの跡地が残っており、雙檜亭は宣祖時、領議政を務めた李恒福(イ・ハンボク)と彼の子孫の李裕元 (イ・ユウォン )が住んでいた場所に建てられた亭だ。仁祖時、領議政尚震の家があり、尚洞又は尚政丞村とも呼ばれたりもした。 南倉洞には南大門市場と崇礼門商店街、三益ファッションタウンなどの専門総合市場があり、1901年に建立された尚洞教会がある。

朝鮮/1610年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区南倉洞

中区に居住するキム・ナムンお祖父さんが伝え聞いた口伝説話だ。 昔ある町内に金政丞と李政丞が住んでいた。 金政丞は子供が三人もいたが、李政丞は子孫が一人もいなかった。李政丞は代を継ぐ子供が一人もいないという思いに食べ物も口にせず毎日悩んでばかりいた。 ある日金政丞が李政丞の家に遊びに行って居間で囲碁を打っていたが、友人が憂い深く見え理由を尋ねた。すると李政丞は「君は子供が三人もいるのに私は一人もいないので、どうやって代を継いで行くか悩んでいるよ。そして子孫がいないから死んで先祖に合わせる顔がない。」と言うのだ。 すると金政丞が「私たち二人は友人になったから君だけが知っているように。君は妻と寝る前にどんな行動をするのか」と尋ねた。 李政丞は寝室に入る前に咳を一度して入ると答えたら、金政丞は「それでは誰も知らずに私が一晩代わりに寝床に入ったら駄目か」と言った。 子を懇願に望んだ李政丞はその言葉に同意し、その日の夜、金政丞は夫のふりをし咳をして寝室に入り李政丞の妻と枕を交わした。 10ヶ月後、李政丞の妻は思った通り息子を一人生んだ。李政丞の息子はとてもに聡明に育った。金政丞は李政丞の息子が自分の息子よりもさらに賢く見えるので、李政丞の息子が欲しくなり李政丞を訪ね、自分の子だから返して欲しいと話した。 また、深い悩みに落ちた李政丞を見て息子が理由を尋ねた。すると李政丞はその間の事をすべて話してあげて、息子に寺小屋の勉強を終えた後、金政丞のお宅へ行くように言った。その日の午後、寺小屋の勉強を終えて帰ってきた息子は李政丞に「お父さん、今日寺子屋の先生がこのようなお話をされました。上の村の黍畑にトウキビを植えましたが、雨がたくさん降って洪水になりその畑がそのまま押し流されました。すると下の畑でトウキビの実がなりましたが、そのトウキビがあまりにも見事に実がなり上方の黍畑と下方の黍畑の間で争いが起きたと言います。種がどの様な種だとしても、それを生んで育てるのは地主です。だからこの場合はトウキビを当然地主が占めるでしょう。私が全て解決しますので心配しないで下さい。」と父と共に金政丞の家に訪ねて行った。 そして金政丞に黍畑の話をし、トウキビが誰のものだろうかと尋ねたところ、下の黍畑の主人が持ち主だと言った。 李政丞の息子は金政丞の答えを聞いて彼に「それでは私をなぜ来るようにしましたか」と尋ねた。金政丞は何も答えられなかった。 息子の知恵のおかげで李政丞の家は代を継いで幾久しく無事に暮らしたと伝えられる。

朝鮮/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

無学大師(1327~1405)の法名は自超、姓は朴氏で、号は無学、幢号は溪月軒である。慶尚南道陝川郡三嘉面で出生、1344年に出家して小止禅師の弟子として僧侶となり、慧明国師に仏法を学んだ。 1353年(恭愍王2年)、元の燕京へ留学して、1356年に帰国、1373年に王師(王の師匠の役割をした僧侶)となり恵勤の法を受け継いだ。高麗末、頽落する仏教を批判して李成桂に出会い、彼が新しい王になることを予見した。1392年に朝鮮が開国すると、太祖の王師となった。 漢陽を新しい首都に定めた太祖は、迅速に都城を築いて宮廷を建てようとした。無学大師は太祖に「北側には三角山中岩(仁寿峰)の外に都城を築城すれば、国は平安で興るでしょう」と伝えた。しかし、朝廷の大臣達は仁寿峰の中に城を築くべきだと強く主張した。 都城築城に対する論争は日に日に深まっていった。無学は仁寿峰の中に城を築くと、中岩が場内をうかがい見る形になるため、仏教が栄えないと考えた。反面、朝廷大臣達は仁寿峰の中に城を築けば儒教が発展するという持論を持っていたため、無学の意見に反対したのだった。 太祖は一等開国功臣達と王師・無学の間で大きく葛藤した後、天に祭祀を捧げて決定することにした。祭祀を捧げた二日後の夜じゅう降った雪は春の日差しによって溶け、仁寿峰の中はまるで線を引いたように雪が溶けない場所が残った。朝廷の大臣がこの事実を伝え、天の意志なので都城を仁寿峰の中に築くべきだと主張すると、太祖は雪が残った線のとおりに城を築くよう命じた。 これにより、雪が囲いをつくったといい、漢字で雪という意味の「ソル(雪)」と、ぐるりと囲むという囲いという意味の「ウル(圍)」を合わせて「ソルル(雪圍)」という言葉ができ、発音が少しずつ変わって「ソウル」と呼ばれるようになったという説が伝えられている。

不詳/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

無学大師(1327~1405)の法名は自超、姓は朴氏で、号は無学、幢号は溪月軒である。慶尚南道陝川郡三嘉面で出生、1344年に出家して小止禅師の弟子として僧侶となり、慧明国師に仏法を学んだ。1353年(恭愍王2年)、元の燕京へ留学して、1356年に帰国、1373年に王師(王の師匠の役割をした僧侶)となり恵勤の法を受け継いだ。高麗末、頽落する仏教を批判して李成桂に出会い、彼が新しい王になることを予見した。1392年に朝鮮が開国すると、太祖の王師となった。 太祖の命を受け、首都の選定と都城の築造を担った無学は、漢陽を都として定めた後、宮廷を建てようとした。しかし、何故か宮廷が何度も崩れてしまうのだった。心痛めた無学がある場所を通り過ぎると、ある老人が田んぼを耕して牛に向かって「こら、この無学よりも未熟者が!」と怒鳴るのを聞いた。驚いた無学は老人に自身の正体を明かしてその理由を尋ねると、「漢陽の地は鶴の地なので、背中に思い荷物を背負ったら鶴が羽ばたくだろう、だから宮廷が崩れるんだ。城から築けば鶴の羽が押さえつけられて動けないから崩れないだろう」と答えた。無学が老人の言葉どおりにすると、宮廷は崩れることなく完成された。 一方、この話は少しずつ変えられて、往十里の由来談として伝えられている。無学が首都を定めるために放浪していると、ある老人に「この場所から十里行ってみろ」と言われ行ってみると、良い土地が現れたという説話だ。話によると、老人が十里を行けといったため「行く」という意味の漢字「往」と、十里を合わせて往十里と呼ばれるようになったという。 一説によると、説話の中の老人の正体は、実は風水地理にたけていた統一新羅末期の僧侶、道詵国師(827~898)の後身だったという。

不詳/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に居住するキム・ナムンお祖父さんが幼い時伝え聞いた口伝説話で、朝鮮後期暗行御史でとても活躍した朴文秀(パク・ムンス 1691〜1756年 )の話だ。 京畿道広州にキム・ジンサという金持ちが住んでいたが彼には貴重な三代続いた一人息子がいた。キム・ジンサは方々の噂を頼りに探した末に、忠州イ・ジンサの娘を嫁として迎えることになったが、実はイ・ジンサの娘は近所の男たちをいつでも誘惑するなどの人柄が淫らで品行が端正ではなく、特に同じ村のチェ・チョルモンという男とは互いに熱烈に愛し合う程愛情が深かった。 イ・ジンサの娘が夫の家の光州に向かっていた途中、ある柳の木の下で暫く休んでいたが、丁度そこに十六歳になって科挙の試験を受ける為に漢陽に向かう朴文秀と出会うことになった。彼女は籠に乗って嫁入りする中でも、朴文秀に心を奪われ色目を使いそれを見て怒った朴文秀は女性に付いて行ってキム・ジンサの家で一晩泊まる様求めた。 家の中で尋常ではない気配を感じた朴文秀はその夜寝ずに新房の床の下に隠れ周りを観察したが、夜12時が過ぎてなんと男性一人が新房に入るのを見た。 男性の正体はほかならぬチェ・チョルモンで、彼は新婦と計画を立て新郎を酒に酔わせておいて刀を抜き殺害した後、死体はキム・ジンサの家の池の下に捨てて浮かばないように堅く縛り付けておいた。 翌日キム・ジンサが息子がいなくなったと涙を流したが、朴文秀は考えている事があるのか昨夜の事件については口を閉ざし、よく泊まったと挨拶をした後、科挙の試験を受けに向かった。その後、科挙の試験を首席で合格した朴文秀は暗行御史になりキム・ジンサの家を再び訪れた。朴文秀は近所の人たちをすべて呼び集めた中で、キム・ジンサの嫁を引き出し棍杖を打った。すると彼女は鞭に勝てず自分が夫に酒を飲ませた後チェ・チョルウンと一緒に殺害したと罪を告白した。 殺人を認めたキム・ジンサの嫁とチェ・チョルウンは朴文秀によって結局死刑に処されたと言う。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に居住するキム・ナムンお祖父さんの家に伝わって来た話だ。 お祖父さんの祖父は日本統治時代にチョブン福岩の棺の輿や装具などを入れておく小屋に住んでいた。小屋は棺の輿や葬儀に使われる用具を保管する所だ。昔は村ごとにあったこの小屋に関して、人々は幽霊が住んでいると出入りすることを嫌がった。しかし、キム・ナムンお祖父さんの祖父は知った事ではないと入って住んでいたと言う。 そんなある日のこと。祖父が家で寝ていたが急に下から何か音が聞こえた。屋根裏の戸に向かって「幽霊がいるんだったがおまえが幽霊なのか」と尋ねると、あるものがくるりと飛び出した。他の人たちは怖いと逃げて行ったが、祖父はその家と縁が合うのかそのまま住む様になったと言う。それから理由はわからないが祖父の家は日ごとに裕福になった。もう一つ奇異なことはその家に石が一つあったが、部屋を片付けているとなぜかその石は片付けたくなくて、置いておいたら石が育って大きな岩になったと言う。やがて岩がますます大きくなると近所の人々は祖父の家を「サンヨッチプブ 福岩の家」と呼んだ。この岩には蛇が一匹住んでいたが、春になると岩から舌をちょろちょろと出した。蛇は朝に出て来て太陽が沈むと、さっと消えたりした。 昔はこれに関して蛇業(ペムオプ)と呼んだ。大蛇やヒキガエル、蛇などを業と呼び、家の中に業が入ってくると豊かな生活をし、出て行けば貧しく暮らすと信じていた迷信の一つだ。ところがこの蛇は日本人が堤防を積み上げる為に撃った大砲の音に驚いて死んでしまった。すると嘘のように家庭の様子が悪くなってしまったと言う。 一方、叔母が住んでいた家にも大きな倉に大蛇一匹がいたが、お祖母さんはこれを業と思い朝晩に白粥を作り一杯ずつ持って置いたと言う。すると不思議なことに白粥の器がいつもきれいに空になっていた。以後、叔母が亡くなり家の様子が悪くなりそうなので大蛇は倉から出て塀を越え消えたと言う。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に居住するキム・ナムンお祖父さんが若い頃に経験した話だ。 お祖父さんが田舎に住んでいた時のことだ。 ある日の夕方、台所にいた夫人が驚いて飛び出して来たので何が起こったのか入ってみると、大きな蛇が天井にぶら下がっていたと言う。お祖父さんは蛇を見ると恐怖くなるし夕方で暗くてどうすることも出来ずにいたが、ふと蛇を追い払う御札(符籍)が思い浮かんだ。急いで紙に「速去千里 (幽霊を追い払う時、早く遠くに行けと追い払う意味で使う言葉)」と記して蛇が通った場所に貼り付けた。ところが驚くことに暫くした後、台所に行ってみると蛇が去っていなかったと言う。 これは御札の力なのか、ただ逃げる時になって逃げたのかは知る由もない。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に伝わって来た口伝説話でキム・ナムンお祖父さんが子供の頃伝え聞いた話だ。人間が死んだらこれをあの世に導く者がまさに冥土の使者だ。 ある日冥土の使者が死ぬ日になった人一人をあの世に連れて行ったが、よく見ると同名異人の他の人を誤って連れて行ったのだった。 閻魔大王は使者をとても叱ってしっかりと連れて来いと命令した。 冥土の使者がこの世を訪ね失敗を正そうとしたら、元もと連れて行かなければならない人が死のうとしていた。自ら命を断ってあの世に行こうとするがあえて自分が連れて行く必要がないと思った冥土の使者は再びあの世に帰って来た。すると閻魔大王はその人はそのまま置いて、間違って連れてきた同名異人を現生に返しなさいと命じた。しかし、すでに冥土で3日を送ってしまったその人は、体が腐って永遠に現世に戻れずにあの世にそのまま暮らさなければならなかったと言われている。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に伝わって来た口伝説話でキム・ナムンお祖父さんが子供の頃伝え聞いた話だ。 昔ある両班がいた。元もと両班は体面の為に他の家の祝賀の宴を訪ねて行って食べ物を貰って食べたりしていなかったが、彼は父親に持って行ってあげるつもりでドリルつもりで時々祝賀の宴に行って食べ物を包んで来たりした。 そんなある日の夕方だった。その日も両班はある宴の家に行って食べ物を包んで長い道のりを歩いて来たが、突然目の前に虎一匹が現れ道を塞いだ。びっくり仰天した両班が虎に尋ねた。 「本当に私を捕まえて食べようとするのか?" しかし、虎は首を横に振ってことさら自分の背中に乗れという動作をして見せた。よって両班が虎の背に乗ると虎は飛ぶように素早く走って彼を家の前で降ろしてあげた。 両班は虎のおかげで父親の夕食をよく準備して差し上げて寝床に入った。ところが夢の中で夕方に見たその虎が現れ罠に掛かって死ぬので助けてくれと身もだえしているじゃないか! びっくりして驚いて眠りから覚めた両班が走ってみると、本当に近所の人が罠に掛かった虎を捕まえようとしていた。彼は急いで虎を助けてあげた。 このことがあった後、両班は国から孝子賞を受け、九龍里に孝子碑が立てられたと言う。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

石戦は、多くの人々が2チームに分かれて互いにつぶて打ちをして勝負を決めた韓国固有の民俗遊びで、古くから主に村対抗遊びとして楽しまれた。三国時代から始まったと推定され、戦争に備えるためのための戦闘的遊び、または実戦練習の遊びという説と、昔村ごとに軍隊に入隊する青年を選ぶのに、どの村が最も力強く勇敢な青年を輩出させるかを競った習慣から来たという説などが伝えられている。 石戦は、主に村と村の間の空き地で行われ、2チームに分かれた人々が小川や川を境界線とし、数百歩の距離をおいて互いに石を投げて戦った。参加人数は村の大きさに比例し、多い場合は1チームで数百人にもなり、村が小さい場合は10人を超えない場所もあった。この遊びは、昼間に子供から始まり、大人が参加することでより一層激しくなり、最初は遠くから石を投げるが徐々に距離を縮め、最初に逃げた方が負けだ。この時、石は手で投げたり、マンペ・マンパルメ・チュルパルメなどと呼ばれる投石機を使用した。 石戦は、村の間に生まれた悪い感情を解く機会ともなり、力を比べることによって住民をさらに強固にする単純な遊び以上の行事だった。石戦が起こると、見物人は危険がない場所に移動し、綿を入れて作った冬の服を着たため、負傷者もそれほど多くなかった。しかし、額が割れて腕が折れても遊びをやめず、たまに死傷者が発生した。このため、朝鮮時代には治安を担当した漢城府などの官衙で特別に石戦を禁止したが、あまりにも深く根を下ろした風習だったため、なかなか防げなかったという。 朝鮮後期の歳時風俗誌『京都雑誌』と『東国歳時記』などによると、毎年正月小正月に三門(崇礼門・敦義門・昭義門)の外の人々と阿峴(エオゲ)の人々は、西小門の外の万里峴の上で石戦を競ったという。また、清渓川の下流の両方仮山一帯と東大門の外のアンガムネ、新堂洞のムダンネも石戦を行った場所だったという。

三国(推定)/不詳

文化/行事/風物ノリ

ソウル特別市中区

便戦

朝鮮時代、成宗が武官数人を連れて潜行(王がお忍びで外出していたこと)に出かけた。何の気なしに広橋(以前清渓川の上に架けられていた橋)の上で歩みを止めた成宗は、40歳くらいの身なりがみすぼらしい田舎者が、1人橋の下にうずくまって座って居眠りしているのを見かけた。 成宗が近づいて誰かと尋ねると、自分は慶尚道から来たキム・ヒドンで、王様が暮らすソウル見物をしようとようやく旅費をやりくりして到着したものの、寝場所がなく橋の下に座って夜を明かしているのだと言った。そして、聡明で善良な王様にぜひ会いたいから、王様がいる場所はどこかと成宗に尋ねた。彼の純朴さを健気に思った成宗は、とぼけて「私はイ・チョムジと申す。王様がいらっしゃる場所を知ってはいるが、どのような理由で王様にお目にかかりたいのだ?」と尋ねた。するとキム・ヒドンは、「王様が聡明で善良で、民が何の心配もなく暮らしているので、感謝のご挨拶をさせていただきたいのです。」と、背負ってきたナマコとアワビを必ず差し上げたいので、王様の居場所を教えてくれるよう頼んだ。成宗は、王様に会わせてやろうと言い、武官の家で一晩泊めた。 翌日、再び潜行に出た成宗はキム・ヒドンを訪ね、王に会うためには官職が必要なので、必要な官職に就けるよう力を尽くしてみようと言った。キム・ヒドンは半信半疑ながら、「忠義という官職がいいのですが、何も知らない田舎者にあなたがどうしてそんな良い官職を就かせてくれるのですか。」と言い、王様には会えそうにもないので、ナマコとアワビを代わりに渡して欲しいと再度頼んだ。成宗は笑いを辛うじて抑えながら、自分を信じてみろと言い、その夜キム・ヒドンを忠義初仕に任命するよう吏曹判書に命じた。一晩で官職に就いたキム・ヒドンは、訳も分からず紗帽と官服を身に着けて宮殿に入ることになった。 いよいよ待望の王様に面会した彼は、慌ててお辞儀をしてその場に平伏した。頭を上げよという成宗の言葉で龍座を眺めてみると、驚くことにそこにはイ・チョムジが座っていた。キム・ヒドンは、ようやく2日も向かい合って​​話を交わしたイ・チョムジが王であったことに気づいた。彼は恐れ畏まってどうしていいか分からず、あまりにも慌ててナマコとアワビの包みを地面に落としてしまった。すると成宗は笑いながら、「私のために持ってきたのだから、ありがたく食べよう」と、食べ物を収めさせ、キム・ヒドンに賞金をやって錦衣還郷させた。キム・ヒドンは、聡明な成宗の恩恵に感激し、田舎に戻って行ったと言う。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

トケビ火は暗い夜に湿地や墓地で原因不明の火が発生する怪異な現象で、怪火の一種である。韓国には真夜中にゆらゆら光る火に惑わされ正気を失ったり、共同墓地や古木、古い廃墟などでゆらめく火の目撃談など、トケビ火をネタにした民話や説話が伝えられている。 この話はソウル特別市中区に住んでいる金ナムンおじいさんが幼い頃に直接経験したトケビ火に関する説話だ。おじいさん住んでいた村には農地の方に山が一つあったが、その前を通り過ぎる人はあまりいなかった。山から時折トケビ火が現れるからだ。ほとんどの村人がトケビ火を目撃して、ここを通り過ぎることを嫌がったが、おかしなことにおじいさんの目にはトケビ火が見えなかった。そのため、トケビ火は強い心臓の持ち主には見えないと人々はいったという。 このように、過去にはトケビ火を幽霊と誤解して恐れるケースが多かったが、現在はトケビ火が現れる原因について科学的に分析されている。昆虫や鳥類の発光、夜間に現れる慣性の異常屈折現象など、様々な解釈が存在するが、その中でも燐火説という主張が最も有力である。人や動物の骨から出る燐が空気中の二酸化炭素などと反応して起こる化学作用で、温度によって青光や黄色光、赤光を放つという。 農業社会でおじいさん、おばあさんの口を通して怪談ネタとしてしばし出現してきたトケビ火は、現在の都市環境では見ることができない昔話になったが、韓民族の情緒には未だ恐怖と神秘の対象として残っている。

不詳/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

中区に伝わって来た口伝説話でキム・ナムンはお祖父さんが子供の頃伝え聞いた話だ。 ある木こりが山に木を採りに行ったら、なぜか老人が現れたが瞬く間に消えた。後で分かったがその老人の正体は話だけ聞いた動く高麗人蔘、まさに動蔘だった。 動蔘は動く高麗人蔘という意味だ。 木こりは惜しんで考えた。動蔘というのが化けて歩き回ることが出来るので、山参よりもはるかに良いものではないか!さらに化けたものが老人であることから、とても大きな高麗人蔘 だと言う事を推測することができた。この話を伝え聞いた一人の薬草屋が遠く済州島から訪ねて来た。薬草屋は高麗人蔘を買って、人が通らない所にある大きな岩の割れ目に植えておいたが、その後訪ねてみると高麗人蔘が跡形もなく消えてしまったと言う。キム・ナムンお祖父さんはこの高麗人蔘もやはり動蔘じゃないかと思ったと言う。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

薬水(ヤクス)とは飲んだり体を浸したりすると薬効がある泉の水を言う。固形物質の鉱物性物質・放射性物質・ガス性物質などが含有され地中から湧き出る泉を鉱泉とし、鉱泉の中でも人体に有益な物質が溶けていて飲んでも良い水を薬水と規定する。 特に岩の割れ目から湧き出る薬水はカルシウム・カリウム・ラジウム・硫酸塩・珪酸・ナトリウム・マグネシウム・鉄分など若干の鉱物質が含有されて人体に有益で、また飲む人の気分を爽やかにしてくれて、体内の毒気を排出させる効果があると知られている。 韓国は他の国に比べて薬水に対する愛着が強い方で、1960年以後その関心はさらに高まった。ソウル上水道の取水源である漢江が汚染され、水道水の代わりに地下水や岩の割れ目から流れ出る無公害の生水を薬水と思って薬水の泉を訪れる人がぐんと増えた。この様子を見たドイツ人のエソンヌサード(Esson Third)は1902年に「ソウル、韓国の首都」と言う紀行文で、「ソウル城内の人は15〜20尺下から出てくる水を食水として使用するだけでなく、これを長命霊薬の「薬水」とまでする。私たちヨーロッパ人たちは、このような水を食水として使用することは想像もできないし、おそらく法で禁ずるであろう」と記録し、これを奇異な風景に思った記録がある。 南山の薬水はプオン岩薬水と奨忠壇薬水が有名だ。この中でもプオン岩薬水 は他の名前では「ボム岩薬水」または「ヒュアム薬水」とも呼ばれている。場所は南山国立劇場を右側に挟んで回り南方に向かって南山循環道路を少し歩いてみると、左側に現れる近道が一つある。この近道で行くか、そのまま入って行くか歩いてみると臥龍廟が現れる。この時から右側を注視するとすぐに反共建国青年記念碑に下りて行く階段の道が現れる。この階段の道の右側に薬水の泉がある。この薬水はプオン岩の下から湧き出るが、水の味が非常に良く昔から胃腸病に特効があると伝えられており、夏季には避暑をしたり散歩する人々の行き来が絶えない。同時に石間水の上にまたがって建てた泉石閣という楼閣は避暑するにはとても良い場所で有名だったが今はない。 その他にも南山には寿福泉、龍岩、不老泉、蠶頭、厚岩薬水など多くの薬水がある。

未詳/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

井戸とは飲用水を確保するために土を掘って地下水を溜めた場所、またはその施設のことをいう。中区地域にはいくつかの名のある井戸があり、その仲でも忠武路ジンコゲの「窟井戸」が最も有名だった。この井戸は深く洞窟のようだったため「窟井」と呼ばれ、『芝峯類説』著者の李睟光の息子、東州・李敏求(1589~1670)が石の下から水が湧き出るのを見つけ、これを掘ってつくったものと伝えられている。 貞洞1街と乙支路2街にわたっては「糸井戸」があった。深くない井戸で水筋があまりにも細く、しばらく待たないと水が溜まらなかったため糸井戸、または糸井と呼ばれ、村の名前も糸井戸がある村という意味の「糸井洞」と呼ばれた。 南山洞2街には「許井」と呼ばれる井戸があったが、朝鮮時代の正祖時期の許氏の姓を持った官吏がその近くに住んでいたことから付けられた名である。許井は昔、南山の上にあった国師堂に祭祀を捧げる時に使われた井戸で、この場所には石人像(陵墓の前に立てる被葬者を守護する象徴物の一つ)があったと伝えられている。 芸場洞には南山頂上の国師堂で祭祀を捧げる時に使われた「聖斎井」があり、忠武路3街と草洞、乙支路3街にわたる草廛コル(谷)には「フチュ(コショウ)井戸」があった。フチュ井戸は水の味が辛くて鼻につんとくるのが、まるでコショウをいれたようなので、その名が付けられたといわれている。漢字で椒井とも呼ばれていたが、胃腸病に特効性があるといわれ、たくさんの人々に飲まれてきた。1906年、ジンコゲを8尺ほど低くして、高さ5尺にもなる方錐形の放水管(田んぼに水を入れたり抜いたりするために土手や堤防の下に空けた穴)を埋めた後には、水色が濁り味も普通の水になって効能もなくなったという。乙支路4街と仁峴洞2街にわたっては井戸の蓋として大きい板をかぶせていた「ノル井戸」と呼ばれていた井戸があり、仁峴洞2街と乙支路4街にわたる井戸の中の模様がまるで石臼のようだったことから、「トク(甕)井戸」という名が付けられた井戸があった。日帝強占期初期まで、ノル井戸は若者が、トク井戸は高齢者が利用した。特に、独り身になった夫人達は夜中にトク井戸の水を汲みに行かなければならないという不文の規則があって、夜になるとトク井戸は水壷を頭にのせて集まった寡婦達でいつも込み合ったという。 中林洞北西側には、朝鮮時代の宣祖時期に翰林コル(谷)に住んでいた李廷馣の3兄弟が、翰林の官吏として過ごした美談から「兄弟井戸」と呼ばれた井戸があった。 義州路2街の蓋井洞には「トゥケ井戸」があり、古い橋の前の斬址近くにあったこの井戸は、大きく深いだけでなく水がたくさん湧き出て、いつも溢れていたといわれている。トゥケ井戸は普段は蓋をしておき、死刑執行をする首切りが人を殺す時に蓋を開けて刀を洗うのに使用したと伝えられている。 乙支路6街に位置する訓練院内には「福井」または「桶井」と呼ばれる井戸があった。『漢京識略』によると、「この井戸は水の味が甘く冷たくて、冬は熱く夏は冷たく、干からびたり溢れたり、多くも少なくもない、ソウルで一番良い湧き水である。この湧き水をはじめて発見した時に、大きな柳の木の根の下に水脈があったため、その根を削って井戸をつくった。まるで底のない木の桶を埋めたようだったため「トン(桶)井」と呼ばれた。その桶は今もまだ井戸の下で腐らず残っていて、これもまた奇異たることだ、と記録されている。 最後に会賢洞2街にあった「朴井」は、井戸が浅く桶でも水を掬い上げることができたことから付けられた名で、水がきれいで冷たく、薬を煎じるのに良かったと伝えられている。

不詳/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

ジンコゲ(峠)窟井戸は、朝鮮時代のジンコゲ(現在の忠武路2街世宗ホテルの場所)にあった井戸で、漢字で窟井ともいわれていた。『漢京識略』には、「窟井は南部阿峴にあるが、井戸が深く洞窟があったためその名称に由来された。」という記録が伝えられている。 窟井ははじめから井戸として使用されていた場所ではなく、自然に露出した湧き水のような場所で、これをはじめて発見して掘った人物は『芝峯類説』の著者で李睟光の息子の東州・李敏求である。 1601年(宣祖34年)李敏求が13歳の時のことだ。ある日ジンコゲで遊んでいると、岩の間からきれいな水が湧き上がるのを発見、村の子供達を集めて力を合わせ井戸を掘り、縁は石で囲んだ。 その後、道を歩く村人も通り過ぎる際に水を飲めるようになり、常に一定の水位を維持していた井戸の水の入口がどんどん大きく掘られることにより、洞窟のような形になった。 その後、李敏求は官職に上り、京畿道観察使の官吏を歴任して、丁卯胡乱と丙子胡乱を経た後、しばらく官職から離れて、ある日偶然に窟井戸の前を通り過ぎた。幼い頃に子供達と共に掘ったその井戸が、いつの間にか古色蒼然たる井戸になったのを見て感懐に濡れ、歩みを止めて下記のような詩をつくった。 手で掘る時は一筋の湧き水だったのに いつの間に50年の歳月が過ぎていった。 石の中の一筋の湧き水は枯れなかったというのに その間に老いて死んだ人は誰だったか この詩は『東州集』によって伝えられているが、これを通して窟井は李敏求が彫ったと推測することができる。

朝鮮/1601

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区忠武路2街

窟井

「馬蹄銀(マジェウン)の主人」の説話は朝鮮後期の文人で官僚の李瑞雨 (イ・ソウ1633〜1709年)の清廉さに関する逸話で粛宗と関連した話でもある。 昔のソウル南山村には貧しい書生がたくさん集まって住んでいた。彼らはたとえ生活はひどく貧乏であっても、学問に対する人並み外れた誇りと変わらない節操を持つソンビたちだった。李瑞雨も彼らと変わらない普通のソンビだった。 李瑞雨はある寒い冬の夜に、一日中お粥一杯もろくに食べられないまま氷の様に冷たい部屋に身をすくめて座って本を読んでいた。なにしろ腹を空かし気を付けて集中しようとしてもうまくいかず、疲れたせいでしっかりと本を読む声が出なかった。ところが、突然窓越しに何かぽんと床に落ちるものがあった。見てみるともち米の餅がいっぱい入った器だった。「おや、なぜもち米の餅だろうか ?誰かが空腹の私の境遇を憐れんで投げてくれたようだ。本当にありがたい方だ。 " 李瑞雨はその餅を甘んじて食べ元気を出して夜を明かして勉強を続けた末、翌年文科に合格して粛宗に仕える様になった。数年がたったある満月の夜、臣下たちと宴会を催していた粛宗がため息をついて言った。 「もう何年も前のことになったよ。朕が世子時代潜行で南山村に着いた時に倒れかかっている藁葺きの家で文章を読む音がしたが、どれ程飢えたのか声がよく出ない状況だった。それで朕が別監に頼んでもち米の餅を入れてあげた事があったが、今そのソンビはどうなったのか。」 この時、王の近くにいた李瑞雨が前に出てうつぶせになり涙を流しながら、そのソンビが自分であることを知らせた。そして餅の中に馬蹄銀が一塊り入っていたが、今もそのまま大事にしまってあると告げた。 粛宗は大喜びで馬蹄銀を持って来る様に言い、見てみると思った通り少しも擦り減らない最初のままだった。粛宗は李瑞雨の清廉さをとても賞賛された後、銀を授けてより高い官職を下したと言う。

朝鮮/1633年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

李起築夫人の説話は女性の社会的進出が封鎖されていた朝鮮時代の内助を通して夫を出世の道に導いた鄭氏夫人の話で、今の西大門近くで伝わって来た話だ。 光海君時、李起築(イ・キチュク1589〜1645年)という人がいた。彼は世宗の兄の孝寧大君の子孫だったが、両親と早くに死に別れ家がとても貧しく忠清道洪城の鄭氏の家でご飯などを貰って食べる作男暮らしをしていた。 主人の家には顔がきれいな娘が一人いたが、人物だけでなく才知に溢れあまねく相応しい結婚相手を求めるところだった。ところがなぜか鄭氏の娘はいい 結婚相手をすべて拒んで、作男である李起築に嫁ぐと言い張った。両親はいくら叱っても微動だにしない娘を李起築と共に追い出してしまった。 二人は漢陽に上がり敦義門外に家を借りて立ったまま酒を飲む酒屋を構えた。鄭氏夫人は酒屋を運営し、夫には字を学ぶようにし南山に登って武術を磨くようにした。 そんなある日、一集団の人々が入って来て酒の膳を準備した。夫人はまるで待っていたかのように彼らによく醸す酒と良い肴を出して置いた。そして銀の杯を出し、杯に溢れる程酒をいっぱい入れ座中のソンビに捧げた。続いて真鍮の杯に酒に注ぎすべてに丁重に杯を回した。香りの良い酒にほろ酔い機嫌で酔った彼らが酒代がいくらかと尋ねたが鄭氏夫人は頑なに拒んだ。 翌日鄭氏夫人は酒屋を閉じて李起築を呼び孟子の本を与えた。 「ここのこの文章の意味を昨日私が銀の酒の杯を上げた方に尋ねて下さい。誰がこのようにさせたのかと訊ねたら私が推測して退くので来て下さい。」 何も知らない李起築は本をわき腹に抱え夫人が話してくれたところに向かった。銀の杯の主人は他でもない、宣祖の孫綾陽君(ヌンヤングン)で、夫人が訊ねて見る様にした事は、湯王が榮を追い出し周武王が料を打つと言う、いわゆる暴君を追い出す内容だった。昨夜、酒屋に集まって光海君を追いかけ出そうと反逆を模擬した綾陽君はとても慌てて集団を率いて酒屋に向かった。 よって鄭氏夫人は丁重な礼で綾陽君を迎え酒の膳を出してきた。そして、自分が彼らの謀議について知っていると、大事に夫を加えて欲しいとお願いしたのだった。綾陽君がこれをどのようにして知ったのかと尋ねると、夫人は自分が幼くして術數に長けている道士に会って占う法を学び、よって世の中が変わることを知っていたと答えた。また、作男李起築の顔を見たら、貴くなる常人なので親の意に背き婚姻し、この場所に酒場を構綾陽君が来ることだけを待っていたと言う。 以後、綾陽君は李起築の酒屋で反逆を企てる会議を持つようになり、夫人は彼らを真心こめて面倒を見た。李起築も南山に登って都城内の動きを監視する役割を受け持ち、反正は最終的に成功した。一時は名前もなく己丑年に生まれ、起築と呼ばれ作男として過ごした李起築は、反正功臣として認められ三陟僉使・長湍府使を務め、仁祖が孫秀の名前まで起築(キチュク)と付けた。これは全て李起築の後ろで夫を物心両面で内助した鄭氏夫人のお蔭だと伝わる。

朝鮮/1589年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

盲人夫人の説話は申師任堂(シン・サイムダン)、張桂香(ジャン・ゲヒャン)などと共に朝鮮の3大賢母と呼ばれる固城李氏の話で、今の中林洞である旧薬峴に伝えられる話だ。薬峴はソウル駅から万里路側に続く中林洞の昔の名前だ。1550年代薬峴には固城李氏が住んでいたが、ここに彼女と関連する逸話が伝えられている。 禮曹參判の徐固の息子徐嶰(ソヘ)は早くに親と死に別れ貧しく育ったが、幼い頃から文章を書く事と学識が優れていた。成年になった彼は師匠退渓李滉の紹介で固城李氏の身内と婚姻を結ぶことになったが、安東の花嫁の家に行く途中、結婚する妻が盲人であるという事実を知ることになる。新郎一行はすぐに破談して帰ろうと興奮した。しかし、徐嶰は自分がここまで来て婚礼をせずに帰っていけば、噂が広がって新婦は永遠に結婚することができないだろうと婚姻を強行した。 徐嶰は盲人の花嫁を自身の運命として受け入れ愛し息子徐渻(ソソン)を得たが、この幸せはそう長くは続かなかった。23歳の若さで徐嶰がこの世を去ってしまったのだ。未亡人になった李氏は夫を失った悲しみが失せる前に3歳になる息子と共に生計を心配しなければならなかった。李氏夫人は徐渻をよく育てることだけが夭折した夫に対する道理だと考え、息子に良い教育環境を作ってあげるために住んでいた安東から漢陽に引っ越した。そして現薬峴聖堂の場所に家を建てた後、清酒を醸して強飯とユミルカを作り売って生計を立てたが、質と味が優れ長安の名物となり大金を集める様になった。今の薬酒と薬食、薬果という名称は、すべて李氏夫人から由来したと伝えられるが、王が味見して天下の珍味だとし、ヤクジュという名前を付けたという話がある。また、作った場所が薬峴という「薬」の字を使ったとも、息子徐渻の号薬峰(ヤクボン)というここから由来したという推測もある。李氏夫人は物事の道理にも明るかった。薬峴に家を建てている時、前が見えない夫人が几帳面に監督することを不満に思った大工が家の中央にある広い板の間の柱を逆に立てた。するとこれを手で一つ一つ触れて大工を叱りつけ再びごまかす事がないようにしたと言う。このような母のおかげで徐渻は栗谷李珥(イイ)の門下生となり、29歳で文科に合格して壬辰倭乱の時大きく活躍するなど、当代の人材として評判を得た。以降、光海君の不倫に反対して長い島流し生活をしたが、仁祖反正後に再び復職となり兵曹判書を務めた。徐渻の息子と子孫たちも6丞相と3提学をする等、名門一家を成した。たとえ盲目だったとしても才色と学徳を備えた李氏夫人は死後政経夫人に追贈された。

朝鮮/1537年以降

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区南昌洞

南大門外幽霊の家の伝説は朝鮮末に現在の南昌洞である尚洞の宮殿に現れた幽霊に関する話だ。今の南大門市場の場所は1901年から6年間ドイツ領事館があったところで、朝鮮末に将軍の幽霊が現れたという伝説がある。1905年頃、日露戦争の取材のため韓国に来たスウェーデンの新聞記者アソングレブスト(Ason Grebst)がドイツ領事にこの奇妙な話を聞き紀行文に残した。 当時ドイツ領事館があったところを尚洞と呼んでいたが、朝鮮時代初期にはここに5つの宮殿があったので5宮殿と呼んだ。ドイツ領事館があった場所は5宮殿の中の一つだったが、まさにここに数年の間将軍姿の幽霊が現れたという。将軍の幽霊は真夜中に馬に乗って現れ、馬の蹄の音を出しながら宮殿の門を通過した。幽霊が現れ宮殿は長い間空き家のまま捨てられていた。そんなある日、尚(サン)というソンビが上京し将軍の幽霊が現れるという宮殿に近い酒旅龍屋に泊まる様になった。普段から肝っ玉が大きかったソンビは将軍の幽霊が現れるという話を聞いて、宮殿に泊まり噂の真相を突きとめたりもした。遂行した僕たちが従おうとせず、一人で宮殿に居所を移したソンビは灯火をつけて座り幽霊が現れるのを待っていた。そんな中、まるで雷の音と同じ様な大きな音と共に将軍の幽霊が現れたが、 尚は将軍の幽霊が現れた訳を伝え聞き地中の土の箱を取り出し将軍の幽霊の怨みを解放してあげた。 するとその後は将軍の幽霊が現れずソンビは宮殿を取ることができたと言う。

大韓帝国/未詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区南昌洞

喪歌僧舞老人哭は、ソウル特別市中区に残る物話で、中区南山に住んでいた親思いの若夫婦の善行を王が目撃し、彼らの親思いの行動に褒美を与えたという内容の説話だ。しかし、この物語のような構造の様々な異本が、全国に存在している。 昔、朝鮮時代の王は、人々の生活を直接探るために、平服姿でこっそり宮殿の外に出て、よく民情視察を行ったが、これを微行という。 ある日、南山の麓に微行に出た成宗は、ぼろぼろのわらぶきの家の前を通りかかった時に不思議な光景を目撃した。白髪の老人がつつましい膳の上に盃を置いて号泣し、黄色の喪服を着た若い喪主は歌を歌い、剃髪した女僧が踊っていたのだ。 王が理由を尋ねると、老人は涙を流しながら答えた。 「あの喪に服しているのは私の息子で、昨年母親が死んで喪服を着ているのです。あの剃髪した女性は嫁です。今日は私の還暦なのですが、貧しくて還暦祝宴の膳を用意できず、嫁が自分の髪を売って用意してくれたんです。息子は父を喜ばせようとしてああして歌を歌い、嫁は踊っているのに、見ていると自然と涙が出てきて、こうして泣いているのすよ。」 親を手厚く世話したいという息子夫婦の気持ちに大変感動した王は、息子に間もなく国で科挙試験を実施するということを伝えた。そして宮に戻ってすぐに科挙を実施させ、その試験のお題が「喪歌僧舞老人哭」だった。つまり、喪主は歌い、僧侶は踊り、老人は号泣するという内容だった。突然実施された科挙の試験、なぞなぞのようなお題に受験者は皆困惑したが、ただ1人、老人の息子だけは自分が体験したことをなぞらえ、自信を持って文を書くことができた。老人の息子は、王の特別なはからいのおかげで官職につき、嫁も孝父賞を受け年老いた親の世話をしながら幸せに暮らしたという。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

喪歌僧舞老人嘆

許生は、燕岩朴趾源(1737~1805)の小説『許生伝』の主人公で、昔墨寺洞川が流れる南山の麓モクチョクゴルに隠遁して住んでいた人物だ。モクチョクゴルは、現在の墨井洞と推定される。 許生は、ぼろぼろのあばら家に住みながらも、読書だけを好み、妻の賃針仕事でやっと暮らしを立てていた。そんなある日、空腹に疲れた妻が勉強しかしない彼をとがめ、技術もなく商売する元手もないから盗みでもするしかないと責めたてた。これに許生は、10年勉強しようと決心したのを7年しかできなかったと嘆き、外に出ることになった。 そして、漢陽一番の金持ちの辺氏を訪ね、いきなり1万両を借りて安城と済州島に行き、買占売惜で100万両を得た。こうして大金を儲けた許生は、そのお金で辺山の盗賊1千人を連れて無人島に行き、理想の国の試験に成功した。泥棒が自給自足できるようにした後、島を離れた許生はそのお金で国中を歩き回り、貧しい人と頼る場所がない人たちの救済に力を注いだ。それでも10万両が残り、そのお金をすべて辺氏に渡した。これに辺氏は長年許生の暮らしの面倒を見、彼と厚い情を築いていった。 そんなある日、辺氏の紹介で御営大将の李浣が清を撃退するためのアドバイスを求めようと、許生を訪ねてきた。許生が3つの計略を李浣に話したが、李浣が両班の体面と利益のためにできないと断ると、彼大声で叱り姿を消したという。 よく南山ゴルセンニムといえば、実生活に役立ず本だけを覗いて、経済活動には無能な人だと断定しやすい。しかし、以前のソンビは科挙のために読書だけに没頭したのではなく、経済・数学・科学・地理学などにも該博だった。許生が見せた経済感覚や経世戦略は、これをよく示している。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

フクロウ岩は、ソウル特別市中区南山公園キルのフクロウ岩湧き水の上にある岩で、フクロウのような形をしていることから由来した名前だ。フクロウ岩は、フクロウに似ていることからフクロウ岩、または虎岩ともいい、この岩の下には胃腸病に良いという湧き水がある。フクロウ岩の伝説は、この岩にまつわる話だ。 朝鮮時代、ある青年が生活を苦にこの岩で自殺をしようとしたが、偶然お金持ちの女性に出会い、彼女の家まで行くことになった。青年は、夜な夜な女性の家を訪ねて幸せな日々を過ごし、昼は夜が来るのを待ち、朝は夜が短いことを惜しんた。そんなある日の夜、女性は深刻な表情で、どんなことがあっても裏切らないでいられるか​と尋ね、これに青年は絶対に彼女を裏切らないと誓った。 夢のような夜を過ごして家に帰ってきた青年が、女性と一緒に暮らそうと決心して次の日女性の家に向かう途中だった。青年は、フクロウ岩の上に座っていた白髪の老人から、その女性がムカデだとをいうことを知った。そのことを話しながら、老人は青年が死んでしまうだろうと言った。老人は、死にたくなければタバコのやにを女性の顔にはきかけるようにと、タバコを渡した。その言葉に驚いた青年は、思わず口にタバコのやにを含んで女性の家まで行った。しかし、いつもと同じように自分を迎えてくれた女性を見て、青年はためらった上タバコのやにを地面に吐き出してしまった。 すると、女性は安堵のため息をついて言った。自分の正体は千歳のムカデで、今日さえ越せれば人間として生きられるが、1000歳のミミズが嫉妬して自分を殺そうと企てたのだと言った。そして、家の中に入り金箱を出してきた。思いがけない儲けものをした青年は、金箱を自分の家に持ち帰り、もう一度女性の家に行ってみると、女性はもちろん家も消えていた。青年は残念に思いながらも、そのお金で一生楽に暮らしたという。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区南山公園キル

虎岩の伝説

南小門は、奨忠洞から漢南洞にすすむポティゴゲ(峠)にあった城門で、漢陽4小門のひとつだった。南小門は、朝鮮初期の1457年(世祖3)に建てられた。当時、都城から漢南洞の漢江ナルを通じて南に行くには、遠い距離の光熙門を通って行かなければならず、不便だった。これに、まっすぐ漢江ナルに行ける門を設置しようという提案に基づいて新設されたのが、ポティゴゲの南小門だった。 しかし、南小門は設置されて間もなく睿宗の時に閉鎖されてしまった。知経筵事の任元濬などが、車さえ通れず実用性がないと主張する一方で、陰陽家が風水思想を挙げて開放に反対したためだ。陰陽家によると、ソウルの南東を開放すると都城内の女性の淫行が増えて災いが起こるというのだ。そのような理由のためかは分からないが、門を造った直後に世祖の長男懿敬世子が亡くなったこともあり、睿宗は城門閉鎖の提案を受け入れた。 その後も、1554年(明宗9)には閉鎖された南小門の付近に泥棒が隠れ、夜になると城壁を越えて盗みを働くため、光熙門の外一帯が泥棒の巣窟となり、人や馬が通れないことが多かった。すると南小門を開いて被害を減らそうという主張が出始め、明宗と粛宗の時も門を開こうという意見が何度も提案された。しかし、最終的には陰陽家の反対にぶつかり、南小門の開通は行われなかった。南山の形状が、女性が子供を産む形に見え、子供を産む形の門が南小門なので、門を開けると都城の女性の風紀が乱れるとして、結局は閉じたままになった。これにより、朝鮮末まで南小門の役割を光熙門が果たした。 朝鮮時代に風水思想がどれほど強く作用したのかが分かる例だ。南小門は、閉鎖はされたが朝鮮末まで存続したものと推測され、いつ毀損され取り壊されたか正確な時期は知られていない。日帝強占期に至っては、南小門の礎すらなくなってしまった。

朝鮮/不詳

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

『入れ変わった新郎』説話は、大提学と礼曹判書を務めた朝鮮中期の文臣め李安訥(1571~1637)に関した物語で、李羲準の⪡渓西野談⪢にその内容が残っている​​。 奨忠壇公園の水標橋は、朝鮮時代に清渓川に架けられた橋のひとつで、ソウル特別市有形文化財第18号に指定されている。1959年の覆蓋工事で清渓川のすべての橋が消えてしまったが、素晴らしい建築美を誇る水標橋だけは解体し、1965年奨忠壇公園に移して復元した。水標橋は、朝鮮の歳時風習が分かる多くの物語が伝えられているが、李安訥にまつわる変わった新郎説話もそのひとつだ。 中宗の時から、人々の間には小正月の夜に清渓川の12橋を踏むと、1年中無病息災で過ごせるという噂が飛びかった。この日だけは通行禁止も解除され、長安の老若男女が橋を踏んで渡る踏橋遊びを楽しんだ。新郎の李安訥もその日は踏橋遊びを楽しみ、酔っ払って水標橋付近に倒れこんで眠ってしまった。すると一群の使用人が集まり、李安訥を背負って初夜の部屋に運んで行ってしまった。花嫁と一晩を過ごした李安訥は翌日びっくりしてしまう。そこが自分の初夜の部屋でもなければ、花嫁も自分の妻でなかったからだ。花嫁もようやく使用人たちの間違いで新郎が入れ変わったことに気づいた。 花嫁は慌てた李安訥に、自分は一人娘で年老いた親のために自決もできないので、妾として迎え入れてほしいと頼み込んだ。これに李安訥は何度も引き止め拒絶したが、ついに見知らぬ花嫁を連れて出てこっそり叔母の家に預けた後、科挙に合格するまで会わないことを約束した。そして月日は流れ、科挙に合格した李安訥は花嫁を訪ね、妾として迎えた。これを後に知った花嫁の年老いた親は、死んだと思いこんでいた一人娘が生きていることを喜び、残りの人生を李安訥に託した。妾となった花嫁の家は、代々訳官を務めてきた家柄で、長安でも有名な金持ちだった。花嫁も生まれつき賢く勤勉で、李安訥は生涯を楽に過ごし、弘文館・芸文館・大提学、礼曹判書などの官職を務め、ついに清白吏の名誉まで得た。世間では、李安訥の成功が有名なお金持ちの一人娘だった花嫁の物心両面にわたる世話のおかげだといわれている。

朝鮮/1571年以後

文化/生活様式/説話

ソウル特別市中区

丹学は、体内の気の流れを自然の循環法則に一致させることにより、健康を維持して生命の真なる姿に対する悟りに到達するための修練法またはその学問である。 韓国丹学の歴史は、観点によって固有とも、或いは中国の道教の流入によって影響を受けたともいわれている。固有のものと見做す観点は、古代の神仙思想に淵源を置いて、檀君まで遡る。高句麗末期の624年(営留王7年)に道教が取り入れられたが、この時は国家の福を祈る醋祭のような儀式道教で、高麗時代には王室の庇護としてしばし成長したが、今日はほとんどその痕跡が残されていない。 韓国丹学の脈を形成した修練道教は、新羅末期に唐の留学生である金可紀、崔承祐、崔致遠等によって始められた。この道脈は朝鮮時代に至って、一切の呪術的要素を除き、純粋な内的修練に重点を置いて、仏教、儒教、医学に大きな影響をもたらした。彼等は特に、道教の経典の中の『叅同契』と『黄庭経』を重視して、主に深呼吸法を頂点とする内観法的な導入に主力を尽くした。 その後、李能和(1869~1945)がその一脈として朝鮮丹学派と称し、その根が檀君に行き着くと主張した。 朝鮮丹学派の中で著作を残したのは、金時習(1435~1493)と鄭廉(1506~1549)である。現在は、韓国重要無形文化財第76号であるテッキョン、仏家の禅武道、伝承仙道の一つの気天門と心武道、国仙道、天道禅法、丹学仙院などで韓国丹学の伝統を継承している。

不詳/不詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

テコンドーは韓国で創始された大韓民国固有の伝統武術で世界的に広く普及した国際公認スポーツだ。武器や場所に拘りなく手と足を利用して攻撃または防御する武道で、身体の鍛錬と共に精神修養を通して正しい人格を形成する事に大きな意義を置いている。 テコンドーの由来は古代部族国家の堤川大会で見つけることができる。昔先祖たちは夫餘の迎鼓・高句麗の東盟・東濊の舞天など原始宗教の儀式時に体育活動で身体を鍛える行動をしたが、これが発達し韓国固有の武芸である手搏、手搏戱、跆拳などになったと推定される。跆拳は三国時代の必須武芸であり、高麗時代に至って技術水準がさらに発展したが、高麗末期に新しい武器が登場するにつれて、武芸的機能が弱化されて民俗競技に変貌し始めた。 以後、日本統治時代に跆拳が民族意識を背景にした民族スポーツとして発展する可能性を示し日本の弾圧に消える危機に瀕したりもしたが、終戦後民族文化に対する主体的認識に基づいて蘇り始めた。この頃「跆拳( テキョン )」の代わりに音と意味が似ている「跆拳(テコン)」という用語を使用するようになり、1961年のテコンドー協会が創立されて以来スポーツとして競技種目となった。 続いてテコンドーは1963年の全国体育大会の正式種目に採択され、1971年には国技として認められた。1973年にはソウルで第1回世界テコンドー選手権大会を開催するとともに、世界テコンドー連盟を創設したが、韓国が団体戦・個人戦のずべてを席巻し総合優勝を占め、第7回大会まで7連覇を達成してテコンドー宗主国としての面目を誇示した。また、1980年にモスクワで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会では、テコンドーをオリンピック競技種目に採択された。以降テコンドーは1986年第10回アジア競技大会の正式種目、1988年度ソウルオリンピック競技大会と1992年のバルセロナオリンピック大会の示範競技種目、2000年にはシドニーオリンピック大会の正式種目に採択され、世界的なスポーツとしての地位を高めている。 今日テコンドーの修練方法は、基本動作から品勢・競い・鍛錬・護身術などで区別するが、基本的な動作はテコンドーの根幹をなす技術で拳とソンナルを用いた防ぎ・差し・突き・打ちと足を利用した蹴りの技術がある。プムセは攻撃と防御の技術をプムセ線に従って体系的に連結したもので、初心者がする太極1〜8場の八つと、有段者が修練する高麗、金剛、太白、平原、十進、地跆、天拳、漢水、一如など九つのプムセがある。競いはプムセを応用し実戦に臨む技術としてお互いに与えられた攻撃と防御を合わせて練習するマッチュオキョルギと、自由自在に相手の急所を狙って防御するキョルギに分けられる。また、鍛錬は攻撃と防御の部位を各種の補助器具を通して強化・鍛錬し破壊力を養うことができ、護身術は接近戦で相手の攻撃を制圧して反撃できるように研磨する技術だ。 競技は体級別に進行するがピン級・フライ級・バンタム 級・フェザー級・ライト級・ウェルター級・ミドル級・ヘビー級に区分されており、初等部・中等部・高等部・女子部・大学部・一般の部に分けられる。 試合は3分3回戦で、四方8mの正方形マットの上で道着の上に胴体・ナンシム・腕・足に保護帯を着用して監督官1人、主審1人、副審4人の審判の下行われる。

未詳/未詳

文化/行事/風物ノリ

ソウル特別市中区

弓道は両班を中心にして、気品ある武道か遊びとして広く伝承された。両班たちは心身を鍛えて徳行を修養する弓術を「射藝(サイェ)」とし、必ず身に付けなければならない武芸の一つだった。そして日常から解放されて弓射いで狩りを楽しんだりし、「鄕射礼(ヒャンサレ)」と言う弓道の儀式を通して両班間の親睦を図った。 弓士は旧暦3月ごろの晴天の日を選んで弓術競技を行った。見物人が集まる中で弓士が交互に弓を射れば、華やかな服を着た妓生が後ろに並んで声をあげて励ました。矢が標的に当たると歌と踊りで余興をそそり酒宴を施すこともした。朝鮮時代の民も南山の石虎亭で弓道を楽しんだという。このように韓国で弓は最も重要な武器の一つであり、弓道は民衆に最も広く普及していた武芸だった。 韓国の弓について最も古い記録は、中国の「三国志」に「濊の槍は長さが三丈にもなり大勢が持たなければならず(中略)樂浪檀弓もある」という内容だ。ここで樂浪檀弓は角弓の元祖でプヨなど多くの国で使用された。また「三国史記」によれば百済では320(比流王17)年宮廷の西方に射臺を設置して毎月の一日と十五日に弓道をし、当時の名弓だったコ・イワンは一日に40匹の鹿と一度に2匹の鴈を撃つ腕前を持っていたという。 新羅では788(元聖王4)年以前までは弓道のみで人材を選抜し、八月中秋には弓道大会を開催し臣下たちと弓射い遊びを楽しんで、これを通して能力のある者を発掘して適材適所に配置した。新羅が弓術を非常に重んじたことが分かる。 高麗時代の玄宗は臣下たちが公務を休む日なら郊外で弓射いをして禅宗は弓場の射場を個別に設置して弓術を熟練するようにして、標的に当てる者があれば賞を施した。朝鮮時代に至っては太祖以来、歴代の王たちが弓道を楽しんでこれを奨励したので、文系出身の文臣も弓をよく射って弓術大会もよく開いた。 以降、弓術は日本植統治時代を経てやや萎縮する傾向を示したが、1922年黃鶴亭が改築されて、朝鮮弓道硏究会が発足された事に伴い徐々に活気付いた。今日では西洋から伝わったアーチェリーと共に大衆の人気を集めるスポーツ種目として発達することになった。

未詳/未詳

文化/行事/風物ノリ

ソウル特別市中区

重陽節は旧暦9月9日だ。 高いところに上がって紅葉した風景を見て楽しみ、詩とお酒を分かち合う風習だがこれを重陽節登高(ジュンヤンジョル ドゥンゴ)と言う。他の言葉で菊遊び、重陽遊び、重陽楓菜遊、詩会とも呼ばれた。 毎年旧暦9月9日には人々は菊で大福を作ったり、菊の酒を仕込んだり、梨とゆず・ザクロ・松の実を細かく切って蜂蜜の水で割って花菜(ファジェ)を作った。そして、南山と北岳山の景色の良いところに集まり座って、飲んだり食べたりして一日を楽しんだという。 重陽節登高の由来や起源は正確に伝えられていないが、1819年に「洌陽歲時記」に「紅葉と菊の季節に男女が遊んで楽しむことが、春に花とコウライヤナギを楽しむことと同じだ。しかし、両班として古きを愛する者は、多くの重陽節に登高して詩を作る」という記録が伝わる。 一方1849年の「東国歳時記」には「ソウルの風習に南北の山に登って食べ物を食べて楽しむ。これは登高の昔の風習を踏襲したものだ」という記録がある。これは中国の登高の風習を踏襲したという意味で解釈されるが、中国後漢の時のことだ。 汝南の人極景(ファンギョン)が隱士費長房に従って逍遥したが、費長房が "9月9日汝南の地に大きな災害があるはずだから、家の中の家族を率いてポケットを作り茶黃(スユ)を入れて腕にかついで山に登って菊の酒を飲めば、大きな災いを免れることができる」と言った。よって極景がそのようにして家に帰ってみると、鶏と犬、羊などがすべて一度に死んでいた。すると費長房は「それらがあなたの代わりに死んだのだ」と言った。その後、人々はこの日になると山に登って酒を飲んで、女性は茶黃を入れた袋を身に付けて出かけたと言う。中国の登高はここに由来したもので災厄を避け、長寿を願う心が込められている。 韓国にも重陽節登高に関する様々な記録が伝わるが、趙秀三(ジョ・スサム)の「秋齋集(チュジェチプ )」を見れば、「人々が高いところ上がって集まりをして菊の酒を飲むが、菊の花が満ちる良い季節だ[人作登高會飮菊花酒謂之佩菊佳節]」とされている。また李文楗(イ・ムンゴン)が書いた「黙齋日記 (ムクジェイルキ )」でも重陽節に監司、城主と一緒に北峰に上がって夜までお酒を飲んだが、一家が集まって登高会を行ったという記録を見つけることができる。これにより重陽節登高が一般的に行わた風習であることを知ることができる。 歳月が流れ今重陽節が節日としての意味は色あせたが、今も昔のまま登高は秋の季節高い山で紅葉と一緒に食べ物やお酒を楽しむ紅葉狩りとして伝わって来ている。

未詳/未詳

文化/行事/歳時風俗

ソウル特別市中区

菊遊び、重陽遊び、重陽楓菜遊、詩会

濯足(タクジョク)は夏季に山間の渓谷の水に足を浸して暑さを追い払う風習で、昔のソンビたちの避暑法と言える。ソンビは体を露出することを嫌うので足だけ水に浸したのだ。 「東国歳時記」によると「6月三伏になると、犬を煮てねぎを入れて煮込んだ犬肉の煮込み汁や、鶏やタケノコを入れたり、麦で麺類を作って青菜と鶏肉を混ぜて白廊子湯(ペンマジャタン)に汁をかけて食べたり、ワカメスープに鶏肉を混ぜて麺を入れ、水を入れて煮て食べたり、カボチャと豚肉に白い餅を切って入れて炒めたり、また、いしもちの干物の頭を混ぜて炒めて食べることもあり、小麦粉にカボチャを切って入れて練って油で焼いたりする等、これらの食べ物は夏の時期の季節の食べ物で、真の素朴な特別においしい食べ物でマクワウリやスイカなどを盛り合わせて、南山と北岳山の渓谷など淸潤玉水を訪ね、同年代が集まって澄んだ小川に足を浸し、冠のひもも洗い一日を楽しく遊んだがこれを濯足会(タクジョケ)とした」という記録を見る事ができる。 濯足という用語は孟子の「 滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、 滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい (滄浪之水淸兮可以濯吾纓滄浪之水濁兮可以濯吾足)」という句節を取ったものだ。戦国時代楚の詩人屈原(クルウオン)の故事に由来したこの詩は、水の清らかさと濁りがそうであるように人間の幸福と不幸は、自分の身の振り方と人格の修養にかかっているということだ。濯足はソンビたちには避暑法だけでなく、精神修養の方法でもあることを知ることができる。 濯足は昔から詩人墨客たちの良い素材にもなった。中国では濯足する姿を描いた濯足図が北宋の時から畫題としてしばしば登場したが、簡素化した自然を背景にして人物を中心に描かれた。図の中の人物たちは膝までズボンをまくり上げたまま足を組んで水に浸していて、時おり片側に酒を捧げ持って立っている男の子と一緒に描いたりもした。 韓国では朝鮮中期を前後して若干描かれていて、朝鮮中期の画家李慶胤 (イ・ギョンユン)の<高士濯足図>、李楨(イ・ジョン)の<老翁濯足図>、作未詳の<高僧濯足図>、朝鮮後期の画家崔北(チェ・ボク)の<高士濯足図>などが代表的だ。

未詳/未詳

文化/行事/歳時風俗

ソウル特別市中区

燃燈行事は旧暦4月8日の釈迦の生誕を祝う儀式で家ごとに燃燈をつるしながら首都の老若男女が夕方から灯りがつるされた光景を見物して遊んだ風習をいう。 朝鮮時代4月初八日燃燈行事は数日前から準備が開始された。子供は数十日前から灯台に紙の旗をつるして城内を歩き回って米と布を集めに行き来したがこれ呼讓(ホギ)遊びと言った。 民家と官庁・市場・街の家は竹を束ね灯火台を立て五色の絹で旗を作って一番上につけた。旗のすぐ下に鉤の形をした物を作って紐を通した後灯をずらりとつるして徐々に持上げれば一番上の灯カルゴリまで上がって止まる様になる。民家では子供の人数通り灯をつるして9日まで明るくするのが原則だが、夜になって火をつけると灯の形が幾重にも重なってつながり、まるで真珠を糸に通した様だと言う。 灯は模様に応じてスイカ灯 ・ニンニク灯 ・蓮の花灯 ・鈴灯 ・鳳凰灯 ・鶴 灯・亀灯 ・ライオン灯 ・万世灯・南山灯のような様々な灯があり、紙で塗った灯から五色の絹で華やかに装飾した高価な灯まで種類が多様だった。 4月初八日になるとすべての国民が都城外の寺に行って参拝し福を祈って、夕方から周囲の山に登って灯りを見物した。またこの日だけは通行禁止も解除され、様々な特産品と古今の珍しい品物を置く臨時の市場の燈市を一晩中歩き回りながら賑やかに遊んだ。子供たちは灯火台の下にござを敷いて座りケヤキの餅と塩で炒めた豆を食べ、小さい水がめにパガジを伏せておいて回しながら叩く水缶(スブ)遊びをしたりした。 記録上に出ている韓国初の燃燈行事は統一新羅時代の866 (景文王8)年であり、旧正月の15日に王が皇龍寺に出かけられ灯火を見物して臣下たちに宴を施したという内容が「三国史記」に表示されている。 高麗時代には太祖王建が燃燈行事を国家的次元の仏教行事として法制化し、国民皆が参与できる大規模な祝祭りにした。以後成宗によって停止されたが、玄宗が即位し1010年から再び始めたが2月15日で一ヶ月遅れて開催された。 燃燈行事が華やかさの絶頂に達したのは恭愍王時の実権者であり、僧侶だった 辛旽(シン・ドン)によってだった。当時の開京の人々は皆これに従おうと物乞いをしてでも燃燈を飾ったという。4月初八日の燃燈行事が大きな比重を占めるようになると、国の儀礼である2月15日の燃燈行事は朝鮮の建国と共にに廃止され、4月初八日の燃燈行事は燃燈遊びとして受け継がれた。 日本統治時代には円覚寺の場所のタプコル公園に花で飾られた誕生灯を迎え入れて灌佛儀式を行い、夕方には白い象の像を前面に出して灯を持って鍾路・乙支路・光化門などを回って提灯行列をした。 終戦後の1975年釈迦誕生日が祝日と制定された事に従い、1976年から燃燈行事も復活した。この時汝矣島広場から曹渓寺まで仏教信者の4月初八日提灯行列が再び始まった。 1996年から仏教教団は東大門運動場から曹渓寺までの提灯行列をはじめ、曹渓宗を中心とした様々なイベントを開催して、4月初八日燃燈行事を燃灯祝祭という名前の総合祝祭に転換した。

統一新羅/866(推定)

文化/行事/歳時風俗

ソウル特別市中区

踏青(ダプチョン)は草を踏むという意味だ。南方では2月2日、北方では5月5日や9月9日にする例もあるが通常は清明節に行われた。特に3月の桃の節句は踏青節(ダプチョンジョル)と呼んだりもした。この日はお酒と食べ物を準備して景色の良い山や渓谷を訪ねて花見をして、新たに芽生える草を踏んで春を楽しんだ。ソウルではピルンデのあんずの花、城北洞の桃の花、東大門外のコウライヤナギの見物が花柳を楽しむには絶好の場所だったという。 人々はこの日春の景色を眺めながら柔らかいヨモギをもち米粉に混ぜてヨモギ餅を作って食べたり、もち米の生地に満開のツツジの花を置いてごま油を塗り丸く焼いた花燕(ファジョン)を食べたりもした。 踏青は中国の唐宋の時代からその起源を見つけることができるが、当時の長安では清明節に墓祭を終えた男女が一緒に野原に出てお酒を飲んで楽しみながら「鬪百草(トウベクチョ)」という遊びをしたという記録が残っている。 一方、朝鮮中期の学者金麟厚(キム・インフ)は、< 上巳踏青(サンサダプチョン)>という詩を通して「興に乗って春の服を準備したから気兼ねなく遅くまで遊び回るよ。 (中略)丘の上の花は赤く若い芽が綺麗で野原の草は青く絶え間なくはためく」と桃の節句の踏青の楽しさを詠んだ。「東国歳時記」にも「都城の風習に山や渓谷で水遊びすることを花柳とする。これは上巳日(サムジツナル)に踏青することに由来した風習だ」という記録があり踏青が民間の古い風習だという事を知ることができる。

未詳/未詳

文化/行事/歳時風俗

ソウル特別市中区

踏白草 (ダベクチョ)

相撲(シルム)は二人がまわしや帯をつかんで力と技術を競い相手を倒す、大韓国民族固有の運動だ。互いに向かい合った状態で膝を曲げて、右手は相手の腰を、左手は相手の右足をつかんだ後、同時に立って相手を先に倒した方が勝利する。 シルムは社会の慶事の日に随時行われた。昔から旧暦5月5日の端午の節句になると男性は広い砂浜や芝生に集まって村と村との間の力比べの賭けごとでシルムを楽しんだが、特に朝鮮時代のソウル南山の芝生で行われた端午の日のシルムが見物だったと言われている。一方、旧暦7月15日には百中(盂蘭盆)として、各地方の力強い力士を集めシルムでの最高位を選び、秋夕にも各所の力士が集まり、自身の地元と名誉をかけてシルム競技に参加したりした。シルム競技の勝者には副賞として黄牛一頭を与える風習があったが、これはシルムをする人々のほとんどが農業をする農民で、民家で最も貴重な財産の一つが牛だったからだ。 韓国シルムに関する最初の記録は、高句麗古墳壁画に4世紀末造成されたものと推定される中国吉林省集安縣のシルム墓にシルムを競う男性2人と審判を見る老人が描かれている。審判がいるということはシルムに厳格なルールがあったということで、これをみるとずいぶん前から盛んに行われていたものと推測される。 シルムは三国時代を経て朝鮮時代を過ぎながらさらに大衆化されたが、朝鮮後期の画家キム・ホンドの風俗画にシルムの絵があるのを見ると、この時期シルムが広く行われたことを推測することができる。シルムが現代式スポーツ競技に発展したのは1927年前後のことだ。この時結成された朝鮮相撲協会は同年9月、第1回「全朝鮮シルム大会」を開催して、ほぼ毎年定期的に大会を開いており、1946年に朝鮮シルム協会が大韓シルム協会に改編されて、シルム大会も「全国シルム選手権大会」に変わった。また、プロチームができて商品の代わりに賞金を与えることになった。 以後終戦と6・25動乱を経て沈滞期を走っていた相撲は、1983年に新たに結成された民俗シルム協会が「天下力士大会」を開催し爆発的な人気を得て、イ・マンギ、イ・ジュンギ、カン・ホドンなどのスター選手たちも多数輩出した。そうして1997年のIMF経済危機でチームが相次いで解体され、徐々に衰退の道を歩むことになったが、2000年代に入ってから大学シルムなどを中心に復興を図っている。

未詳/未詳

文化/行事/風物ノリ

ソウル特別市中区

車戦遊び(チャジョンノリ) は一輪車(オィバキスレ、春川)やドンチェ(安東)の人を乗せて勝負を競う二組に分かれて戦う形式の大同遊びだ。旧暦の正月の15日に江原道春川や慶尚道安東地方で行われ、力強い成人男子たちが数百人ずつ組みを作ってする遊びで男性の逞しい気性を見せてくれる。 ドンチェクンは隊長・モリクン・ドンチェクン・ノリクンで構成され、大体25〜40歳の男性500人が東西に分けて勝負を競った。 乗り物のドンチェは約10mほどの丸太2つをはしごの形に交差させた後、その上部を縄で固く縛った後、梯形の内側に幅が1m程になるように板をのせ座布団を敷いて固定させて作ったものだ。ドンチェが完成したら村を代表する隊長がその上に乗り込む。また、「モリクン」と呼ばれるドンチェを担いでいない男性は前方に陣取っているが、相手側と激しい衝突を繰り広げドンチェがよく進撃することができるように助ける。ドンチェは最初は水平状態だが戦いが始まると、両方の頭の部分がかみ合って垂直方向に立ち上がるため、隊長は左手で胴体の部分に付着させた紐を堅く握って、右手を突き出して指揮をする。 両チームはかなり長い時間の間、負けず劣らずの角逐を繰り広げ熾烈な戦いを展開している途中、相手方のドンチェを押し下げ地に接するようにしたり、腕力で壊してしまうチームが勝利を収める。この時勝利したチームは頭の手ぬぐいや、自分が履いていた草履を空に投げて歓声をあげ、一日中歌と踊りを楽しんだという。 車戦遊びの起源は正確に伝えられていないが、他の大同遊びと同様にいくつかの起源と関連されている記録が伝えられている。その中の最初の説は統一新羅末、後百済王甄萱に関するもので、甄萱が高麗太祖王建と競って安東屏山に進撃してくると、ここの人々が彼を洛東江の水の中に押し入れたと言う。これによって腕組みをして肩だけで相手を押し出すチャジョンノリが生じたと言う。他の説では甄萱が持ち上げられて来たときに、この郡の人である權幸・金宣平・張貞弼が荷車のような車を複数作って乗り甄萱を降格させたところからきた遊びとも言われる。また兵事戦闘とは無関係に、古くから行われていたチャジョンノリが誰かによって兵事戦闘に関連する伝説に付け加えたという説も伝えられている。 チャジョンノリは以後高麗時代以来にずっと行われたが、1922年頃日本の弾圧で中断され、6・25動乱を経て伝承が断絶された。そうして1966年安東中学校の教師が、後日初代機能保有者となったキム・ミョンハンの助けを借りて略式チャジョンノリを復元したことをきっかけに、1969年には重要無形文化財第24号に指定されて命脈を継続している。

現代/ 1969(文化財指定)

文化/無形文化財/ノリ

ソウル特別市中区

ドンチェサウム

チェギチャギは男の子たちが足でチェギを蹴りながら離れ業を見せたり、誰が何回蹴るかを競いながら遊ぶ民俗遊戯だ。 遊びの道具であるチェギは小銭や穴の開いた真鍮の貨幣を薄くて丈夫な韓紙や絹(布)で包んだ後、両端を穴に通してその端を何本かに割いてはためくようにする。又、丸い皮革の破片を小銭の下に当て、他の破片を皮革の下から穴に通して鶏や雉の羽根を挿して作ったりもしたが、紙や絹の房、鳥の羽根等を付けると蹴り上げたチェギが足に速く落ちて再び蹴るのが簡単だった。 チェギは一人ずつ蹴ったり、数人が集まって蹴り合ったりもするが、チェギを決められた方法でたくさん蹴る方が勝つ。 チェギを蹴る方法には、「足を上げたまま蹴る」、「両足で蹴る」、「片足で蹴る」、「かかとで蹴る」があり、ソウルでは片足で 地面に立ち、もう一つの足の内側の角で1回蹴って地面を踏み、又蹴って地面を踏む方法を「タンカンアジ」と言う。又、両足を交代で蹴ることを「オジジャジ」、片足で地面に立ち、もう片方の足は地面に触れないように上げた状態で蹴り続けることを「ホルレンイ」と言い、この内、「タンカンアジ」がチェギチャギの最も基本になる。この内、一つだけを前もって決めて蹴ったりもし、「サムセカジ」と言って3種類を全部蹴ったりして合計を出して勝負を決めたりもする。熟練した子供たちはここに幾つかの規則を適用して面白みを加える。 チェギチャギは古代中国で武術を練磨するために考案された蹴鞠(けまり)から始まったそうだ。韓国の昔の文献資料によると、高句麗・百済・新羅の3国が全て蹴鞠を楽しんだという記録が確認され、特に、新羅の記録から発見された蹴鞠の遊びの形態はチェギチャギの方式だったものと推察される。蹴鞠は高麗時代に至って豚の膀胱で作った気毬と呼ばれる空気球を使った。その後、蹴鞠は朝鮮時代に至って子供たちの遊びとして盛んに行われ、球を手に入れるのが難しくなって新しい遊び道具である小銭のチェギが出現したものと思われる。 このように民間で盛んに行われたチェギチャギは朝鮮後期の冬の歳時風俗として定着し、近代以降も相変わらず続いており、チェギを蹴る姿は旧韓末に西洋の宣教師たちが最も不思議に思った風景の一つだったそうだ。 今日では遊ぶ姿をあまり見られないが、学校の運動会や体育の時間に教科課程として時々行われ、名節のお祭り等で伝統行事の一環として試演されたりもする。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

ユンノリはユッカラクを投げて馬を使って勝負を競う民俗遊戯で、漢字では柶戱、或いは擲柶戱と書く。韓国の旧正月の遊びの一つとして陰暦1月1日から15日(小正月)まで主に行われた。場所には特に拘らず、遊ぶ方法が簡単なので老若男女誰でも一緒に楽しめる。遊びの人数は2~3人が普通だが、人が多い時は2チームや3チームに分けて遊び、遊び方は次の通りだ。 まず、29個の丸を描いたユッパン[馬田]を準備する。馬は各自、又は各チームが4つずつ持って使い、順序はユッカラクを投げて出た数の大小によって決めて始める。 ユッカラクを投げてユッ3つが裏で1つが表だったら「ド」と言って1つ進み、2つが表だったら「ケ」と言って2つ進む。又、1つが裏で3つが表だったら「コル」と言って3つ進み、4つが全部裏だったら「ユッ」と言って4つ進み、4つが全部裏だったら「モ」と言って5つ進む。「モ」や「ユッ」が出たらもう一度ユッカラクを投げられ、「モ」・「ユッ」が続けて出たらずっと投げ続けられる。 又、先に行く相手の馬の位置に見方の馬が追い掛けて行って同じ位置に止まったら相手の馬を捕まえ、この場合にももう一度ユッカラクを投げられる。相手に捕まった馬はスタート地点に戻って最初から再スタートする。 同じチームの馬が同一の位置に到達したら背負って走ることができ、背負った後は2つ馬が同時に移動できて有利だが、相手の馬に捕まったら2つの馬が一度に死ぬ。その他にも様々な規則や変異要素を加えて楽しめ、スタート地点から出発した4つの馬全部が先にゴールインするチームが勝つ。ユッカラクを上手に投げて「モ」や「ユッ」が出るようにするのも重要だが、馬をどのように使うかもやはり勝敗に大きな影響を及ぼす。 ユンノリの起源は昔の文献に見ることができる。中国の《北史》と《太平御覽》によると、百済に「樗蒲(チョポ)」、「握槊(アクサク)」等の遊びがあったという記録が伝えられ、ここで樗蒲(チョポ)は今日のユンノリと似たものと思われる。このような記録から推察した時、ユンノリは三国時代以前から農業の豊凶や一年の吉凶を占う道具として始まり、三国・高麗・朝鮮時代に受け継がれながら次第に遊びに変化したものと推定される。 ユンノリは長い歳月の間伝承されながらユッパンや遊び方等、多くの部分が変化したが、今日も親睦を図ったり、旧正月の遊びとして韓国の国民たちに大変愛されている。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

柶戱(サヒ)、擲柶戱(チョクサヒ)

凧揚げは風を利用して凧を空高く揚げる民俗遊戯だ。そり滑り・駒回し等と共に冬を代表する遊びで、子供たちだけでなく、大人たちも楽しんだ。凧を作って糸巻きに巻いた糸を連結して空に揚げて遊び、揚げる技術が上達したら凧糸切り、遠くに揚げる、離れ業等の方法でも遊ぶ。 凧は大部分細い竹の枝で骨を作ってその上に紙を貼って長方形、又は菱形の形態で作り、特に、韓国の凧は形態や構造が他の国の凧と比べて科学的な原理を積極的に活用した点が際立つ。韓国の凧の種類は凧の形態と模様によって分類され、その種類が100種類に至る。 形態の面で見ると、長方形の凧・菱形の凧・創作凧等に分けられ、長方形の中央に穴が開いている盾凧が主で、これは韓国にのみある独特な凧で韓国の凧の代表格だと言える。科学的な構造で作られているので強い風にも壊れず、揚げる人の手際によって上昇と下降、左右にぐるぐる回し、急上昇・急下降、前進・後退等の離れ業が可能だ。又、いくらでも高く、速く揚げられる。子供たちは主に菱形凧と変形凧で遊んだ。 本格的に凧揚げを楽しんだ時期は陰暦1月1日(旧正月)から小正月までで、その後は凧に「厄」、又は「送厄」という字を書いた後、糸を切って飛ばし、それ以降は揚げなかったそうだ。厄払いの風俗の一つとして、その年の悪い厄を遠くに飛ばし、良いことだけあるように祈願する気持ちがこもっている。小正月が過ぎても凧を揚げる人を見ると、「コリ白丁」と言って冷やかしたのだが、これは凧揚げばかりしてその年の農作業の準備が遅れることを心配したものと思われる。 韓国で凧に関する最初の記録は《三国史記》で見られる。647年に新羅の真徳女王に反対する一部の大臣が反乱を起こして金庾信(キム・ユシン)が討伐を担当することになった。ところがその時、城内に流れ星が落ちて軍隊の士気が大きく低下した。それで金庾信は知恵を使って火がついた案山子を凧に吊るして空に揚げた。そして、「昨夜落ちた星が再び空に上がったので真徳女王が戦争で勝利するだろう」と噂を流して戦いに勝ったという内容が伝えられている。 ここから三国時代以前から凧を揚げ始めたことが分かり、高麗時代にも崔瑩(チェ・ヨン)将軍が耽羅(済州島)に反乱が起き、これを征伐する時に凧を利用したという記録が伝えられている。 凧揚げは朝鮮時代になると更に盛況を成した。特に、朝鮮末期の記録には凧の種類、凧を作る方法、凧揚げの風俗等が詳しく紹介しており、当時の凧揚げが盛んに行われたことが分かる。 凧揚げは1992年9月30日にソウル特別市無形文化財第4号に指定され、技能保有者は盧裕相(ノ・ユサン)だ。

現代/1992(文化財の指定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

しっぽとりは鬼や一番前の人が腰を掴んで一列に並んだ相手の隊列の最後の人を切り離す遊びで、主に10才前後の子供たちが楽しんだ。しっぽとりは全国的に行われ、しっぽを掴むことから「しっぽ掴み」とも言う。地域によってタクサリ、ジンジセッキ遊び、ジョクジェビ(イタチ)遊び、スイカ取り、かぼちゃ取り、コンデンイ取り等の様々な名前で呼ばれている。 遊び方は、前の子供の腰を掴んで一列に立って一番前の頭側の子供が尻尾側の子供を捕まえようとすると、尻尾側の子供は前の子供の腰を掴んだまま逃げ回り、この時に捕まった子供は前の頭側の子供になって再び尻尾側の子供を捕まえる方式だ。このような基本型から細部が変更された数種類の遊びの規則があるが、全て尻尾を捕まえるという点は同じだ。 この遊びが何時から行われたのかは正確に分からない。しかし、野外で数人の子供たちが参加して楽しむ遊びだという点と遊び方が単純だという点等から推し量ってみる時、昔から行われたものと推測される。しっぽとりは遊び道具が多くなかった頃、似通った年齢の集団の団結と強調心・敏捷性・瞬発力及び状況判断力と体力を育ててくれる有益な遊びとして現在までも継承されている。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

しっぽとり

ブランコ乗りは1人、又は2人がブランコに乗り、体を押して前後に行ったり来たりする遊びだ。遊びの道具であるブランコは柳の木、欅の木、松の木等の枝の両側にロープを結んだり、大きな柱を2本立てて、その上に横に結んだ丸太にロープを結んだ後、下方に板を当てて作る。ブランコ乗りは男性たちのシルム(相撲)と共に女性たちが楽しんだ代表的な端午の遊びとして韓国全域にわたって盛んに行われた。 ブランコ乗りは1人が乗るものと、2人が向かい合って一緒に乗るものに分けられ、2人で乗るブランコ乗りは本格的な1人のブランコ乗りの次に余興として乗るのが一般的だ。 遊び方には、ブランコが届く位の所にある枝や花をターゲットにしてブランコを揺すってそこをつま先で蹴ったり、口で噛んで勝負を決める方式がある。これが最も古いブランコ乗りの遊び方だ。次には、ブランコの内側に鈴の綱を高く吊るしておいて、それに触るようにブランコに乗って勝負を決める方式がある。この遊び方は朝鮮時代の成俔(ソンヒョン)の詩にブランコが高く上がって鈴を鳴らす場面を通じてよく描写されている。 ブランコの由来については様々な見解が伝えられているが、これについて深く研究した痕跡はない。赤ちゃんの揺り篭が発展してブランコになったとし、農民たちが畑に行く時、子供たち同士で家で遊ぶように大門にチュチョン(鞦韆)を結んだのがブランコに発展したという主張もある。その他にも中国の春秋時代に北方の山戎(サンユン)族が寒食(冬至から105日目)の時に楽しんだ遊びが斉国を通じて韓国に伝えられたという見解もある。 韓国のブランコに関する記録は高麗時代から表れ、当時のブランコ乗りは上流改装で楽しんだ華麗な遊びだった。高麗の高宗王の時、《翰林別曲》にブランコ乗りのこのようなイメージがよく形状化されている。それだけでなく、民間でも端午にブランコ乗りが盛んに行われたことを李奎報(イ・ギュボ)の詩を通じて推察できる。このような伝統は朝鮮時代にもそのまま受け継がれた。 ブランコ乗りは、日常に閉ざされていた若い女性たちがブランコに乗って空に飛び出し、若さを思いっ切り発散できるようにし、今も郷土の祭典やお祭り行事の一つとして大きな人気を集めている。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

クスルチギは玉を地面に置いて他の玉で当てて取る男の子たちの民族遊戯だ。主に冬に楽しまれ、狭い路地や家の前庭等で全国的に行われた。人数は2~3人の場合が多いが、数人がチームを組んで楽しむこともできる。地方により「アルチギ」、「コルランチギ」、「クスルタギ」等と呼ばれ、遊び方も様々だ。 クスルチギの一般的な遊び方は、まず直径1cm位の玉を準備し、2~3人が適当な所に玉を置くと、ジャンケンで勝った人が中指と親指の腹で自分の玉を弾いて相手の玉に当てて相手の玉を獲得する方式だ。こうして玉を当てるのに成功したら相手の玉を引続き持って来ることができるが、失敗すると順番が変わって相手の攻撃を受ける。又、他の方法には数人が3~5m位離れた所に三角や丸を描いてその中に各自の玉を置き、順番に境界線に立って玉を弾いて図形の中に置かれた玉を取る方式がある。三角形の中の玉が外に弾き出されると玉を獲得できるが、反対に自分の玉が三角形の中に入ると、それまで獲得した玉を全部相手に返さなければならない。 クスルチギは1970年代までは最も流行った冬の遊びの一つだったが、最近はあまりしない。正確に何時から始まったのか詳しい淵源は伝えられておらず、朝鮮時代以前から丸い石ころやどんぐり等の実で遊んだものと思われる。その後、陶磁器を焼く時に土で練った玉を一緒に焼いて瀬戸物の玉が登場し、日本統治時代にはガラスの使用が増えてその副産物であるビー玉を使って遊んだものと推定される。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

控碁(コンギ)は小さな石5個、又は数個を一定の規則により投げて掴んだり、受ける女の子たちの遊びだ。平らな地面や部屋、床等に座って2~3人、或いはそれ以上が集まってチームを組んで楽しみ、季節や場所に関係なく全国的に広く行われている。コンギの玉には主に小さくて丸い石を使うのだが、その他にはビー玉や珍しくは五味子を使ったりもする。近来にはプラスチックで作ったコンギが広く使われている。 コンギの一般的な名称は「コンギ遊び」だが、地域毎に様々な異称やルールが存在する。石を簡単に準備できる5玉コンギが普遍化されている。しかし、コンギの玉でお互いに多くの石を占めると勝つ6玉コンギや、数十個のコンギ玉を両手に集めて握り、投げ上げてその内の一つを掴み、その一つの玉を投げ上げて床の玉を掴みながら落ちて来る玉を合わせて勝負を決めるコンギもある。コンギ遊びは身体的には手と目の協応力を高め、手や指を動かす筋肉の機能を育て、精神的には沈着性・協同心・競争心等を育ててくれる遊びだと言える。 コンギ遊びの淵源が正確に明かされてはいないが、朝鮮憲宗王の時に李圭景(イ・ギュギョン)の《五洲衍文長箋散稿》、1925年の崔永年(チェ・ヨンニョン)の《海東竹枝》、日本統治時代である1941年に朝鮮総督府で発刊した《朝鮮の郷土娯楽》等、昔の文献に遊戯に対する記録が伝えられている。又、5世紀後半のものと推定される高句麗の修山里壁画古墳の西側の壁に5つのコンギで遊ぶ姿が描かれており、5世紀中葉に造成された長川一号古墳の壁画にも7つの丸いコンギを順番に空中に投げた後、それを掴むために立っている姿が描写されている。ここから推定すると、コンギ遊びは少なくとも三国時代以前から始まったものと思われる。

未詳/未詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

コサウムは俗称オットル村と知られている光州広域市光山区漆石洞で伝えられている民族遊戯だ。主に全羅南道一帯で陰暦1月10日頃から2月1日にわたって綱引きの前に行われた遊戯だったが、最近は独立的な遊戯として行われる。コサウムの「コ」は韓服チョゴリの紐の丸く巻いて結び目を作った部分である「コ」から由来したもので、直接作った「コ」で陣取りをする。「コ」を作るために若者たちが家々を訪問してわらを集めたのだが、遊戯のためには400~500束のわらが必要だ。 コサウムは村の人々の協調心を培う大同遊戯として準備期間が長く、又、コを作るのに長い時間と努力を必要とする。完成したコの胴体の長さは10m前後で、尻尾まで合わせて20m位になり、縄に人が跨ると足が地面に付かないほど太くて重い。コが完成すると相手の村と一緒に儀式をして自分の村の勝利のために祈願し、ジュルペジャン(大将)を選出する。ジュルペジャンはコの上に立ち上がり、全体を指揮する役割をするので村で徳望と影響力があり、力の強い人が選ばれた。遊戯にはジュルペジャンの他にコのメルクン(コを背負って戦う人)、コリジュルジャビ(コを操縦する人)、旗の旗手、ヘップルジャビ(松明を持つ人)、農楽隊等が必要だ。 コサウムは相手のコを 地面に着かせたチームが勝つもので、コが壊れたり、地面に着いて勝負が早く決まることもあるが、夜が明けるまで勝負が決まらない時もある。当日勝負が決まらない時は一旦コを解いて縄を作り、2月1日に綱引きで勝負を決める。又、勝負がついても陣の方から再び戦いを挑んできたら応戦しなければならないので1月20日まで毎日コサウムをしたりもする。記録が無くてコサウムの由来を詳しく知ることはできないが、一説にはオットル村の形状が黄牛がうずくまっている臥牛相なので、その荒々しい気運を抑えるために始まったそうだ。 コサウムは終戦を前後して姿を隠していたが、昔の遊戯の様子を蘇らせ、1970年に重要無形文化財第33号に指定された。コサウムは準備するのに長い時間と努力を必要とするが、村の人々の協調心と団結力を培う大同遊戯として未だにその名声が維持されている。

現代/1970(文化財の指定)

文化/無形文化財/ノリ

ソウル特別市中区

カンガンスルレは、歌と踊り・遊びが混ざった韓国の代表的な女性民俗遊びで、韓国の南西部沿岸地域を中心に伝承された遊びだった。伝統的にソルラル(旧正月)や小正月、秋夕など韓国の代表的な名節に行われ、そのうちの秋夕に行われるものが規模が最も大きかった。 明るい満月が浮かぶと、数十人の村の女性と子供が集まり、手を取り合って丸く輪になって回り、声の良い人が中に立ってカンガンスルレの前部を先唱すると、残りの人々が後の部分をつないで歌う方式だ。歌の速さは先唱が決め、踊る人々の動作や歌の速さによって遅いカンガンスルレ、中カンガンスルレ、速いカンガンスルレに分かれる。 カンガンスルレは、広い意味と狭い意味の2つの意味がある。狹義のカンガンスルレは、円舞を踊りながらカンガンスルレという歌詞を歌うだけを意味するが、広義のカンガンスルレはこの遊びに加えて遊ぶ鯖魚ヨッキ・コサリコッキ・トクソクモルギなどの付随遊びを含むものだ。現在まで知られている付随遊びの種類だけでも30種類を超える。男性中心の韓国の伝統社会では、農村の若い女性が大声で歌を歌ったり夜に外出することは許されなかったが、名節の時だけは女性もカンガンスルレ遊びを通じて開放感を感じ楽しむことができた。 カンガンスルレという遊びの名称は、繰り返すサビから取ったもので、カンガンスウォルレまたは漢字で強羌水越来と表記したりもするが、正確な意味は知られていない。カンガンスルレの起源も正確ではなく諸説あるが、現在は李舜臣(1545~1598)の擬兵術として始まったという主張が最も有力だ。カンガンスルレは1966年に重要無形文化財に指定され、2009年9月にユネスコ人類口伝および無形遺産傑作に選ばれ保存・継承されている。

朝鮮/不詳

文化/無形文化財/ノリ

ソウル特別市中区

カンガンスウォルレ

コヌは、2人が地面や畑に盤を描き、石・木の枝・葉などを駒にして勝負を決める遊びだ。地域によってコニ、コヌ、コン、コンチャなど様々な名前で呼ばれ、一般的で使用される名称はコヌで、漢字で地碁という。地面に盤を描いて遊ぶ卑賤な人々の遊びということから「タンジャンギ」と見下した呼び方もある。 コヌは大衆的な遊びだったため、上流階級ではなく、庶民がお気に入りの遊びだった。コヌに関する文献の記録を見つけるのが困難な理由も、このためだ。コヌは、全国あまねく分布して楽しんだ遊びで、それだけに種類も多く、遊び方も様々だ。コヌの種類には、チュルコヌ、コンジルコヌ、ペレンイコヌ、パッコヌ、チャムコヌなどがある。盤によって駒の置き方が少しずつ異なるが、相手の駒を手を打って取ったり包囲して動かないようにすることが基本的な遊び方だ。中でも最も基本的なことがウムル(井戸)コヌで、より遊びの興味を加えて楽しめるようになったのがチャムコヌだ。囲碁や将棋のように頭脳プレーが重要なため、コヌは脳の発達はもちろん、判断力や解決力を養うのにいい。このように、コヌは特に道具なしで場所にもこだわらず、老若男女いつ誰とでも楽しめ、民間に幅広く伝承されたものと思われる。 しかし、コヌは大衆的な遊びにも関わらず、詳細な由来を知るのは難しい。ただし、全羅南道潭陽にある朝鮮時代の建物の瀟灑園の板の間にコヌの盤が描かれており、金弘道1745~?)などの風俗画に木こり少年のコヌ遊びの場面があることから、その歴史は長いものだと推測できる。また、10世紀初頭のものと見られる黄​​海道奉天の青磁窯址でもチャムコヌ盤が発見されたことから、少なくとも高麗時代以前からあった遊びだったと考えられる。

不詳/不詳

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区

ソウル駅北側と塩川橋南側一帯に位置した蓬莱洞2街は、朝鮮時代初期に漢城府西部の盤石坊の一部に属していた地域で、日帝強占期には蓬莱町二丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、蓬莱洞2街となった。蓬莱洞2街の洞名は、この場所一帯に備えられていた蓬莱橋という橋の名から由来している。 蓬莱洞2街は、ソウル駅と線路がほとんどを占めている。現在、文化駅ソウル284(旧ソウル駅舎)は、1925年に竣工された駅舎で、2004年ソウル駅新庁舎が新築されるまで使用された。史跡第284号に指定され、2011年の原型復元工事の後に公演、展示、セミナーなどの文化複合空間として活用されている。 また、2004年KTX列車開通とともに、ソウル統合民間資本駅舎として新しく新築されたソウル駅は、京釜高速鉄道、京釜線、京義線の始発駅であり終点でもある。新築された駅舎は地下2階、地上5階建て建物で、アウトレット、大型ディスカウントショップなどが立ち並ぶ総合駅である。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区蓬莱洞2街

崇礼門南西側、世宗大路と七牌路に位置した蓬莱洞1街は、朝鮮時代初期に漢城府西部の盤石坊に属していた地域で、日帝強占期には蓬莱町一丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、蓬莱洞1街となった。蓬莱洞1街の洞名は、ここ一帯にあった蓬莱橋という橋の名前に由来している。 蓬莱洞1街には朝鮮時代に七牌市場があった。七牌市場は朝鮮時代に漢陽で代表的な乱廛市場の一つで、特に魚物廛で有名だった。その理由は、南大門と西小門の間に位置しており、人々の出入りが多く、龍山、麻浦などとも近く、魚の持ち込みが容易だったからだ。 以前、蓬莱洞1街、巡和洞、義州路2街にわたって紫岩洞という村があった。この村の名は塩川橋東側の鉄道近くの岩が紫色だったことから、紫烟岩、紫色岩、紫岩、ジェムベと呼ばれたことに由来している。 朝鮮時代、紫岩洞には客主が密集していた。紫岩洞の客主が取り扱っていた物品は、主に干し魚と魚、果物、塩辛などだった。その中でも最もよく売れた主な品目は、干しメンタイと塩辛類だったが、海老、貝、イイダコ、サッパ、金石魚などでつくられた塩辛類である。 蓬莱洞1街には、靴製造やレザー商店街が形成されている。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区蓬莱洞1街

崇礼門とソウル駅の間の世宗大路の南東側一帯に位置した南大門路5街は、朝鮮時代初期には漢城府西部の盤石坊に属していた地域で、南大門通り五丁目御成町と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、南大門路5街と陽洞となった。1980年7月1日(ソウル特別市条例第1412号)陽洞は南大門路5街に編入され廃止された。 朝鮮時代に崇礼門外には南池があった。朝鮮時代には漢城府の東西南方に池があり、掌苑署で管理する蓮の花から採れる蓮子は王室で使用された。南池は正祖時期まで干からびていたが、崇礼門外の人々が1823年(純祖23年)池に溜まった土砂を取り除いて深く掘った後、水を入れて昔の池を取り戻したといわれている。 また、以前は南大門路5街、蓬莱洞1街にわたってチョクウムルコル(アイ井戸谷)という村があったが、これは井戸端にアイの草がたくさん生え、チョク井戸と呼ばれていた井戸があったことからそのように呼ばれるようになったという。漢字では藍井洞である。 大宇財団ビルが所在するこの場所には、朝鮮時代の宣祖時期に領議政だった漢陰・李徳馨(1561~1613)の家跡があった。彼は1580年(宣祖13年)に文科に及第して、壬辰倭乱の時に明に援軍を要請するなど貢献して、壬辰倭乱が終わった後に領議政に上った。李徳馨は李恒福(1556~1618)との友情でも有名な人物である。 現在、南大門路5街地域は、南大門警察署、ソウルスクエア、大宇財団ビル、延世セブランスビルなど業務や商業用ビルが密集している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区南大門路5街

西大門駅交差点と貞洞十字路の間の新門内路南東側に位置する忠正路1街は、朝鮮時代初期の漢城府西部の盤松坊に属していた場所で、日帝強占期には竹添町一丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区忠正路1街となった。その後、1975年10月1日(大統領令代7516号)、管轄区域が変更され、中区忠正路1街となった。 忠正路1街の洞名は、1905年乙巳勒約締結に憤激して殉国自決した忠正公・閔泳煥(1861~1905)の諡号「忠正」に由来している。 昔は忠正路1街と義州路1街にわたり雇馬庁コル(谷)という村があったが、これはここ一帯に雇馬庁があったことから付けられた名である。雇馬庁は、朝鮮時代粛宗時期の雇馬法施工によって、使臣や地方官の交代による諸費用を備えるために設置されたものだ。雇価庁や雇馬庫とも呼ばれた。 『漢京識略』には、雇馬庁の近くに金宗瑞(1390~1453)の家があったと紹介されている。金宗瑞は文科に及第した後、世宗時期に咸吉道都観察使となって辺境の地で倭敵の侵入を撃退、6鎮を設置して豆満江まで国境線を拡張させた。彼は『高麗史』等を編纂して、端宗のお世話をしたが、首陽大君によって殺害された。 現在、忠正路1街には農業博物館、米博物館などが設置されている。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区忠正路1街

中林洞は義州路2街、萬里洞1街・萬里洞2街、中林洞の4つの洞の行政を担当する管轄区域の名称だ。 中林洞の洞名は朝鮮時代の地名である盤石坊薬田中洞の「中」の字と翰林洞の「林」の字を各々取って付けられた。薬田中洞という名称は朝鮮時代にここがソウルに薬を供給する「カウンデッマル」だったことから由来し、翰林洞という名称は朝鮮時代に李廷馣(イ・ジョンアム、1541~1600)の3兄弟が皆ここに暮らしながら翰林の官職を務めたので、彼らが居住した所を翰林洞と言うようになった。 萬里洞はここにある萬里峴という峠の名前から由来し、萬里峠は世宗王(在位 1418~1450)の時の文臣でる崔萬里(チェ・マンリ)が住んでいた所であることから付けられた名前だ。そして、義州路2街は漢城と平安道義州を連結する義州路から由来し、義州路は朝鮮時代の9大幹線路の内、最も重要な道路の一つとして総長約1,080里(424km)の交通通信路だった。 中林洞は朝鮮初期に漢城府の5部、52坊の内、西部の盤石坊と盤松坊地域に属した。日本統治時代に日本式の町会を設置して薬田中洞と翰林洞の一部及び兄弟井洞の一部を併合して中林町とし、1943年6月10日に朝鮮総督府令第163号の区制度の実施により西大門区に属した。 終戦後の1946年10月に中林洞会に変わって中林洞地域の行政を担当した。1955年4月18日にソウル特別市条例第66号により行政洞制を実施する時に中林洞一円を管轄する中林洞事務所が設置され、義州路2街は蛤渼洞事務所、萬里洞1街・2街は萬里洞1洞事務所の管轄になった。 1975年10月1日に大統領令第7816号により区・洞の管轄区域の再編成が行われて中林洞は西大門区から中区に編入された。1975年末にソウル特別市条例第981号により中林洞を始め、義州路2街一円を管轄区域とした。1980年7月1日にソウル特別市条例第1413号により萬里洞事務所が廃洞されて中林洞の管轄区域に併合されて現在に至っている。 2013年基準、中林洞の面積は0.48㎢で中区全体面積の4.8%を占め、登録事業体数は1,045ヶ所だ。人口は4,652世帯に9,944人が居住しており、統班組織は20統、153班で構成されている。中林洞住民センターは中区西小門路6道16(中林洞155-1)に位置している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区中林洞

西小門歴史公園の西側、地下鉄2号線忠正路駅南東側一帯に位置した中林洞は、朝鮮時代初期の漢城府西部の盤石坊と盤松坊に属していた場所で、日帝強占期には中林町と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区中林洞となった。その後、1975年10月1日(大統領令第7816号)管轄区域が変更され、中区中林洞になった。 中林洞の洞名は、朝鮮時代の地名である西部の盤石坊、樂典中洞、輪林洞の文字を各々一つずつ取って付けられたものである。翰林洞は朝鮮時代に現在の中林洞と西大門区の一部にあった村だ。 昔はこの場所に阿峴丁字路へと繋がるくねくね曲がる峠があり、薬草を栽培する畑があったことから、この峠は薬峠、薬田峴、薬峴と呼ばれていた。 中区青坡路447-1には、史跡第252号に指定された薬峴聖堂がある。この聖堂は薬峴峠の敷地を購入して建物を竣工させたことから、中林洞聖堂ではなく薬峴聖堂と呼ばれている。薬峴聖堂は、1891年(高宗28年)にカトリック教に対する迫害が幕を下ろし、西小門聖地が見下ろすことができる丘の上に殉教者達の魂を称え、その精神を見習うために建てられた建物である。薬峴聖堂は鐘峴本堂(現在の明洞聖堂)で分離され、ソウルで2番目に、全国で9番目に設立された本堂だ。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区中林洞

ソウル市庁と崇礼門の間の世宗大路(旧太平路)の両側に位置した太平2街は、朝鮮時代初期の漢城府西部の荒貨房、養生坊、盤石坊の各一部と、南部の好賢坊の一部が属した場所で、日帝強占期に太平通り二丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名の韓国語改正原則に従って、太平路2街に改められた。 朝鮮時代に太平館が崇礼門近くにあったため、太平路という名に由来した。朝鮮時代初期に設置された太平館は、中国の使臣を接待して彼等が宿泊していった場所で、現在の大韓商工会議所の建物北側近くにその跡が残っている。 この洞の南北を貫通する世宗大路(旧太平路)は、朝鮮時代後期まではなかった道である。この道は、1902年に製作された「ソウル地図」にも載っていないが、1912年京城市区改修予定計画によって幅27mに施工され、1914年に開通した。1936年に道幅34m、長さ800m、黄土峴広場(現在の光化門周辺)~南大門の区間に定められた。1952年3月25日(内務部告示第23号)、道幅50mに拡張されて現在に至る。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区太平路2街

徳寿宮とその北西側一帯に位置する貞洞は、朝鮮時代初期には漢城府西部の皇華坊に属していた場所で、日帝強占期には貞洞町と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区貞洞となった。その後、1975年10月1日(大統領令第7816号)に管轄区域が変更され、中区貞洞となった。 貞道の洞名は、朝鮮時代の太祖・李成桂の継妃・神徳王后がこの場所にいたことから、「貞」の字を取って付けられたものである。貞陵は現在、貞洞4番地の在韓英国大使館とソウル特別市議会議事堂が位置する場所に置かれていた。その後、1408年(太宗8年)5月に東小門外の沙乙閑里(現在の城北区貞陵洞)に改葬された。 貞洞5番地には史跡第124号に指定された徳寿宮が所在している。徳寿宮は、朝鮮時代の宣祖時期には貞陵洞行宮、光海君時代には慶運宮と呼ばれた宮廷で、1907年には高宗の長寿を祈る意味の慶運宮に「徳寿」という宮号を付けて徳寿宮と呼ばれるようになった。 貞洞には、旧韓末の歴史を代弁する跡と建物が多数所在している。培材学堂跡、梨花学堂跡、孫沢ホテル跡、官立法語学校跡、ロシア公使館、フランス公使館、貞堂第一教会、在韓英国大使館、ソウル主教座聖堂、米国大使館跡などが代表的である。 その他にも、在韓ロシア大使館、在韓カナダ大使館をはじめ、様々な国の大使館、梨花女子高等学校、徳寿小学校など、歴史のある学校や国立現代美術館徳寿宮館、梨花女子高校100周年記念館、貞堂劇場などの文化施設も貞堂に置かれている。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区貞洞

崇礼門の東と西側一帯に位置する南大門路4街は、朝鮮時代初期には漢城府南部の好賢坊と、西部の養生坊と盤石坊の一部だった場所で、日帝強占期には南大門通り四丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、現在の南大門路4街となった。南大門路4街の洞名は、国宝第1号崇礼門の別称である南大門の名からとって付けられたものである。 この地の洞名の由来となった崇礼門は、朝鮮時代の漢陽都城の正門で、南側に位置する正門であることから南大門と呼ばれていた。この門は1398年(太祖7年)に竣工され、1448年(世宗29年)には改築工事が行われた。 南大門路4街の北側には、橋の上に楼閣を建てた水閣橋という橋が設置されていた。ソウル駅と崇礼門付近は、現在もたくさんの商店街が形成されているように、朝鮮時代にも市場通りが多いことで有名だった。 現在、南大門路4街西側の中区世宗大路39には、大韓商工会議所が所在している。大韓商工会議所は、韓国の商工業の振興に寄与することを目的としてつくられた財界団体で、その起源は1884年に設置された漢城商業会議所である。ここは過去に南大門国民学校があった場所で、学校は1979年に閉校され、1984年に地上20階、地下6階規模の社屋が建てられた。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区南大門路4街

韓国銀行から西側へ南大門路に沿った場所に位置する南大門路3街は、朝鮮時代初期の漢城府南部の好賢坊と西部の養生坊に属した場所で、日帝強占期には南大門通り三丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、現在の南大門路3街となった。南大門路3街の洞名は、国宝第1号崇礼門の別称である南大門の名からとって付けたものである。 現在の韓国銀行が所在する場所には、朝鮮時代には儲慶宮が置かれていた。1755年(英祖31年)に仁祖の実父である元宗の生母、仁嬪金氏の神位(位牌)が祀られてから、儲慶宮と呼ばれるようになった。儲慶宮は、1927年まで残っていたが、現在のソウル大学歯科大学の前身である京城歯科医学専門学校を建築する際に撤去された。現在、2001年に設置された儲慶宮跡の標石が韓国銀行後門付近に置かれている。 南大門路3街110番地には、史跡第280号に指定された旧韓国銀行本官(現在の韓国銀行貨幣博物館)の建物が置かれている。この建物は地下1階、地上2階、延べ面積8,677㎡である。1908年、日本人の辰野金吾の設計により日本第一銀行京城支店の建物が建築されはじめたが、工事途中の1909年に韓国銀行が設立され、この建物が使用されるようになった。花崗石の石造建築物で、外壁は左右対称のフランス城郭(Chateau)風ルネサンス式外観を備えている。 1981年、史跡第280号に指定され、2001年に韓国銀行創立50周年を記念して貨幣金融博物館が開場された。 南大門路3街、忠武路1街、会賢洞1街にわたり、朝鮮時代には官衙である長興庫が置かれていた。長興庫は各官署で使用される障子紙、油紙、その他の紙類やむしろ等を調達していた場所である。 また、この場所と太平路2街、北倉洞、南倉洞にわたる地域は、朝鮮時代の明宗時期に領議政だった尚震が住んでいたことから由来して、尚洞と呼ばれていた。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区南大門路3街

西小門歴史公園一帯に位置する義州路2街は、朝鮮時代初期、漢城府西部の盤石坊に属していた場所で、日帝強占期には義州通り二丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区義州路2街となった。1975年10月1日(大統領令第7816号)管轄区域が変更され、中区義州路2街となった。義州路2街の洞名は、義州へ行く通り道という意味で、日帝強占期に義州通り2丁目と呼ばれていたものを韓国語に直したものである。 現在の西小門歴史公園は、昔は斬址(罪人の首を斬って殺す刑罰に処する所)だった場所で、旭川沿いの砂原だった。朝鮮時代、大罪を犯した重罪人は現ソウル特別市市庁がある軍器寺の前で、社会規範を犯した罪人は西小門外のこの場所で処刑されたといわれているが、朝鮮時代の純祖時期以後は主にカトリック信者がこの西小門外の斬址で処刑された。その後、ここには水産市場が成り立ったが、後に鷺梁津水産市場に移転された。朝鮮時代には龍山方向に流れる旭川を遡る船が出入りする農浦で、魚や貝などが売られていた。また、この洞の南側には塩川橋があるが、ここでは火薬を製造する焰焇庁が置かれていたことから、その名が由来となった。本来、焰庁橋、焰焇庁橋と呼ばれていたが、音が変わって塩川橋になった。 この洞の名称となった義州路(現在の統一路)は、朝鮮時代の使臣達が義州を経て中国へ行く主な通行路だった。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区義州路2街

梨花女子外国語高等学校の西側、統一路(旧義州路)の周辺に位置する義州路1街は、朝鮮時代初期、漢城府西部の盤石坊と盤松坊に属していた場所で、日帝強占期には義州通り一丁目と呼ばれていたが、1946年10年1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区義州路1街となった。1975年10月1日(大統領令第7816号)管轄区域が変更され、中区義州路1街となった。義州路1街の洞名は、義州へ行く通り道という意味で、日帝強占期に義州通り1丁目とされていたものを韓国語に直したものだ。現在、統一路と西小門路が交差する地点には、都城8門のうちの一つである昭義門(西小門)が置かれていた。この門は、光熙門と同じく、都城内の死体を都城外に出す際に使用される門として、屍軀門や水口門と呼ばれた。朝鮮時代の純祖時期以降、カトリックに対する弾圧が強まると、たくさんのカトリック信者が西小門の外で処刑された。この門は1908年に撤去され、周辺の城壁も1914年に都市開発という名目で壊されることとなった。 義州路1街と忠正路1街にかけて、朝鮮時代に雇馬洞という町があったが、これは駅馬を貸出す雇馬庁という官衙があったことから、その名に由来している。雇馬洞周辺には、巡庁があり、たくさんの巡邏軍が住んでいた。この洞の名称となった義州路(現在の統一路)は朝鮮時代の使臣たちが義州を通過し中国へ向かう主な通行路だった。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区義州路1街

塩川橋交差路から西大門駅交差路に至る統一路の東側にある巡和洞は、朝鮮時代初期に漢城府西部の盤石坊に属していた場所で、日帝強占期には和泉町と呼ばれていたが、1946年10月1日に日帝式洞名が韓国語に改められ、西大門区巡和洞となった。その後、1975年10月1日(大統領令第7816号)中区巡和洞に区域が変更された。 この洞の洞名の由来は、以前にここ一帯にあった町の巡庁洞の「巡」の字と、和泉町の「和」の字をとって、1946年に巡和洞となった。崇礼門と西小門の間にあった巡庁洞は、朝鮮時代に夜間巡察を指揮、監督していた巡庁という官衙があったために付けられた名である。 西大門駅があった東側、即ち湖岩アートホールの前の巡和ビルが建っている一帯は、朝鮮時代にスレッコルと呼ばれた。1902年に描かれたソウル地図によると、西小門の外側のこの地域をスレッコルと表示している。スレッコルは漢字で車洞、または追慕洞とも呼ばれた。スレッコルと呼ばれるようになったのは、ここに宿泊施設が密集しており、車を引いて行き来する人々が集まったためだと言われている。《漢京識略》によると、スレッコルには朝鮮時代の宣祖時期に従二位大司憲を勤めた慕堂・洪履祥(1753~1827)の子孫たちが代々暮していたと記録されている。また、塩川橋地下車道の東側一帯を昔はジェムベや紫岩洞と呼んだ。その理由は、ここに赤い光沢を放つ紫烟岩があったからだという説がある。巡庁洞には柳寛順記念館、湖岩アートホール、大韓民国臨時政府ソウル連通府址などがある。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区巡和洞

小公洞は北倉洞、太平路2街、南大門路2街・3街・4街、西小門洞、貞洞、巡和洞、義州路1街、忠正路1街、小公洞の11個の法定洞と蓬萊洞1街の一部地域の行政を担当する管轄区域の名称だ。 小公洞は朝鮮の太宗王(在位 1400~1418)の次女である慶貞公主(王女)の宮にあって俗称「小さな公主の谷」と言った所を漢字で小公主洞とし、これを略して小公洞と呼ぶようになった。 北倉洞は朝鮮の宣祖王(在位 1567~1608)の時に設置されて大同米・大同布・大同銭の出納を管掌した官庁の宣恵庁の倉庫があった北側であることから由来した。西小門洞はソウル都城8門の一つである西小門から由来し、貞洞は朝鮮の太祖李成桂(1335~1408)の継妃である神徳王后(1356~1396)の貞陵が今の貞洞4番地にあったので、「貞」の字を取って付けられた名前だ。巡和洞は終戦後、巡庁洞の「巡」の字と和泉町の「和」の字を取って巡和洞と言った。 小公洞は朝鮮初期に漢城府の5部、52坊の内、南部の会賢坊、好賢坊と西部の皇華坊、養生方、盤石坊地域に属した。日本統治時代に日本式の 町会を設置して南大門通2丁目町会が設置された。 1946年10月に既存の日本式の町名を南大門路2街洞会に変わった。1947年末に調査された小公洞事務所管轄の各洞の行政を調べてみると、北倉洞地域は北倉洞会、太平路2街地域は太平路2街洞会、南大門路2街と小公洞地域は南大門路2街洞会、南大門路3街・4街地域は南大門路3・4街洞会、西小門、貞洞地域は西小門・貞洞洞会、巡和洞地域は巡和洞会、義州路1街地域は義州路1・2街洞会、忠正路1街地域は忠正路1・2街洞会が設置された。 南大門路2街洞会は1948年4月1日に小公洞会に変わって南大門路2街と小公洞を管轄区域とし、1950年10月4日には南大門路2街、小公洞会が小公洞84番地に設置されて南大門路2街、小公洞、三角洞を管轄区域とした。1955年4月18日にソウル特別市条例第66号による行政洞制が実施されて小公洞は太平路2街、南大門路2街、北倉洞と共に興天洞事務所の管轄区域に変わった。 1970年5月18日にソウル特別市条例第613号により小公洞が設置されて小公洞、北倉洞、太平路2街、南大門路2街を管轄区域とした。1975年10月1日にソウル特別市条例第981号による管轄区域の変更により南大門路3・4街洞事務所が廃止され、その管轄区域は小公洞に統合された。1977年9月1日にソウル特別市条例第1181号により西小門洞事務所が廃洞され、その管轄区域は小公洞事務所に統合されて小公洞、北倉洞、太平路2街、南大門路2街・3街・4街、西小門洞、貞洞、巡和洞、義州路1街、忠正路1街の行政を管轄した。その後、1992年1月3日に中区条例第170号により蓬萊洞1街地域の一部が小公洞事務所の管轄に編入されて今日に至っている。 2013年基準、小公洞の面積は0.95㎢で中区全体面積の9.5%を占め、登録事業体数は3,823ヶ所だ。人口は681世帯に1,766人が居住しており、統班組織は6統、31班で構成されている。小公洞住民センター中区南大門路1道31-5(北倉洞20-5)に位置している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区北倉洞

小公洞はソウル広場から韓国銀行前の交差点に至る小公路の東・西に位置する小公洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部好賢坊に属していた所で、日本統治期に長谷川町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて小公洞となった。 この洞名は朝鮮太宗の第二女慶貞公主の宮がここにあったことから、俗称「小さい公主ゴル」、漢字では「小公主洞」と呼ばれこれを略して小公洞と呼ぶようになった。 小公洞は日清戦争(1894)を境に、清の袁世凱についてきた中国人によって華僑村ができ、その後、日本帝国主義の勢力が押し寄せた1910年以降、この町に朝鮮ホテルをはじめ京城府立図書館・京城商業化異議書・京城歯科専門学校・コロムビアレコード会社・ビクターレコード会社・府邑面自治行政雜誌社・新滿豪社などができ、産業と文化の町で桁を保持した。1960年代以降、小公洞は、韓国の銀行通りと呼ばれるほどの国内外の銀行が密集してでき始め、1970年代以降は銀行を中心に、一般企業の本社や貿易会社・弁護士・会計士・建築設計士などの事務所・旅行代理店・ホテルをはじめ、様々な協会がここにできた。 小公洞111番地の第一証券一帯は、ソンコゲ(松峴)と呼ばれ、一名、南松峴と呼ばれていた。この付近の峠には松の木が茂っていたことからこのような名称が付くようになった。 小公洞1番地には国立中央図書館があった。この図書館は1923年3月に着工、同年12月に竣工したルネッサンス様式の建物だったが、南山子供会館に移転したことでこの建物は取り払われ、1975年5月1日にロッテデパートを着工した。続いて、隣接する産業銀行の建物を壊して1988年1月28日、ロッテデパート新館が開店した。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区小公洞

地下鉄2号線市庁駅の東側出口から西小門高架車道入口までの西小門路の南北に位置する西小門洞は、朝鮮時代初期、漢城府西部荒貨房の一部に属していた所で、日本統治期に西小門町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて西大門区西小門洞なった。1975年10月1日、(大統領令第7816号)管轄区域が変更となり、中区西小門洞となった。西小門洞の洞名は、ここに都城八門の一つである西小門があり、その名前に由来する。 この洞名の由来となった西小門の本来の名称は昭徳門で、ソウル城郭の崇礼門と敦義門の中間地点にあった。この門は、1396年に他の城門と共に建築され、1472年に昭義門に改称された。しかし、日本統治期に撤去され、現在はその址だけが残っている。 西小門洞とその周辺地域は、李滉・金長生・金集・朴惇・李山海など、朝鮮時代の多くの人士が住んでいた所でもある。 現在、徳寿宮の石垣道の南側の西小門洞37番地一帯は、1897年に高宗がロシア公使館から徳寿宮に移御(王が住居を移すこと)した後に議政府を設置した場所で、ここには、最高裁判所と裁判所行政処があった。そして38番地一帯には、最高検察庁・ソウル地方高等検察庁・ソウル地方検察庁西部支庁などがあった。現在はこの一帯にソウル市立美術館とソウル支庁西小門庁舎などがある。

現代/1975(区域変更)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区西小門洞

南大門路の北側、世宗大路と小公路の間に位置する北倉洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部好賢坊と西部養生坊の一部に属していた所で、日本統治期には北米倉町と呼ばれていたが、1946年10月1日に日本式の洞名を韓国語に変えて北倉洞となった。 北倉洞の洞名はここが朝鮮時代に宣恵庁の倉庫の北側だということに由来している。日本統治期の北米倉町も北側の米倉庫という意味がある。宣恵庁は1608(光海君1)年に、常平倉を改称して大同法の実施に従い大同米・布・錢の出し入れをする機関として1753(英祖29)年に平役庁を併合したが1894(高宗31)年に廃止された。 昔はここ北倉洞と南倉洞にまたがる地域を倉洞と呼んだが、朝鮮後期に右議を務めた眉叟許穆(ホ・モク, 1595~1682年)が生まれ幼少期を過ごした場所でもある。また、この洞と小公洞の境界点には松峴と呼ばれたところがあった、ここには沈象奎(シム・サンギュ, 1766~1838年)が住んでいた。松が多く植えられている峠という意味と、松のように才能があり、実直な青松沈氏が住んでいるということから付けられた地名である。 現在北倉洞には各種の飲食店や遊興施設が密集しており、明洞、南大門市場などと共に外国人観光客が多く訪れる。 2000年3月、観光特区に指定された。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区北倉洞

万里洞峠、万里峠路の北に位置する万里洞2街は、朝鮮時代初期に漢城府南部盤石坊に属していた所で、日本統治期には蓬萊町4丁目と呼ばれていたが、1946年日本式洞名を韓国語に変えて万里洞2街となった。万里洞2街の 洞名は万里県(現在の万里洞峠)の名前に由来する。一說には、世宗の時代にハングル創製に反対していた崔万理が住んでいたことに由来するとも言われている。 万里峠は万里洞2街から麻浦区孔徳洞につながる峠で、ソウル駅一帯と麻浦一帯を結ぶ交通上重要な峠であった。この峠は比較的高く、北側にある小さな峠のエオゲと比べて大きな峠とも呼ばれた。また、昔からこの一帯は、毎年正月の満月の日になると、石投げの競技をする場所としても 有名だった。 一説として洞名の由来になったともされている崔万理は、朝鮮初期の文臣であり学者で、1444(世宗26)年に訓民正音創製に反対する上疎をしたが、真っ直ぐな性格で不正と妥協を知らない清廉な人物として知られている。 以前、万里洞2街6-1番地一帯に養正中・高校があったが、陽川区木洞に移転し、現在はそこに孫基禎体育公園がある。この公園は、1936年にドイツのベルリンで開催された夏季オリンピックのマラソン種目で金メダルを獲得した孫基禎(ソン・キジョン, 1912~2002年)を記念するために彼の母校であった養正中・高校桁に1987年に造成された。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区万里洞2街

青坡路と万里峠路が交差する所の西側一帯に位置する万里洞1街は、朝鮮時代初期に漢城府南部盤石坊に属していた所で、日本統治期には蓬萊町3丁目と呼ばれていたが、1946年日本式洞名を韓国語に変えて万里洞1街となった。万里洞1街の洞名は万里県(現在の万里洞峠)の名前に由来する。一說には、世宗の時代にハングル創製に反対していた崔万理が住んでいたことに由来するとも言われている。 昔から万里峠は高く大きいことから、大きな峠とも呼ばれた。かつては、この峠の東側に東山と呼ばれる小さな山があったが、万里材東の山ということで東山と呼ばれた。また、東山の南側には峰が一つあったが、形が膳のように平たい土でできた頂だった。この峰の土は、ソウル駅舎を建設する際に地帯が低い所を埋めるために用いられ、今ではなくなって平坦な土地に変わった。 孫基禎体育公園の一部がこの洞にある。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区万里洞1街

東湖路と昌慶宮路の間の退渓路の南北側に位置する忠武路5街は、朝鮮時代初期、漢城府南部楽善坊と誠明坊に属していた所で、日本統治期に本町5丁目と呼ばれていたが、1946年日本式洞名を韓国語に変えて忠武路5街になった。 忠武路5街の洞名は、日本統治期にジンゴゲ(泥峴、イヒョン)一帯にあった道を本町通と呼んでいたのを、壬辰倭乱の当時、外敵を退けて国と民族を救った李舜臣(イ・スンシン, 1545~1598年)将軍の諡号を取って忠武路としたことから始まった。 朝鮮時代、ここ一帯にあった墨寺洞(今日の南山の麓)には、西厓柳成龍(リュ・ソンリョン, 1542~1607年)が住んでいた。東人だった彼が西人の鄭澈の処罰を議論する際に穏健派と強硬派に分かれたが、穏健派として南山の麓に居住したことから南人とされ、 李撥は北岳山の下に居住して北人とされた。柳成龍は1566年に文科に及第した後に、吏曹判書・右議・左議政を務めた。1592年に壬辰倭乱が起きると、都体察使として軍務を総括して李舜臣と権慄などの名将を登用させた。そして領議政になって宣祖に随行して平壌に行ったが、国を誤って導いたという反対派の弾劾を受けて一時解任されたが、再び領議政になって倭乱を収拾するのに大きな役割を果たした。彼が李舜臣を推して日本水軍を撃破することにより戦争を勝利に導いたことは、墨寺洞と李舜臣が住んでいた乾川洞(マルンネゴル)が隣接していて、早くから二人の間に縁があったからである。 現在、ここの北側には墨井児童公園が造成されている。また、ここ退渓路周辺には、オートバイ商店街があり、別名オートバイ通りとも呼ばれている。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区忠武路5街

退渓路の北側、地下鉄3・4号線忠武路駅の北東部に位置する忠武路4街は、朝鮮時代初期、漢城府南部楽善坊と誠明坊に属していた所で、日本統治期に本町4丁目と呼ばれていたが、1946年に日本式洞名を韓国語に変えて忠武路4街になった。 忠武路4街の洞名は、日本統治期にジンゴゲ(泥峴、イヒョン)一帯にあった道を本町通と呼んでいたのを、壬辰倭乱の当時、外敵を退けて国と民族を救った李舜臣(イ・スンシン, 1545~1598年)将軍の諡号を取って忠武路としたことから始まった。 朝鮮時代、ここ一帯にあった生民ゴルという町に、世祖の時代に死六臣の一人である醉琴軒朴彭年(パク・チャンニョン, 1417~1456年)が住んでいた。『東国與地備攷』には、「朴彭年の家が楽善坊生民洞にあり、一本の盤松があって六臣松と呼ばれていたが、今は枯死した」と記録されている。また、忠武路3・4街、筆洞1・2街、仁峴洞1街にまたがって漢城府5部学堂の一つである南部学堂があったことから南部洞または南部ゴルと呼ばれた村には、粛宗の時代の学者尹宣挙(ユン・ソンゴ, 1610~1669年)が住んでいた。 忠武路地域は韓国映画産業の本山として有名である。1957年頃から映画会社がここに定着し始めてから、10以上の映画制作会社ができて、忠武路はまさに韓国映画のメッカで通じるようになった。また、忠武路4街地域は、印刷業者と出版社が密集している。そして、大規模な住商複合マンションの晋陽商店街が南北に長く位置している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区忠武路4街

明宝交差点の西、マルンネ路の南北に位置する草洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部薫陶坊に属していた場所で、日帝強占期に若草町と呼ばれ、1946年10月1日に日本式洞名を韓国語に変え、草洞となった。 草洞の洞名の由来には、2つの説がある。最初は、ここにあった蓋草・麻・葛などを加工せずに材料そのままで売る草物廛がある村があり、草廛ゴルまたは草廛洞と言い、これを略して草洞としたものだ。2つ目は、ここ一帯にあった村に水の味が辛くピリッとしたコショウ井戸の椒井があったことから椒井ゴルと呼んだが、草廛ゴルまたは草洞に変形したというものだ。 かつてここにあった椒井は、胃腸病に特効だと言い、長い間多くの人々が愛用してきたが、1906年にチンゴゲ(現在忠武路2・3街一帯)に下水道設置工事をしてから水の色がぼやけて味も普通の水のようになり、効能がなくなったと言う。 ここは、日帝強占期に日本人が土地と商圏を掌握した場所だった。雑誌『開闢』1924年6月号を見ると、ここに居住する日本人の世帯数は​​326で、韓国人の世帯数は​​300以下だったと言う。 また、日帝強占期にここ草洞には、若草座(薬草劇場)と西本願寺京城別院があり、若草座は後に首都劇場、スカラ劇場などに名称が変更された。西本願寺京城別院は、日本の寺院の西本願寺の複数の別院のひとつだ。現在はすべてその址だけが残っている。 現在、明宝交差点には明宝劇場、明宝プラザの後に続いて、同じ建物に2009年にオープンした明宝アートホールが位置している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区草洞

清渓川の南側、地下鉄4・5号線乙支路4街駅の東北一帯に位置する船橋洞は、朝鮮時代初期に漢城府南部明哲坊に属していたと所で、日本統治期には舟橋町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて船橋洞となった。船橋洞の洞名はここの北にあったベダリ、すなわち舟橋という橋があったことに由来し、舟橋はここに舟橋司があったことに由来するという。 舟橋は木でできた橋で、舟橋司は朝鮮後期1789年(正祖13)に設置された官庁であった。正祖は、荘祖が葬られている水原に参拝するために漢江を渡るときに、御駕の安全のために漢江の舟橋設置を担当する舟橋司を設置した。 昔、船橋洞一帯の町は、清渓川の周辺に位置し、朝鮮時代には中人以下の身分階層が主に住んでいた所だ。その後、渓川が覆蓋されて、ここと乙支路6街と乙支路7街を中心に芳山市場と平和市場などができたことでこの地域周辺は商業地域として変貌 した。 舟橋洞も乙支路3街と同様に、日本統治期に日本人が土地と商圏を掌握していた。船橋洞には自動車の付属品を扱う商店街や、電磁器機商が密集しているが、代表的な商店街は芳山散総合商店街である。芳山散総合商店街は1975年4月に芳山市場として設立され、現在は食料品、紙類、玩具、文房具、事務用品などの品物を卸売している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区船橋洞

マルンネ路と水標路が交差する位置にある苧洞2街は、朝鮮時代初期、漢城府南部薰陶坊に属していた所で、日本統治期には永樂町2丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて苧洞2街になった。 苧洞という洞名は、朝鮮時代、ここに苧布廛という麻布を扱う店があったことに由来する。昔からチョジョンゴル、苧廛洞と呼ばれてきたのが略して苧洞となった。 苧布廛 は朝鮮時代、漢城府に設置された六矣廛の一つであった。 ここには、朝鮮時代に永禧殿があった。 永禧殿は本来世祖の長女である懿叔公主の邸宅だった所で、その後、朝鮮王朝の太祖・世祖・元宗・粛宗・英祖・純祖の遺影を奉祭る所になった。 永禧殿のあった場所には現在、中部警察署が位置している。1894年に中部警察署として出発し、1910年には南部警察署、日本統治期には本町警察署に変わった。1946年9月17日に首都警察庁が創設され、管轄の警察署の名称を改正する際に本町警察署を中部警察署と改称した。 苧洞2街69番地には、永楽教会がある。この場所には日本統治期に天理教京城分所があったが、1945年に韓景職牧師をはじめとする北朝鮮出身のキリスト教信者27人がベタニア伝道教会を立てたのが永楽教会の始まりである。 その他にも苧洞2街には仁済大学校ソウル白病院、永楽教会100周年記念館、古堂記念館、乙支路サザエ通りなどがある。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区苧洞2街

清渓川の観水橋南側、地下鉄3号線乙支路3街駅4・5番出入口の前方一帯に位置する笠井洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部誠明坊と薰陶坊に属していた所で、日本統治期には笠井町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて笠井洞となった。 笠井洞の洞名は、カッパン、すなわち笠を作る家に井戸があったことから「カッパンウムルゴル」と呼ばれたことに由来している。 笠井洞は商業を中心とする地域だが、清渓川の川辺は朝鮮時代に中人や庶民が主に居住した。開港後、鍾路は民族商人が商圏を支えていたが、忠武路を中心に日本の勢力が、小公洞と明洞を中心に中国の商人たちが根を下ろした。日清戦争後、中国の商人は清渓川方面に押し出された。 日本統治期には、乙支路の南を中心舞台とした日本の商圏と、鍾路を中心とした民族系の商圏が互いに競争を繰り広げることで、自然と笠井洞・水標洞・山林洞地域がこれらの商圏争いの緩衝地帯の役割を果たした。 笠井洞の北には、ハリッ橋・河浪橋が架かって。この橋が河南尉の家の左側にあったことにその名前が由来あるとされ、また、この橋の付近に樺榴のタンスを専門的に扱う店があったことから、欌籠籠欌橋と言っていたが、樺榴橋と短くなり、さらにハリッキョ・ 河浪橋・河橋・花橋などの名称に変わったという説もある。石橋のこの橋の西側側面に「壬申改造」という4文字が刻まれていて、改築年を推測することはできるが、清渓川の覆蓋工事の際に撤去された。 笠井洞の北清渓川変更には、モータ・ボイラー・機械工具・鉄材・鉄筋などを扱う電気・機械用品専門店が密集している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区笠井洞

PJホテルとシンソン商店街を中心に、マルンネ路の南北に位置する仁峴洞2街は、朝鮮時代初期、漢城府南部誠明坊と楽善坊の一部に属していた所で、日本統治期には桜井町2丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて仁峴洞2街になった。 この洞名は、仁峴洞1街・仁峴洞2街・芸館洞にまたがる「インソンブッジェ」という峠の名前に由来したものである。インソンブッジェは峠の下に宣祖の第七子である仁城君瑛が住んでいたことから、仁城君の家がある峠という意味だ。それを漢字で仁城府峴・仁城府峴・仁峴とした。 仁峴洞2街は、朝鮮時代に日本使臣の宿所の東平館があり、この一帯を倭館洞と呼んだ。東平館は日本使者が来て滞在した場所で、朝鮮初期から日本との往来があり、彼らが滞在する場所を設けたが、日本人が秩序を破るので、1420年にはここに藍護官を置いて監視させる一方、東平館の周囲を塀で囲んだという。 1445年には、日本人が塀を乗り越えて民家に押し入って乱暴し、義禁府がそれを逮捕して拘禁したということがあり、その後の三浦倭乱の時にも義禁府が10人を監禁するなど、東平館に滞在する日本人が起こした弊害が多かった。壬辰倭乱の後、東平館は日本使節の上京が許されず閉鎖された。 ここには 仁峴市場、シンソン商店街、晋陽商店街・三豊商店街の一部、PJホテル、徳寿中学校などがある。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区仁峴洞2街

マルンネ路の南北、三豊商店街とシンソン商店街の西側に位置する仁峴洞1街は、朝鮮時代初期、漢城府南部誠明坊に属していた所で、日本統治期には桜井町1丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて仁峴洞1街となった。 この洞名は、仁峴洞1街・仁峴洞2街・芸館洞にまたがる「インソンブッジェ」という峠の名前に由来したものである。インソンブッジェは峠の下に宣祖の第七子である仁城君瑛が住んでいたことから、仁城君の家がある峠という意味だ。それを漢字で仁城府峴・仁城府峴・仁峴とした。 昔、この一帯には乾川洞と呼ばれる町があった。この町は、乾いた川(乾川)があったことから乾川洞と呼ばれたが、この小川は、雨が降らない日は底が乾き、通行路として使用するが、雨が降ると川になった。宣祖の時代の許筠の兄、許葑は『惺所覆瓿稿』巻24で、この地域は国祖以来、名人がたくさん誕生した所だとある。 マルンネの近くには忠武公李舜臣をはじめ、端宗の時代に領議政を務めた鄭麟趾・豆満江虎と言われた金宗瑞・世祖が自分の諸葛孔明だといって離さなかった梁誠之・洪吉童伝で有名な許筠・李舜臣を登用した柳成龍などが住んでいた。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区仁峴洞1街

乙支路洞は乙支路3・4・5街洞、舟橋洞、芳山洞、笠井洞、草洞、山林洞、仁峴洞1街洞、苧洞2街洞の10個の法定洞の行政を担当する管轄区域の名称だ。 乙支路洞は1914年に今の乙支路入口に該当する付近をクリゲ、或いは銅峴(ドンヒョン)と言ったのだが、日本統治時代にはこれを黄金町6丁目という日本式の名前で呼んだ。1946年10月1日にソウルの日本式の町名を韓国語に変える時、世宗路・忠武路等のように韓国の偉人の一人である高句麗の乙支文徳(ウルジムンドク)将軍の「乙支」(姓)を取って付けられた。 舟橋道は村にあった船の橋、即ち舟橋と呼ばれた橋があることから由来し、舟橋はここに舟橋司があったことから由来した。又、芳山洞は付近にある假山、又は造山と呼んでいた所に植えられていたムグンファ(ムクゲ)の花の香りから由来し、笠井洞は笠を作る家に井戸があったので町の名前をカッパンウムルコル(笠屋井戸谷)と言ったことから由来した。山林洞はサルリモッコルという自然の村の名称から由来し、草洞は草廛洞(チョジョンドン)の略称で今もチョジョンコルと呼ばれており、蓋草・麻・葛等を売る草物廛がある村という意味で付いた名前だ。仁峴洞は朝鮮の宣祖王(在位 1567~1608)の息子である仁城君の家のある町だったので仁城ブッジェ、漢字名で仁城府峴・仁城峴と言い、これを略して仁峴と言ったことから由来した。又、苧洞は苧を取扱う商店の苧布廛があったことから洞名が由来した。 乙支路洞は朝鮮初期に漢城府の5部、52坊の内、南部の薰陶坊、誠明坊、明哲坊地域に属した。日本統治時代には日本式の町会を設置して黃金町3丁目町会、4丁目町会、5丁目町会が設置された。 1946年10月に乙支路3街洞会、4街洞会、5街洞会に変わって乙支路3・4・5街地域の行政を担当した。1947年末に調査された乙支路洞事務所管内の各洞に対して調べてみると、舟橋洞は舟橋洞会、芳山洞は芳山洞会、笠井洞は笠井洞会、山林洞は山林洞会、草洞は草洞会、仁峴洞1街は仁峴洞会、苧洞2街洞会に設置されて行政を担当した。 その後、1955年4月18日にソウル特別市条例第613号により乙支路3街洞事務所が新設されてその管内に乙支路3街、山林洞、笠井洞が属し、「乙支路4街洞事務所の管内には舟橋洞、芳山洞、乙支路4街、五壮洞と統合されて乙支路4・5街洞事務所が新設された。 1985年9月1日に行政洞の統合及び分洞措置により乙支路3・4・5街洞事務所の管轄区域から五壮洞と忠武路3街が除外されて乙支路3・4・5街、舟橋洞、芳山洞、笠井洞、山林洞、草洞、仁峴洞1街、苧洞2街の10洞を管轄区域とした。2005年3月15日にソウル特別市中区条例第631号により乙支路3・4・5街洞を乙支路洞に名称を変更して今日に至っている。 2013年基準、乙支路洞の面積は0.60㎢で中区全体面積の6.0%を占め、登録事業体数は9,814ヶ所だ。人口は1,322世帯に2,022人が居住しており、統班組織は10統、54班で構成されている。乙支路洞住民センターは中区忠武路9道19(乙支路3街65-13)に位置している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区乙支路3街

乙支路6街は東大門歴史文化公園と訓練院公園の間に、国立医療院を中心に広く位置している乙支路6街は、朝鮮時代初期、漢城府南部明哲坊に属していた所で、日本統治期には 黄金町6丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて乙支路6街になった。 乙支路の洞名は世宗路・忠武路など大韓民国の歴史的偉人の一人である高句麗の名将乙支文徳の姓を取ったものである。1914年現在の乙支路入口に該当する付近をクリゲ(乙支路1街と乙支路2街の間にあった峠)またはドンヒョン(銅峴)と呼ばれていたが、この意味に漢字を当てはめて付けた名が黄金町6丁目で、1946年に乙支路6街に改称された。 現在、国立医療院がある地域は、朝鮮初期の太祖の時代から1894(高宗31)年まで、武官を選ぶ科試を施行し、兵士の武術訓練や兵書、戦陣などの講習を担っていた 訓練院があった。それでここ一帯は訓練院洞とも呼ばれた。 大韓帝国の時代、日本が丁未7条約を強制的に締結した後に、韓国軍を強制的に解散させた場所もこの訓練院だった。日本は1907年8月1日、訓練院で韓国軍の解散を強行した。この事実を知っていた示威大隊第1大隊の朴昇煥大隊長が、韓国軍の解散に反対するために自決した。すると、それをきっかけに訓練院で強制的に武装解除された韓国の軍人たちが南大門付近に進出し、日本軍を相手に武力で抵抗した。この事件はその後、本格的な武装抗日闘争の始まりとなった。 昔、乙支路5街・乙支路6街・芳山洞にまたがる地域を蓮坊洞と呼んでいたが、これはそこに蓮の花が自生していたことにその名称の由来がある。ここの蓮の実は大きく太いことで有名で、ヨンパプ洞と呼ばれていたのが蓮坊(ヨンバン)洞に変わった。ここの蓮の実を食べると色白になり、艶が出るということで、女性たちが先を争って訪れたという。 乙支路6街の北清渓川には5間の虹霓門で築造した石橋の五間水橋・五間水門があった。この水門は1907(光武11)年に京城府土木局長の劉猛が、清渓川水の流速の妨げになるとして取り壊してしまった。この水門のすぐ南には五間水門を縮小した二間水門があったが、これも日本統治期に撤去された。 朝鮮時代、乙支路6街の北側の清渓川付近には、中以下の人々が主に集まって住んでいた。1957年広橋方面から清渓川の覆蓋が始まり、乙支路6街を経て馬場洞まで覆蓋工事が完了した後に、その沿道に衣類専門市場の平和市場商店街が新築され、乙支路6街は商業地域へと変身した。 現在ここは、平和市場をはじめ、ドゥサンタワー・ミリオレ・ハローAPM・グッドモーニングシティなどが位置しており、伝統的な在来市場と近代的なショッピングモールが混在する大規模なショッピングタウンとなっている。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区乙支路6街

乙支路と東湖路が交差する乙支路5街交差点周辺一帯に位置する乙支路5街は、朝鮮時代初期、漢城府南部明哲坊に属していた地域で、日本統治期には黄金町5丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて乙支路5街になった。 乙支路の洞名は世宗路・忠武路など大韓民国の歴史的偉人の一人である高句麗の名将乙支文徳の姓を取ったものである。1914年現在の乙支路入口に該当する付近をクリゲ(乙支路1街と乙支路2街の間にあった峠)またはドンヒョン(銅峴)と呼ばれていたが、この意味に漢字を当てはめて付けた名が黄金町5丁目で、1946年に乙支路5街に改称された。 乙支路5街は朝鮮時代に南村と呼ばれていた地域で、職人・商人・下級官吏が多く住んでいた。ここにはチョンチャ橋・淸字橋という橋があったが、これはこの橋に「淸」の字が刻まれていたことから付けられた名前だ。それでこの付近を清橋洞と呼んだ。 日本統治期、ここには乙支市場があったが、東大門市場・芳山市場からも続いていた。この市場は、1932年7月に日本人が建てた黄金私設市場から始まった。1939年に黄金町市場に変わったが、統治からの解放後、敵産(解放後、アメリカの軍政が日本統治期に日本人が設立した企業・所有していた不動産・持ち込んだが持って行かなかった動産などを総称する言葉)として処理され、1948年に黄金市場となったが、朝鮮戦争で破壊され、一般の商店街として建設された。 乙支路5街は、日本統治期に日本人が土地と商圏を掌握していた地域だった。雑誌『開闢』1924年6月号を見ると、当時の乙支路5街に居住する日本人の住宅数は120戸で、朝鮮人は300戸に満たないとされている。その理由は、乙支路5街に住んでいた朝鮮人が日本人の勢力に押されて麻浦や桃花洞・青坡洞に追いやられたということだ。 ここの北東側には広い訓練院公園があり、 乙支路沿いにはステンレス商店街がある。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区乙支路5街

地下鉄2・5号線の乙支路4街駅周辺一帯に位置する乙支路4街は、朝鮮時代初期、漢城府南部誠明坊と楽善坊に属していた所で、日本統治期には黄金町4丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて乙支路4街になった。 乙支路の洞名は世宗路・忠武路など大韓民国の歴史的偉人の一人である高句麗の名将乙支文徳の姓を取ったものである。1914年現在の乙支路入口に該当する付近をクリゲ(乙支路1街と乙支路2街の間にあった峠)またはドンヒョン(銅峴)と呼ばれていたが、この意味に漢字を当てはめて付けた名が黄金町4丁目で、1946年に乙支路4街に改称された。 昔、乙支路4街と乙支路5街の間に靑寧橋があった。この橋の名前は、成宗の三番目の娘、恭愼翁主と結婚した靑寧尉・韓景琛が付近に住んでいたことからそう呼ばれていた。また、乙支路4街と仁峴洞2街にかけてドクウムルゴルがあったが、井戸の形がまるで石臼のようだということにその名前の由来がある。 乙支路4街は、日本統治期、多くの日本人が土地と商圏を掌握していた。1924年当時の住宅の現況をみると、韓国人は313戸、日本人226戸が居住していた。1910年代末には、乙支路4街に黄金館と光武台という無声映画を上映する映画館があったとされているが、この映画館は1930年代後半に閉館した。その後、ここには国都劇場が新たにできた。国都劇場は1946年10月15日に設立されたが、ソウル中心部の映画館の中で邦画を多く上映する劇場だった。 乙支路4街も乙支路3街と同様に、建築資材を扱う商店街が形成されており、キッチン家具店やインテリア専門店も多い。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区乙支路4街

地下鉄2・3号線乙支路3街駅周辺に位置する乙支路3街は、朝鮮時代初期、漢城府南部薰陶坊と誠明坊に属していた所で、日本統治期には黄金町3丁目と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて乙支路3街になった。 乙支路の洞名は世宗路・忠武路など大韓民国の歴史的偉人の一人である高句麗の名将乙支文徳の姓を取ったものである。1914年現在の乙支路入口に該当する付近をクリゲ(乙支路1街と乙支路2街の間にあった峠)またはドンヒョン(銅峴)と呼ばれていたが、この意味に漢字を当てはめて付けた名が黄金町3丁目で、1946年に乙支路3街に改称された。 乙支路3街と笠井洞・水標洞にまたがっていた村をシグンゴル・詩琴洞・詩洞と呼んでいたが、その由来は、英祖の時代の学者金昌翕(1653~1722年)が、水標橋の東側に住んでいて、友人と詩琴(時を詠ん琴を弾くこと)を楽しんだからである。 また、乙支路3街・苧洞2街・草洞にまたがる町には履物を売る店があったことから、シンジョンゴルと予備、漢字で履洞と呼んだ。この町には、正祖の婿、洪顯周の家である金玉堂があった。 統治からの解放直後。乙支路3街には、多くの古物商があったというが、今も乙支路3街を通ると、道の両側にある店のほとんどが、セメント代理店、タイルや浴室用資材を陳列している建築資材取り扱い商店街と金物商店街、家具商店街などが集まっている。この地域に建築資材商が集まっているのは、朝鮮戦争で乙支路地域が大きく破壊された関係で再建が活発だったためで、その後、1960年代から都市開発と建物の新築が流行したことにより定着し、1970年代半ばから始まった江南の開発と、1990年初めの新都市建設のブームに乗って好況を博した。 現在ここには乙支路洞住民センターをはじめ、インテリア・建築資材・照明関連商店街と印刷所・出版社などが密集している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区乙支路3街

中区庁交差点から五壮洞交差点に至るマルンネ路の南北に位置する五壮洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部楽善坊と明哲坊のそれぞれ一部に属し。日本統治期は初音町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式洞名を韓国語に変えて五壮洞となった。 五壮洞の洞名は、昔ここに5人の壮士が住んでいたことから「五壮士ゴル」と呼んでいたことに由来する。この「五壮士ゴル」を漢字にして五壮洞とした。しかし、ここで言う5人の壮士が誰なのかはわからず、いつの時代なのかも推測できない。 五壮洞と礼館洞の間に、は南山から流れてくる墨寺洞川があった。ここにあった橋を 無沈橋または沈橋といったが、これは梅雨になると橋が水に浸かったからだ。また、木でできた橋もあり、舟橋と呼んだ。現在、この小川は老人亭址の上側を除いては、ほとんど覆蓋された。 五壮洞には1957年1月21日に開設された中部市場がある。この市場は、かつて店舗数が800以上に達し、開設圏の外にも店舗ができ、その数も100以上になった。取り扱い品目と店舗数をみると、乾物店が最も多く、現在も乾物といえば中部市場が思い浮かぶ。 また、ここには有名な五壮洞咸興冷麺通りがある。この通りは朝鮮戦争以後、ここに定着した咸鏡道出身の避難民が出した咸興冷麺専門食堂を基に盛業した特化通りである。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区五壮洞

中区庁交差点を中心に位置している芸館洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部楽善坊に該当する地域で、日帝強占期に花園町と呼ばれ、1946年10月1日に日本式洞名を韓国語に変え、芸館洞となった。芸館洞の洞名は朝鮮時代、ここに芸館、すなわち校書館という官庁があったことから由来した。 校書館は、朝鮮時代の書籍の出版・出納に関する仕事と香祝・印篆の管理などを担当した機関だ。ここには内館と外館があり、景福宮内の司甕院の南側には、宮殿の中で同じ業務を行う内館が、外館は南部薫陶坊で忠武路2街から南山洞に入る入口にあった。そこにも校書館洞という村があった。校書館が薫陶坊からここに移した理由は定かではない。 芸館洞120-1番地には、中区の行政を管轄する中区庁がある。現在の中区庁舎は1979年、地上5階・地下1階に竣工された。以後1985年増築と2010年改装により、地上7階・地下3階のすっきりとした外観を備えた現在の姿となった。 中区庁交差点から地下鉄2・5号線乙支路4街駅に至る昌慶宮路北側の沿道には家具商店街が、南側の沿道には印刷関連会社が密集している。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区芸館洞

光熙洞交差点から退渓路5街の交差点に至る退渓路の南・北に位置する双林洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部明哲坊に属していた所で、日本統治期は並木町と呼ばれていたが、1946年日本式洞名を韓国語に変えて双林洞となった。 双林洞の洞名は村の入り口に盗賊に備えて警備した一対の里門に由来する。 本来は双里門洞(サンリムンドン)と呼ばれていたが音が変化して双林洞(サンリムドン)になったが、サンイムンゴル・サンイムッコル・双門洞・双里とも呼ばれた。 双林洞の由来となった里門ができたのは、世祖の時代に、「京城の各部落に里門を作って立てよ」という伝旨を漢城府に送ったことから始まる。兵曹の啓請(王に謁見を求めること)で、各里門の中の人口を参酌して、10戸以下は毎晩2人ずつ、20戸以下は3人ずつ、30戸以下は4人ずつ、それ以上は毎晩5~6人ずつ村の人が出てきて里門で宿直をし、外坊でも民家が密集した場所であれば里門を設置するようにした。 成宗の時代にも盗賊に対する警備だけでなく、法で禁じていた贅沢な宴や騒音が発生した時にも、里問の宿直者が取り締まることになっていた。壬辰倭乱により、ソウルに残っていた100以上の里門はほとんど焼失したまま復旧されず、純宗・憲宗の時代には鐘路区公平洞にある里門址と、ここ双林洞の里門址、そしていくつかの洞名として残っているだけで、ソウルの里門は姿を消してた。 1890年までに、ここには鍛冶屋が多く栄えていたことから、プルムジェ(治峴)と呼ばれていたが、これは南山の山並みが伸びてきてできた峠で、現在は削られて見ることはできない。峠を挟んで左右に鍛冶屋が並んでいたことから、この峠をプルムジェまたは鍛冶屋峠と呼んだ。このプルムジェ一帯には日本統治期に100軒の鍛冶屋があったという。 ここには朝鮮初期の開国功臣で領議政を務めた南在(ナム・ジェ, 1351~1419年)が住んでいた。この家には、形がまるで飼葉桶のような岩があり、この岩を飼い葉桶岩、漢字で槽岩と言った。それで南在の家のことを槽岩楼と呼んだ。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区双林洞

清渓川の世運橋の南側、大林商店街の左右に位置する山林洞は、朝鮮時代初期、漢城府南部誠明坊の地域で、日本統治期には林町と呼ばれていたが、1946年10月1日、日本式の洞名を韓国語に変えて山林洞となった。 山林洞の洞名は、昔ここ一帯がサルリムッコルと呼ばれたことに由来している。しかし、ここはサルリムッコルの意味である森林とは関係のない川辺の平地にできた町で、この洞名が似合わない面がある。しかし、ここは今は平地であるが、東・西側の船橋洞・笠井洞は地帯が低く、自然の地形にその名称の由来があると見ることもできる。 大林商店街の東側の付近に、昔、井戸の底が岩でできた岩井戸がある石井洞という村と、井戸端に瓦とレンガを敷いた煉瓦井戸がある鍊井洞という村があった。そして三台洞という村は、世運商店街の東側のあたりの丘に高台のような丘が3つ並んでいることがその名の由来となった。また、馬蹄橋は笠井洞にあるハリッキョ橋とセギョン橋の間にある橋で、地形が馬蹄のようだということから付けられた名前である。 山林洞の代表的な建物は、大林商店街である。この商店街は、清渓川復元工事以前は、世運商店街とつながっていた商店街だったが、現在は12階の住居店舗複合マンションで、1~4階は商店街、6階からはアパートとなっている。商店街の取り扱い品目は、主に電子・家電・コンピュータ・カメラ・時計などである。特にここ山林洞は機械部品・工具・電気用品などを扱う商店街が集中し、専門街となっている。

現代/1946(洞名制定)

文化/生活様式/その他

ソウル特別市中区山林洞